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2025/09/10

歌 木村聡と2人のディーヴァ コンサート

 日時:2025.9.7(日) 1400開演

場所:横濱ノアスコンサートサロン、観客数は50名程度。

出演:木村聡(バリトン)、ディーヴァとは歌姫のことで、末広貴美子(メゾソプラノ)、

中島壽美枝(ソプラノ)、ピアノ伴奏:神保道子

曲は、添付のプログラムに示してある。オペラのアリアだけでなく、ミュージカルの曲もある。3大ミュージカルは、ここにあるレ・ミゼラブル、キャッツ以外に屋根の上のヴァイオリン弾き、またはオペラ座の怪人、木村さんはなんて言っていたか。

ホールは、舞台側のスパンは約6m×6mで、観客席側は、幅が約5mで奥行きも約5mで、その背後にはビロードのカーテンがあり、その中は楽屋となっているようだ。ビロードのカーテンは、舞台を見て右側の壁一面と、後壁の楽屋との境にある。多分これは平行壁によりフラッターエコー防止のためと、歌手に対する適度の吸音のためと思う。

トイレは観客席の脇の、舞台を見て左側の舞台に近いところに、男女別々にひとつずつあり、コンサート時には。そのゾーンは引き戸(板戸)で閉まるようになっている。舞台と観客席に間は平土間になっている。一般的には舞台は観客席より1m近く上がっていて、視覚的に見やすいように配慮していることが多いが、これによって舞台と観客の間に距離が出来てしまうように感じる。舞台と観客席が同一フロアだと、歌手が観客の間を行き来することができ、舞台と観客の一体化の可能性があるかたちだ。

空間が狭いこともあり、残響も調整されていて、カヴァレリア・ルスティカーナなど歌は迫力を持って聞こえたが、平土間のために、私の席は7列後ろで、歌手はよく見えなかった。ただ木村さんが、後半のはじめに、後ろの楽屋から出て、カルメンの「闘牛士の歌」を唄いながら、観客に握手をしつつ舞台中央へ歩いて行ったときには、観客はオペラ「カルメン」の世界に入った気がして、これが観客席と一体化になれるヒントになった気がした。部屋は長方形なので、現在の位置から、舞台右手のビロードのカーテン側に配置し、観客席もそれに対して長手方向に舞台を取り囲むような配置にしたら、観客の列はもう少しになり、舞台に観客がそれぞれ近くになるような気がした。

天井高は2.52.6mで、エアコンが天井から突き出している。コンサートの時にはその騒音に対してはどんな対処をしているのだろうか。多分コンサートの時には、エアコンは弱か停止しているのかもしれない。また同時に換気はどうしているのだろうか。歌の間には歌手はマイクをもって話しているが、スピーカがどこにあるのかよくわからず、しかもその音声はよく聞きとれなかった。玄関扉は二重の扉で、コンサートの前はガラスの框戸を1重で用いていたが、コンサートの時には、さらに内側に防音扉を設置してあり、二重に防音していて、道路騒音は全く聞こえない。目の前は、岡野町交差点で広い道路があり、道路騒音がうるさい。車を運転していた時にはよくとおった道だ。

このコンサートホールは、規模は小さく、不便も感じたが、観客と舞台が一体となれる可能性を感じた。













2025/09/05

建築音響の交流の歴史 その18 ギターの由来

 先日ヴァイオリニストのジル・アパップのコンサートの切符について、ピアニストの高木さんに入金のメールをしたときに、返信にギターの話が書かれていて、さらに手塚健旨氏が書いたギターのことについての文章が添付されていた。これを見たら建築音響の交流の歴史の中に入れられるような気がして、書きはじめた。ギターを始めて日本に持ち込んだのはフランシスコ・ザビエルと書かれている。1549年のことである。以下は手塚氏の現代ギターに連載された天正遣欧少年使節に関する文章です。https://drive.google.com/file/d/1fhs4RaJGCrq5LRe3NswYgfZg6bSOuvfs/view?usp=sharing

 手塚氏の「「ギター前史」斜め読み――私たちはいかにしてギターを手にすることができたのか――」という文章は、1582年に天正遣欧少年使節が、ポルトガルのリスボンに派遣された。少年たちは事前にアレッサンドロ・ヴァリアーノ神父によってヴィオラ(ギターのこと)やクラヴォ(持ち運びができる簡易なオルガン)を習っていたようだ。

スペインの枢機卿から少年たちに贈られた楽器の目録には、クラヴォ、ハープ、リュート、ビオラ(ギター)と書かれている。これらはまさに秀吉の前で演奏された楽器ばかりで、少年使節が日本に持ち帰って、秀吉に曲を披露したのち、楽器を召し上げ有られてしまった。その結果、その後、ギター等はすたれてしまった。

全体の筋はその流れだが、その中に少年使節団が所有していた楽器にビオラという言葉があり、それが、ヴァイオリンのように弓で引くビオラという楽器ではなく、これがギターだということを様々な角度から証明した感じのものだ。ただスペインやポルトガルにはその当時のギターの歴史は途絶えてしまっていて、しかも日本では秀吉に召し上げられてしまったままそれも途絶えてしまった。どんな曲を演奏していたかも気になるところだが、当時の天正遣欧使節はキリスト教に関係しているので、それに関する内容だと想像できるが、それ以上は分からない。ギターで賛美歌とというのはよくわからないが、YOUTUBEで、ギターで賛美歌を弾いているのを聴くとしみじみした感じの曲になっている。ギターは明治維新の時、また第二次世界大戦の敗戦の後など、大きく影響を受けて今は、主流を占める楽器といってよい。いいか悪いかは別として、現在は三味線なんか足元にも及ばない。江戸時代だったら主流だったのに。

 日本の戦国時代に、国境をものともせず、フランシスコ・ザビエルがギターとクラヴォをもって、日本にキリスト教の布教に勤めることが出来たように、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさんが、その他の活動家と共に831日にバルセロナからガザに向けて、食料・薬などの支援物資を積んで船で出港し、ガザで人々に手渡そうとしている。ただ残念なことに、その時、荒天で、のちさらに91日、イタリア南部シチリア島から、ガザに向けて船で出航し、9月中旬にはガザに到着する予定だそうだ。その時には70席の船団になっているようだ。21世紀の現在、ザビエルや天正遣欧少年使節の時から比べれば、スペインからガザへは技術的には簡単なようで、ガザで食料品などを手渡すことは、イスラエルがガザの国境を封鎖していて、イスラエルの妨害があると思われるので、何とか無事にガザに到着して支援物資を渡してほしい。

2025/08/30

宮地録音スタジオの紹介

2021年の夏、倉敷にある宮地録音スタジオが竣工し、音響測定にいっていらい、音沙汰はなかったが、最近YOUTUBEで、宮地さんの録音スタジオでの演奏風景が見られるようになった。Ryo Miyachi-YouTube で宮地さんの演奏風景を見ると、倉敷にある録音スタジオで演奏されたものはYouTubeの中のSo far way / Ryo Miyachi - Takuma AsadaMinas / Ryo Miyachi - Takuma Asadaというものと、acustica-Ryo Miyachi  x  Yosuke Onuma x KanThe Elements / Ryo Miyachi "acustica" feat. Yosuke Onuma & Kan4つがあった(今のところ)。いずれも音質は大変クリアだ。いずれの曲もたんたんとしていて、物静かな感じで、何か自然を感じる響きのある曲だ。宮地録音スタジオの施主は宮地 遼 氏、建築設計は井上商環境設計株式会社、施工は株式会社 藤木工務店、宮地さんはベースギター演奏者である。

写真:So far way / Ryo Miyachi - Takuma Asada

写真:Minas / Ryo Miyachi - Takuma Asada(左:宮地さん)


写真:acustica-Ryo Miyachi  x  Yosuke Onuma x Kan (左:宮地さん)

写真:The Elements / Ryo Miyachi "acustica" feat. Yosuke Onuma & Kan

宮地さんは、板橋のRebornWoodスタジオ(トライビートスタジオ)でJAZZを演奏しYouTubeにアップしていて、そのスタジオを気にいってくれて、わたしを紹介してくれたようだ。2020年のことだ。                                                    

この建物がほぼ竣工して、音響測定をしたのは、2021 7 6 日(火)である。設計では、スタジオは可動間仕切りで仕切られるのようになっていて、簡易的にスタジオAとスタジオB と名付けた。上記YouTubeではいずれもスタジオBの場所でとられている。スタジオAは主にピアノを対象としたゾーンで、多少反射性(吸音率0.24/500Hz)で、スタジオBは、主にドラムを対象としたゾーンで、多少吸音性(吸音率0.30/500Hz)である。可動間仕切りを用いない場合の残響時間および閉じた場合のそれぞれの残響時間を示す。またそれから吸音率を求め、グラフに示している。またコントロールルームは更に演奏場所として用いることもできる。吸音率の変化は、内装の不燃木材の板幅とスリットの間隔で変化させている。

残響時間の測定方法はISO3382-1に示されているインパルス積分法による残響時間測定による。残響時間の音源は、TSP信号(スイープパルス)をアンプで増幅し、無指向性12面体スピーカ(TOA AN-SP1212)および箱型スピーカ(低音用30cmウーハーFOSTEX FW305))から放射した。音響測定用ソフトはDSSF3を用いた。測定時の写真も併せて示した。

また20251012日(日)に新百合丘トウエンティワンホールで、宮地さんのグループacoustica がコンサートをやる予定だそうだ。



写真:スタジオB方向を見た。当時コロナが流行り始めていて、マスクをしている。


写真:スタジオA方向を見た。左側に可動間仕切りが見える。

写真:コントロールルーム 録音機材はまだ搬入されていない。

写真:残響時間測定システム













2025/08/19

芥川 也寸志 生誕100年 誘う童心 目指した「みんなの音楽」

上記は、朝日新聞2025630日の片山杜秀の蛙鳴梟聴(あめいきょうちょう)の記事の表題である。芥川也寸志は作曲家で生誕100年。誕生日は712日だそうだ。「シンフォニーから映画音楽まで。狭い音域での足繁き往来が芥川の真骨頂。NHK大河ドラマ「赤穂浪士」のテーマ曲が真骨頂。そういう型の旋律は世界の子守歌や童歌に多い。狭い音域は原初的。幼児にも歌いやすい。」 NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」は1964年に放映されたものだ。本文中に、「芥川が日本と国交の途絶えていたソ連を初訪問し、中国にも行ったのは、1954年の10月から翌年2月にかけて。」

 今でも大河ドラマ「赤穂浪士」のテーマ曲はよく覚えていて、口ずさむことができるほどだ。目指したのは「みんなの音楽」と言うことがよくわかる。それで思い出したのは、小泉文夫の日本の音楽のトラコルド理論である。オクターブに至らない音程で、あらゆる民謡の中で強固な単位をなすのがテトラコルドである。この二人の間に、このテトラコルドに関する共通点があるかもしれない。 

 芥川也寸志 生誕100年の私の文章は、以下のブログの「建築音響の交流の歴史その16 童謡、さらにテトラコルドに関連して」 http://yab-onkyo.blogspot.com/2025/07/16.htmlの続きに当たるようだ。小泉文夫が、日本伝統音楽の研究1 <民謡研究の方法と音階の基本構造> を音楽の友社で昭和33年に出版している。昭和33年は1958年で、小泉のこの年代は芥川の活動年代と似た位置にある。小泉文夫は、クラシック音楽に対して、世界の音楽と相対化させてみた。芥川也寸志は「「カチュウシャ」や「ともしび」を歌い、ショスタコーヴィッチの交響曲を聴く。違和感がない。ソ連の大衆音楽と芸術音楽には何か横串が通っている。中略、、、見本はどうか。浪曲とジャズ歌謡と山田耕筰。串が通らない。一個人の中でさえ趣味が分裂。おかしい。」「親ソ、親中、新アジア。新米国家たる日本の戦後史で、常に芥川は逆張りだった。芸術音楽と大衆音楽を高い理想のもとに織りあわせて「みんなの音楽」を結実させる試みも幻のまま。しかし童心を喚起してユートピアへの旅に誘う彼の作品は、今なお「みんなの音楽」を待望してやまない。」 しかしソ連だけではないかもしれない。ウイーンではオペラやヨハン・シュトラウスもまじえて、ひとびとが音楽を楽しんでいることがよくわかる。当時NHKの建築部にいて、NHKホールやスタジオを施主側で設計した浅野さんとさらにホラインと東京フォーラムの共同設計をしていた人たちとウイーンの森のレストランに言ったら、ワインが出てきたらヴァイオリン弾きも来て、多分ウイーンワルツを弾いてくれた。これらについてウイーンも一本串が通っていると感じられる。多分串が通っているのはソ連やウイーンだけではない。浅野さんは多分1933年ごろの生まれである。芥川より少し若い。芥川の先生だった伊福部昭の曲を私に紹介してくれたのも浅野さんだった。

 多分日本のクラシック音楽は、明治維新の時に、日本にもともとあった音楽を否定しながら鹿鳴館文化のように、輸入したこと、また第二次世界大戦によってわが国は敗戦になって、さらにこの傾向が強くなったことがあげられるように思う。戦後すぐ歌舞伎座で赤穂浪士の上演が禁じられたのは進駐軍が仕返しを恐れたからだと言われている。今ではたいへん人気の演目なのに、戦後すぐにはいろいろ制限があったに違いない。

 そういえば、服部幸雄が書いた「大いなる小屋」(1986年平凡社刊)は、江戸時代から続く芝居小屋に焦点を当てたものである。最初のページには、享和三年(1803)刊『戯場訓蒙図彙(しばいきんもうづ)』を紹介している。戯作者式亭三馬が著したもので、劇場を一つの国と見なし、「戯作者流の一趣向と承知のうえで、劇場と観客と演劇そのもの、その三つを一つに統一する観念上の総体として「戯場国」となづける一宇宙を設定、、、」 本の最後のページには「国なり東京都なりの公共施設として、江戸様式の「大いなる小屋」の復元することはできまいか。私は、そこで江戸歌舞伎が復活する日を夢見ているのである。」 この本は私にも大いに影響を与え、私の芝居小屋の音響調査のきっかけを作ってくれた。残念ながら新たな芝居小屋が復元するというような話はいまだなく、最近は川越で芝居小屋の鶴川座だったところが、私も参加していたが、住民の復原活動にもかかわらず、解体され、ホテルに立て直されてしまったこともある。服部幸雄は1932年生まれ、小泉文夫は1927年生まれ、芥川也寸志は1925年生まれで、ほぼ同時代の活動年代である。明治維新および第二次世界大戦の敗戦後の日本の音楽や演劇の動きに反発して正常化しようとする動きといえる。

 芥川也寸志の「みんなの音楽」の続きになるような気がするが、最近和楽器と洋楽器の合奏が時々テレビに出てくる。三味線とピアノなどや尺八とヴァイオリンや箏などである。曲はポップスやジャズなどである。実は私は脳梗塞の後遺症で、アルトサックスは、首の筋肉に力が無くなり吹けなくなったけれど、その代わりに2年前に尺八を買って練習をしている。曲は「赤とんぼ」、「あんたがったどこさ」などの日本的な曲ばかりでなく、坂本龍一作曲の「Merry Christmas Mr. Laurence 」や「Take the “A train」 などのジャズの曲も吹いている。このA trainを吹いていると、あきらかにこのtrainは蒸気機関車だと言うことがわかる。尺八だと蒸気の息を感じられる。Imaginは機関銃が不連続に発射されている様子が見えてくる。しかし尺八では歯切れが悪く、乾いた音にならない。そういうのも感じられて楽しい。

 このように明らかに芥川也寸志の心意気を継いで新たな音楽の時代にはいりつつある。ただ芝居小屋についてはいまだ問題である。いまある国立劇場は、開館は1966年で、多目的劇場を追及して設計された劇場のために、歌舞伎劇場とは花道周辺が大きく違い、花道の後ろの壁は単なる灰色の壁である。そういうディーテールだけでなく、202310月に建て替えのため閉館したが、立て直すPFIの主体が建設費の件などで決まらず、しかも内容もきまらず、もうじき閉館して2年になってしまう。国が国立劇場に対して好意的になっていない気がする。服部幸雄が大いなる小屋を書いた1986年には、この国立劇場もできていて、もちろん歌舞伎座もできていた。この歌舞伎座は舞台間口が27mもあり、単に大人数の観客を収容するためとしか考えられない。国立劇場は役者やその卵たち、更に、舞台技術を担当する人たちにも早く再開が望まれるところであるが、それだけでなく服部さんが復活することを夢見ていた芝居小屋はいまだ実現できていない。劇場と演劇と観客を一体とする劇場の復活が望まれる。ちょっとだけ付け加えると、常設小屋ではないが、故中村勘三郎がたてたテントの平成中村座がある。そこには芝居小屋の雰囲気がある。服部さんの希望が少しかなえられたかもしれない。もう一つ、横浜ボートシアターの船劇場は現在一般の人がいけない場所にある。これを公共の場所に係留できたら、この船劇場も芝居小屋の範疇に入るような気がする。山下埠頭再開発の中に船劇場を組み入れられたら良いように思って、現在市民運動中である。

 


2025/08/15

建築音響の交流の歴史 その17 篠笛の音

私のもっている横笛、中国の竹笛(G尺)、韓国の多分ソグム、(ただしプラスチック製 ソウルの公園で購入、韓国には尺八を横笛のようにした横に長いテグムという笛もある)、弘前ねぶた囃子の篠笛、この指穴のあけ方はソグムとほぼ同じ。


写真 上段 中国の竹笛、中段 韓国の横笛ソグム、下段 ねぶた囃子の篠笛

さらにお囃子の篠笛:私の所有している篠笛は、獅子田製のお囃子用の篠笛で、4本調子、5本調子のものである。お囃子は大太鼓、締太鼓2台と篠笛、さらにチャンチキで演奏し、篠笛はメロディー部を演奏する。なお私が元関係していたお囃子は荏田のお囃子である。今は脳梗塞を患ったために参加できていない。



写真:篠笛 上段:5本調子、下段:4本調子

 篠笛の音律と平均律

篠笛の指孔はほぼ等間隔であけられている。ピアノの鍵盤は等間隔であるが、たたかれる弦はドレミに合わせて作られている。したがって弦の長さは、指数関数的に、21/12ずつ変化している。すなわち対数尺でほぼ等間隔にあけられるので、篠笛とは多少音律が異なっている。平均律の周波数と、計測した篠笛の周波数について、下表で比較してみる。篠笛の音の周波数は、下記のようにFFTにより実際に笛を吹いて音を出して周波数分析を行ったものである。5本調子の篠笛と平均律*2とを比較すると、篠笛/平均律は11.1程度の違いであるが、ドについては1.046倍であるが、ミの音が1.117倍、ソの音が1.136倍と一番ずれている。平均律で慣れている人には、このミからソまでの音は少しづれていると感じるかもしれない。4本調子の篠笛の場合には、全体的に平均律より低い音になっていて、しかもミからシまでは平均律よりさらにより低い音になっている。

表 平均律と篠笛の周波数の比較

音名

C4(5)

D4(5)

E4(5)

F4(5)

G4(5)

A4(5)

B4(5)

C5(6)

音名

ファ

平均律

261.6

293.7

329.6

349.3

392

440

493.9

523.2

平均律*2

523.2

587.4

659.2

698.6

784

880

987.8

1046

篠笛5本調子

500

550

590

630

690

800

900

1000

平均律/5本調子

1.046

1.068

1.117

1.108

1.136

1.100

1.097

1.046

篠笛4本調子

450

490

520

580

620

690

800

900

平均律/4本調子

1.162

1.199

1.268

1.204

1.265

1.275

1.234

1.162

※篠笛の音階は、実際の音をFFT分析した値、上のドは下のドの2倍にしたものである。

 

図 篠笛 5本調子のドの音のFFT分析結果、500Hz位が基本周波数

 したがってお囃子用の篠笛(5本調子)もお囃子や獅子舞の時に使う因幡のほか、平均律とは大きく違っているわけではないので、五線譜を見て、「ねんねんころりよ」、「赤とんぼ」、「ふるさと」、「東京音頭」、「よさこい節」、「あんたがったどこさ」などの日本的な曲や、さらに坂本龍一作曲の

Merry Chiristmas Mr.Laurence 」、プッチーニのオペラジャンニ・スキッキの中の

「私のお父さん」なども吹けるようになってきた。

 






2025/08/04

JAZZ ME DANCEのコンサート 舞台と客席の一体感への試み

 日時:202582日(土) 開演1400

場所:ボッシュホール(都筑区民文化センター) 客席は300

タイトル:JAZZ ME DANCE このタイトルは JAZZ ME Bluesから来たようで、多分JAZZは私をBLUESにさせるをもじって、JAZZは私を踊らせるというような意味かも。

演奏は、各個人名はチラシにあるが、グループ名は書かれていない。ただし司会は紗理さんで、VOCALを担当している、またDANCEはすけさん(戸山雄介)さんです。

このボッシュホールは、隣接したボッシュの本社と、一体に開発された都築区民センターで、その中にボッシュホールと名前をつけたホールがある。ホールは音響反射板を備えた多目的ホールであるが、舞台と観客の交流などのような、積極的な何かこれといったホールに対する意識が感じられない。建設工業新聞(2025317())によれば、ボッシュホールの設計施工は竹中工務店、ボッシュ本店の設計施工は大林組である。

実はJATET(劇場演出空間技術協会) の機関紙No.952024/25WINTER版で、西 豊彦氏が、米国ヴェニュー訪問記2024のいくつかの新しいタイプの馬蹄形のホールを見学したあと、おわりにに「ワーグナー祝祭劇場から始まった扇型の客席は今日では、映画館と同じパースペクティブな機能しか持たず、観客の反応をむしろ阻害するという考えが欧米の劇場設計の主流になっていることに国内の劇場は追いつけていない。」を思い来させるものだった。そういえば、20年ほど前になるが、磯子区民センター杉田劇場の設計に私が音響でかかわった時には、ACT環境計画の林さんが劇場技術でかかわり、前方に桟敷席や、可動の花道を作り、15年ほど前には清瀬市民会館の改修時に、空間創造研究所の草加さんが舞台技術で参加し、やはり桟敷席を設置し、扇型のホールを変更して、初期反射音を客席に返るようにし、観客席を取り囲む桟敷席を設けることが出来た。

      写真:杉田劇場の低音用のスピーカによる残響測定、右側に桟敷席を設けている。

             さらに花道も可動で床から出てくる。

  写真:清瀬市民会館の改修時の音響測定、桟敷席を新たに設置した。扇型だった平面が、このことで初期の側方反射音が客席で得られるようになった。

これもやはり15年ぐらい前になるが、IMAYO CREATIONの今用さん、作曲家のテン先生とカザフスタンのアスタナホールの改修計画をたてた。現状は1方向の客席であったが、これに図のように舞台・客席を取り囲むように、桟敷席を設ける計画案をたてた。どの案もいかに舞台と観客席とを一体化するかという試みである。

                図 アスタナホールの現状の平面図

               図 桟敷席を追加した改修案

               図 桟敷席を設けた改修案

ボッシュホールの単に視覚的に頑張って作ったが、舞台と観客との一体感の見られない雰囲気と書いたが、コンサートのチラシには「193040年代のスイング時代に活躍したダンスバンド(ビッグバンド)ではステージセッティングが演出やバンドの個性と密接にかかわっていました。」「、、、、ドラムソロや華麗なスティックさばきを客席からよく見せるため、前方に配置されていました。さらにサヴォイ・ボールルームの様なダンスフロアでは、観客やダンサーと一体感を出すため、ドラムを前方に置くことで、距離を縮める工夫をされていました。」とあり、チラシに説明はないが、多分サヴォイ・ボールルームの写真もあった。このサヴォイ・ボールルームは、平土間で、演奏者とダンスをする人が同じフロアに存在している。以前私は横浜ボートシアターが遊行寺の本堂で小栗判官・照手姫の公演や、日暮里サニーホールでのガムランの演奏も平土間で、行っていて、舞台と観客席が同一フロアだと、一体感が生まれてくることを感じた。サヴォイ・ボールルームでも同一フロアにして、演奏者とくに強いリズムのあるドラムを前面に出し、ダンスをする人たちと一体になるように試みたと思う。

写真:サヴォイ・ボールルーム(多分)の写真、チラシから抜粋

このようにチラシに書いてあって、今回は演奏者側が観客といかに一体感を出すかということに努力していた。

まえがきが長くなってしまったが、公演は素晴らしかった。 チラシのようにドラムは演奏者の前面に設置しており、有名なOn the Sunny Side of the Streetも素晴らしかったが、非常に感動したのは、ドラムのみとダンスの場合で、気持ちがわくわくした。さらにドラムをたたきながら黒人霊歌を唄ったときも素晴らしい声だった。チャールストンを踊ってみようというところでは、観客全員を立たせ、チャールストンの基礎的な踊りを教え、皆さんにチャールストンにデビューしてもらったと喜んでいた。またテナーサックス奏者の中村誠一さんは、生まれは私と同年1947年で、しかもこれも格好がよくて感激した。

 


 










写真:シーリングライトのために、天井が凹んでいる部分があり、天井の反射音が連続しなくなる。

写真 サイドスピーカ、こんかいのJAZZコンサートはマイク及びスピーカを用いていたが、300名のホールでは歌手以外は必要なのだろうか。一度使用しない音を聞いてみたい。音の方向感が明瞭になり、臨場感が増すような気がする。




 

 


2025/07/18

建築音響の交流の歴史その16 童謡 さらにテトラコルド音階に関連して

 最近、肩が痛くなって、肩たたきの棒を100円ショップで買ってきた。以下に示す。


これで肩をたたきながら、昔はやった「肩たたき」の歌を思い出した。

肩たたき 作詞:西條八十、作曲:中山晋平

1.母さん お肩をたたきましょう  タントン タントン タントントン

母さん しらががありますね  タントン タントン タントントン

2.縁側(えんがわ)には日がいっぱい  タントン タントン タントントン

真赤なけしが笑ってる  タントン タントン タントントン

母 さんそんなにいい気持ち  タントン タントン タントントン

私の子供の頃はやった曲で、縁側で母の肩をたたきながら歌ったもので、いまでも何となく思い出すものだ。しかしここまでは単に童謡のはなしで、建築音響の交流の歴史の中にははいらない。

 

むすんでひらいいて

そんな童謡のことを考えていたら、天声人語2025.06.16に「むすんで ひらいいて てをうって むすんで」の童謡がのった。「原曲はジャン・ジャック・ルソーだとか。原曲はどんな感じのものなんだろう。そこから世界各地に広がったようで、中国では子守歌としてうたわれているとのこと。日本には明治の頃に賛美歌として伝わり、軍歌としても使われたようだ。多分筆者は、中国映画の「舟にのって逝く」を見てその中に出てくる、子守歌(むすんでひらいいて)に感動したのだろう。」

これを読んでから、童謡は、様々な世界から交流してきたものの一部と感じた。

たなばたさま

この暑い夏、今年も77日になり、この歌、「たなばたさま」を思い出す。このころちょうど笹が伸びてきて、その一部を切って、飾りつけをし、願い事を書いてぶら下げる。

笹の葉/さらさら   軒端(のきば)に/ゆれる

お星さま/きらきら  金銀/砂子(すなご)

五色(ごしき)の/短冊  私が/かいた

お星さま/きらきら  空から/みてる

さらさら   軒端(のきば)に/ゆれる

一般社団法人七夕協会のホームぺージによれば

「「たなばたさま」の歌は、第二次世界大戦のさなか、1941年に生まれました。小学校の制度が改正され新しい国定教科書が作られたときに、国民学校初等科2年生(今の小学校2年生)の音楽の教科書に載せるために作られた歌と言われております。作詞家、童謡詩人である権藤花代が作詞、詩人の林柳波が作詞の補助、作曲家、音楽教育家の下総皖一が曲を作りました。戦争中に作られたとは思えないほどやさしく、子どもの心に寄り添うようなあたたかさあふれる歌です。この歌には、子どもたちの幸せと、平和な未来への願いが込められているのかもしれません。」 笹の葉で、たなばたさまを飾った覚えもありますが、実は子供の頃はこの笹の葉の後、チャンバラごっこをして遊んだ覚えがある。おかげさまで平和な時代に生きてこれた。しかし現在は、ロシアのウクライナ侵攻、ガザへのイスラエルの攻撃、イスラエルによるイランへの核施設攻撃など落ち着かない状態もある。そこにいる子供たちがかわいそうだ。

 

じゃんけん

いまでもよくつかわれる、じゃんけんは、日本じゃんけん協会のホームページによると、「じゃんけんの「けん」は中国語の「拳」であることは確かで、拳遊びの多くは江戸時代に日本に伝わりました。それ以前にも拳あそびが伝承されていたと推測は出来ますが、確かな文献は江戸以降になります。」「ギリシャ・ローマ時代にも数拳があったとされているので、現在の西洋のじゃんけん(Rock-paper-scissors)と日本のじゃんけんがルールは同じでありますが、直接的関係があるかないかははわかっていません。しかし、世界的に見ても(参照)この「石、ハサミ、紙」という三すくみの形が一番多く用いられ存続しています。やはり「じゃんけん」こそ、拳あそびの最終形態と考えられるのではないでしょうか。」

 缶蹴り

私が小学生に上がるか否かの時、缶蹴りがはやった。私の住んでいた久が原は、そのころ舗装はなく、時々馬や牛が荷物を挽いて歩く程度で、滅多に自動車など走らなかったので、どうろで、近所の数人で缶蹴りを行った。電信柱や塀の角などに隠れた。「もーいいかい?」「まーだだよ!」「もういいよ!」のやりとりの後、あそびスタート!何度も何度も繰り返して行った。今の道路は車が占領しているので、どうろで遊ぶことは危険だ。そういえば今住んでいる荏田地区も、少し前は山で、それを切り開いて住宅地に変更した。その工事中は、道路はできていたが、まだ少しずつ工事中のため、車がこないために、わが息子が、どうろでスケートボードを練習するのにうってつけの空間だった。その場所ではラジコンを運転する子供たちもいた。

 だるまさんがころんだ

おおくはどうろで、鬼がだるまさんがころんだと目をつむりながらとなえると、ほかのひとがその間に、鬼から遠くへ歩く、歩いている間に、唱えおわると見つかってアウトになる。

 

かくれんぼ

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かくれんぼ〈振り付き〉かくれんぼするもの よっといで じゃんけんぽんよ あいこでしょ 〜♪【童謡・唱歌】作詞:林 柳波(はやし りゅうは/1892-1974)、作曲:下総 皖一(しもふさ かんいち/1898-1962)。歌詞は非常にシンプルで、じゃんけんでオニを決めた後、「もういいかい まあだだよ」「もういいかい もういいよ」と、実際に子供たちが「かくれんぼ」で遊び始めるときの掛け声がそのまま描写されている。

 

かくれんぼするもの よっといで

じゃんけんぽんよ あいこでしょ

もういいかい まあだだよ

もういいかい まあだだよ

もういいかい もういいよ

 

このあそびはどうろでの場合もあったが、家の中で押し入れに隠れたりしたことも思い出した。

 

とうりゃんせ

これもどうろで遊んだ覚えがある。そういえば昔私が住んでいた久が原には公園が周辺に見当たらなく、どうろで遊んだのだろう。今住んでいる荏田町は、いくつもの公園があるので、このような遊びは、今の子供は公園で遊ぶのだろうか。

 

とおりゃんせとおりゃんせ

ここはどこのほそみちじゃ

ちっととおして くだしゃんせ

ごようのないものとおしゃせぬ

いきはよいよい かえりはこわい

こわいながらも

とおりゃんせとおりゃんせ

 

七つの子、作詞:野口雨情、作曲:本居長世

からーす なぜなくの からすはやまに

かわーい ななつのこがあるからよ

かわい かわいとからすはなくの

かわい かわいとなくんだよ

やまーの ふーるすへ いってみてごらん

まーるいめをーしたいいこだよ

 

赤とんぼ、作詞 北原白秋、作曲 山田耕筰

ゆうやけ こやけーの あかとんぼ

おわれて みたのーはー いつのーひーか

 

七つの子はカラスの子で、ごみをあさらなければ、カラスもかわいい、七つの子も赤とんぼも外

で遊んで帰りながら歌った歌だ。

 

にらめっこしましょアップップ

これは二人で、にらめっこしましよ、アップップといって、ほっぺたを膨らませたり、目を上に向

けたりして、相手を笑わせたら勝ちという遊びだ。子供の時は暇だったんだなと思う。何度も何

度も飽きるまでやっていた。

 

おちゃらか ほい

せっせっせのよいよいよい

おちゃらか おちゃらか おちゃらかほい

おちゃらか かったよ(または まけたよ、またはあいこで) おちゃらかほい

 

おちゃらかほいといいながら指であっちを向けたりこっちを向けたりして、相手がその通りに顔

を動かせば、まけたよとなる。これも何度も遊んだ。

 

ねんねんころりよ

ねんねんころりよ おころりよ

ぼうやはよいこだねんねしな

 このうたは、ははおやが子供を寝かしつけるときに歌うものだが、子供がお人形に向かって、

この歌を唄う場合もある。いまでは獅子舞のときに、獅子をなだめるときにも出てくる曲だ。

自分の小さな時の曲を思い出そうとすると、次から次へと出てくる。多分小さなころは暇で、し

かも家の近くで遊ぶところがたくさんあつたのかもしれない。家の前のどうろで遊ぶことは、くる

まがこない前提ではたいへん安全だ。いまのこどもたちはどこで、どんな遊びをしているん

だろう。

 作詞、作曲があるのは、明治以降にできた曲だ。明治20年(188710月東京音楽学校が

創立され、初代学長に伊澤修二就任した。明治25年から翌年にかけて『小学唱歌』という6巻の小歌集を編集出版している。この本の中に今まで上げた曲が入っているのではないかと思う。また明治23(1890)日本で初めてのコンサートホールである東京音楽学校奏楽堂もできた。音響設計は上原六四郎、残響時間は1.1秒である。コンサートホールといっても、残響時間が短いのは、この小学唱歌がこのホールの主の目的ではないかとおもう。ただしこの時はSabineの残響理論が出来た1900年より前になる。

 1958年(昭和33年)に小泉文夫が日本伝統音楽の研究1 <民謡研究の方法と音階の基本

構造>という本を出版した。その中で、わらべうたについて「子供たちはほとんど聞いたままを伝

えていく、」「一般にわらべ唄が、その民族の最も古いスタイルを保持しているに違いない、、」

と言うことで研究が始まったようだ。

.47「その上ダンケルトは地域的な限定づけにおいても、確固たる根拠を与えており、彼が「ヨ

ーロッパの民謡」と呼んでいるのは、「ヨーロッパ地域にある民謡」ではなく、「西洋文化の中に

ある民謡」なのである。したがってそこには「西洋文化の歴史性」が当然問題視され、そのにな

い手としての民族もGeschichtsvolkerRandvolkerに分けられ、その区別がたとえ明確にさ

れないとしても、、前者のみが「西洋的中核民族」であると定義した。このことは日本のように、

民族学的にも民俗学的にも比較的歴史時代における交流の少ないことからくる純粋な地域に

あっては、たいして問題にならないことであるかもしれないが、彼が民謡を単に音楽の形式的

側面においてのみとらえようとしているのではないことを物語っている。」

 日本のように、民族学的にも民俗学的にも比較的歴史時代における交流の少ないと私も

いたが、実はそうでもないことがわかって、建築音響の交流の歴史という、この連載を始めた。

しかも今回の童謡をテーマにした理由は、天声人語の中の「むすんでひらいて」の原曲はジャ

ン・ジャック・ルソーで、中国にも伝搬していると書いてあったことがきっかけである。

しかも日本伝統音楽の研究1というこの本を改めて読んでいるのは、日本の音楽はテトラコル

ドだと書かれていたが、実は昨年読んだ東京科学大学の建築学科の吉田さんの卒業論文( 昨年書いた私のブログhttp://yab-onkyo.blogspot.com/2025/01/202412.html)の中

に、ピタゴラスの後にAristoxenusBC375300)がElements of Harmonyという本を書いたと

のこと。このHarmony はクラシック音楽ができる前のドミソの和音のことではなく、ギリシャ

の基本構造はテトラコルド(tetrachord)から成り立っているとのこと。古代ギリシャ時代にアリス

トクセノスが、テトラコルドを唱えていたと書かれていたからである。

日本伝統音楽の研究1のp.124「私の考えでは、ある決定した音とある決定した音程とがあっ

て、この両者が互いに関係しあいながら音階を構成するものと思う。この「ある決定した音」とい

うのがこの場合核音であり、「ある決定した音程」というのは、核音間の音程である。」

.129「それでは核音間の音程は、伝統音楽の旋律の中で、どのような方を示すであろうか。私

は民謡から出発して、大体次の6種類に分けて考える。すなわち⑴エンゲ・メロディー型、⑵

テトラコルド型、⑶ペンタコルド型、⑷プラガル旋法型、⑸正格旋法型、⑹広音域型である。」 

.181 「⑵のテトラコルド型というのは、ギリシャの4度音階から借用した呼び名である。ギリシ

ャ音階は、4度を2つの音で種々に分割して得られる全音的、半音的、エンハルモニー的テト

ラコルドを基礎としているが、このテトラコルドは、4つの音を持ち、4度にまたがる音程系列関係を意味する。、、、、、中略、、テトラコルドにとって不可欠な要素は、両端の不動の音が互

いに4度音程の間隔をなすと言うことである。」

.152には「ギリシャのテトラコルドの概念は、10世紀にアラビアに輸入され、ウードの持つ4

弦は新たに4度間隔に調弦しなおされる。」「古代インドでも、テトラコルドは重要な働きをし

た。」「音楽理論の歴史は、ギリシャの哲学者や、アル・ファーラビーやバハーラタの理論の中

で、4度という音程が、どれほど音組織における基本的な意味を持っていた。」ここでいうギリシ

ャの哲学者とは先ほど述べたAristoxenusで、アル・ファーラビーとは900年ごろ中央アジア

のイスラム哲学)の音楽大全(定量音楽)を書いた人で、今でいうカザフスタンのアルマティ生

まれで、アルマティの民族学博物館にアル・ファーラビーの肖像画があった。

写真:民族学博物館があり、その中にアルマティの肖像画があった。私のカザフスタンで民俗音楽を聴く というブログを示す。http://yab-onkyo.blogspot.com/2008/10/blog-post_17.html

私の隣は北朝鮮からロシアに留学していたテン先生で、兄が映画監督で、思想犯として北朝

鮮で殺され、自分も追われる身になっていたが、カザフスタンまで逃げて、作曲家として活躍

することが出来た。

 

.153 「今日現存する多くの民族音楽の音組織の中に、やはり日本の民謡や中世音楽に認

められたと同様の、核音程としての4度構造が、存在するということ」「西アジアや東ヨーロッパ

の一部に、核音交配の明瞭な音組織することは、、、、、これらのうち4度の核音程が特に目

立っているのは、トルコ、アルメニア、白ロシアなどである。、、、このテトラコルドの分割には、

増音程を含むいわゆるジプシー音階もみられ、、」

.194 「明治初年音楽取調掛長であった伊沢修二は、、、、、呂の七声をdo-doの長音階

に、律の七声をla-laの自然的短音階に比較して、前者では変徴がfaより半音高く、後者で

は羽がfaより半音高いだけの違いであり、、、」p.195 「幸か不幸かこのような取調掛長のオプ

ティミズムが、明治以降の洋楽輸入の基本的態度であり、それに基づいた音楽教育が今日の

我々の土台になっている。」

この最後の文章が、小泉文夫にとって、この本を執筆した原点であるようだ。という感覚を私も

共有して、4050年ほど前にこの本を購入した。小泉文夫が日本伝統音楽の研究1 および

Ⅱ、音楽の根源にあるもの、この三冊は、わたしから一時クラシック音楽を遠ざけていた。しか

しある時、ウイーンのハンス・ホラインと組んで、設計コンペに参加していた時、私が暑くて、上

着を脱いだら、君も暑いんだ、私も脱ごうと言ってホラインも上着を脱いだ。単なる日常的な出

来事だが、わたしの感覚では、人間みな体温は36度前後で共通なのだという感覚を多分ホラ

インも持ったような気がする。多分それ以来、クラシック音楽も含めて、音楽好きは再度取り戻

すことが出来た。

 

この本題は童謡である。私の約70年前の環境と今の子の荏田町の環境は大きく違っている。

ここへ引っ越した頃は、まだ山や林の木々も残っており、七つの子が歌えるような環境だった

けれど、今は、山はほぼ開発されて、ごみ集積場で、生ごみをあさるカラスというイメージにな

っている。唯一、早淵川は、自然の営みがあり、子供たちも水にはいってザリガニや魚とりなど

で遊んでいる。子供たちにとって半分しか管理されていない、自発的に遊べる自由な空間が、

童謡やわらべ歌にも必要な気がする。

 

実は50年ほど前に、夫婦でギリシャに行ったことがある。サントリーニ島に行く船の中で知り合

った建築家のディモスがくれたカセットテープ(日付19741月と書いてある)を聴いている

が、のんびりした感じの、抑揚がそんなにない、歌いやすい曲だ。帰国してからも何度も聴き、歌い

覚えたくらいだ。これもテトラコルドかもしれない。