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2024/03/27

ノウルーズ(NOWRUZ)(ペルシャの新年)・コンサート

 ノウルーズとはペルシャの新年という意味だそうだが、日本ではちょうどソメイヨシノさくらが咲く時期で、学校の新学期が始まる時期になるので、ちょうどこれから新しい年が始まるという意味では同じような感じだ。

日時:2024323日(土)19002100

場所:港区立産業振興センター11F小劇場 定員120名 ロールバックチェアー

舞台の背面はガラスで外が見える状態で、あいさつがあり、つぎにカーテンをおろし、絨毯が背面に見えるようになって公演が始まった。主催はペルシャ絨毯専門のPersian Abrisham

この会場は、今回は音楽の公演であったが、平土間にして展示会もできるようになっていて、産業振興センターとして多用途に利用できそうだ。

主の楽器は、弦楽器のカマンチェ(4弦、二胡のように立てて弓で弾く)、タール(4弦、クルミ製の塊(共鳴器)が二つ接続しているような形で、フラットもある。ギターの元祖の様な形)、ドタール(2弦、が長く、低い音から比較的高い音まで出る。)、打楽器はドンバック(大きなワイングラスのような形に皮を張って太鼓にしている)、ペルシアンダフ(シンバルの大きな形で、表面に皮が張られ、裏側の枠にシンバルのようにたくさんの金物がついていて華やかな音が出る)、演奏者は床に敷かれた絨毯の上で座って演奏をしていた。

Kiaさんが主に弦楽器、例えばカマンチェやタールを一人で演奏し、Mashuさんがドタールを一人で演奏し、更に打楽器のドンバックやペルシアンダフと合わせて2人で演奏し、さらに、Aminの声楽を含めて全員で演奏するなど、さまざまな演奏をしていた。それら多くの楽器は私には知らない楽器だが、たとえばタールという弦楽器は、二つの塊をくっつけたような形で、それを平らにするとギターのような形にも見えてくる。カマンチェは二胡のように弓で弾くが、形としては将来ヴァイオリンにも変化していきそうである。ドタールはイラン、タジキスタン、ウイグルなどで人気のある楽器で、シルクロード沿いのトルコのサズやカザフスタンのドンブラなどとも2弦で似ている。それぞれが様々な形で展開していったように思う。このコンサートにはなかったがペルシャのバルバットという楽器は、古くは中国にわたりピパ、更に日本で琵琶になったようだ。ヨーロッパに渡り、イタリアでマンドリンにも変化したようだ。

またクラシック音楽のコンサートのように演奏者は演奏するひと、観客は聞く人と分けられているという感じがあるが、このコンサートは聞く人も演奏者と関係がある人が多そうで、最後の場面では、観客も演奏者の傍によって一緒に話をし、さらにだんだん集まってきて記念写真を撮るようなこともしていた。

公演が始まる前、舞台の後壁のガラス窓から外部が見える。


                             カマンチェ 4弦で、弓で引く、クルミの木で共鳴箱はできていて

                 羊の皮を貼っている。二胡のように楽器を立てて弓を引く


                                    タール 4弦 フラットがついている ギターの元祖のような形



                                          上部:ドタール 下部ペルシアンダフ

                           トンバック 太鼓の本体はクルミの木、羊の皮を張っている。


                           公演終了後、観客は舞台によって記念写真などをしている。


                  会場で購入したCD(DROPLET DANCE)


2024/03/25

「52ヘルツのクジラたち」を読んで

 著 町田そのこ、52ヘルツのクジラたち、中央公論新社

川和小学校のコミュニティハウスで、音響技術者が喜びそうな名前の本があって借りた。ただし音響技術者にとっては、JISの基準がオクターブバンドで言えば、63Hzから始まって4000Hzまでが評価の対象で、52Hz(ヘルツ)は63Hzのバンドに入る低い周波数である。しかも感度が高い周波数より、床衝撃音を除いて比較的騒音対策の対象になりにくい。

しかしこの本は、p.71に「52ヘルツのクジラ」の意味を書いている。「普通のクジラと声の高さが-周波数って言うんだけどね、その周波数が全く違うんだって。クジラもいろいろな種類がいるけど、どれもだいたい10から39ヘルツっていう高さで歌うんだって。でもこのクジラの歌声は52ヘルツ。あまりの高音だから、他のクジラたちには聞こえないんだ。」 とにかく騒音問題を扱っているのではなかった。一般の音響技術者であれば、うるさいので何とかしなければと思うのだけれど、この本では、歌っている52ヘルツの音が他人に聞こえないことが問題なんだということがテーマなのだ。

主人公は再婚した義父や母にいじめられ、たまたま雨の中であった少年もやはり親にいじめられ、お互いに、いいことも暴力的な悪いことも死に直面するようなこともありながら、様々な出来事があり、最終的にはお互い助け合いながら生きていこうという結論。話はとても展開が早く、映像的で、最後まで一気に読んでしまった。

話はとても現代的なテーマで、この意志や気持ちが伝わらないことは、より敷衍的にも展開でき、お互いに助け合っていかなければということがメッセージだとも感じた。



2024/03/20

旧釈迦堂や旧真福寺周辺の早淵川沿いの神社・仏閣等

 あざみ野駅周辺の早淵川沿いの神社・仏閣などはかなり高台にある。多分洪水があった時にでも水害から避けられるようにと考えたのかもしれない。そこで早淵川に沿って、あざみ野駅周辺を歩いてみた。この荏田の地域は東名高速道路と国道246号線が2本かなり並んで横断しており、横断する前の状況を想像することはなかなか難しい。主に釈迦堂および旧真福寺の過去の状況を文献ではなく、地理学的(明治時代初期の地形図)な、地政学的(国道246号線や東名高速道路)な、物理的(早淵川との地盤の高さ)な解釈の方法で想像してみた。独立行政法人農業環境技術研究所が明治初期につくられた地図(歴史的農業環境閲覧システム)および現代の地図を比較できる比較地図を作成し、公表している。それを利用した。


現在の地図で、調査したところを□で示している。下図は明治初期の農業環境の地図で、太いオレンジの線で旧大山街道を示し、細いオレンジ色の線で、釈迦道(しゃかんどう)を示している。かつて釈迦道は図のように尾根を横断している。


            明治初期の農業環境図

神明社

あざみ野駅の近くを流れる早淵川の上流1kmほどのJollyPastaの一つ手前を左折したところの根の中腹にあるのが神明社で、牛込獅子舞の代表的存在と由来の標識にある。


神明社の鳥居と本殿

慰霊碑                                                         

平成元年 区画整理事業により地区に点在していた墓地を整理し、供養した。場所はあざみ野駅から近く、うかい亭の駅側にあり、尾根の頂上で、忠魂碑のある山脈を分断した田園都市線を超えた延長線上にある。管理しているお寺は分からない。


西勝寺                                                             西勝寺はあざみ野駅の下流側すぐのところにある。早淵川近くにあるが階段を上ったところにある。墓地はこの本堂の裏側にある。


西勝寺墓地(本堂の裏側の一番高いところにある)今はさらに墓地の増築工事を行っている。


伊勢社                                                             伊勢社は早淵川から見て、たまプラーザの方に西勝寺を超えたところの山の頂上付近にある。

驚神社                                                            「驚」は馬を敬うという漢字を合体させたような名前である。あざみ野駅から約500m下流側にある。早淵川近くにあるが、階段の上にある。



忠魂碑



忠魂碑は当時の政府に忠誠を尽くして、日清戦争・日露戦争・第二次世界大戦などの戦争で亡くなったこの近隣の人の名前を記してたたえた記念碑で、お墓ではない。横浜市歴史博物館特別展 『横浜の仏像 しられざるみほとけたち』のブログ

https://yab-onkyo.blogspot.com/2021/02/blog-post.htmlにも書いたが、都築・橘樹研究会の『都築・橘樹地域史研究2』という本を横浜歴史博物館から紹介され、その中に林浩一著『都築郡山内村忠魂碑について』という文書(p. 112118)があり、そのなかに、忠魂碑は大正八年に釈迦堂の土地が寄付されたと書かれている。廃仏毀釈があったのは明治の初めなので、大正八年では廃仏毀釈が原因としては時期が遅すぎているように思う。単に本堂の老朽化ないし後継者がいなくなったためかもしれない。またこの釈迦堂にはお墓が付属していなかったようで、このお釈迦様が納められているお堂があっただけのようだ。


真福寺(真言宗豊山派養老山 真福寺)                                        真福寺の由来の文章によれば、真福寺は老朽化により当時観音寺であった当地に大正10年(1921)真福寺ならびに釈迦堂を移し、それぞれの本尊を客仏として安置したとかかれている。本尊の木造千手観音像(一本造)は、県の重要文化財で、客仏の木造釈迦如来立像は、国の重要文化財で、鎌倉時代の作とある(昭和八年一月二十二日国の重要文化財指定)。この釈迦如来立像は口をキリリと締め、意志の強そうなお顔をしている。他のほとんどの仏像がにこやかな穏やかなお顔をしているが、この顔を見ていると緊張する。素晴らしい仏像である。


 この木造釈迦如来立像は、京都清凉寺本尊を模刻したもので、県内には、この他に称名寺像と極楽寺像が国の重要文化財の指定を受けている。この真福寺は入り口には階段があり、高く位置し、洪水から守られている。この寺の入り口には春彼岸とあり、お墓参りをしましょうと書かれているので、墓地を探したが、この本堂の周辺にはなく、ただこのお寺の隣の敷地に近隣の慰霊碑が経っていた。また、その隣地には、お宮さんの建物もあった。正確には真福寺のお墓は旧真福寺近くの敷地に今もある。



旧真福寺は宿自治会館の近くにあったようで、宿自治会館の近くにはお墓がある。木々がうっそうとしている中にお墓があるので、昼間も少し薄気味が悪い。この墓地を管理しているところはどこかわかりにくいが、この真福寺だということ。(※近隣の人に聞いたが、真福寺と観福寺は兄弟で住職をしているとのこと)、この墓地の奥には現在非常に大きな集合住宅の「アルスあざみ野」があり、よく見るとこの墓地の中段には不自然に地面を削った後があり、この最後の宿自治会館側の道のところでも擁壁がある。


最初に示した現況図と明治時代初期の農業環境図を現在の荏田の近くを中心に拡大して示す。現況図で黄色い線で示されたところは、釈迦道と一部旧大山街道と旧大山街道に沿った道路が示されているが、今やこの道は主要な幹線(県道)となっている。釈迦道(参照:農業環境図、最初に記した図を拡大したもの)は山脈を越える山道となっており、峠の位置では現在の忠魂碑(旧釈迦堂)と同じ山なりにあったことになり、釈迦道の峠からは大きなレベル差はないと思われる。また国道246号線ができる前は、多分この山脈はさらに続いていて、農業環境図に緑色の線で示したが、山を貫通していることがわかる。現在宿自治会館がある位置は、明治時代では山なりの一部に存在していて、多分この旧真福寺も真福寺の墓地も山なりの一部分に位置していて、早淵川より高い位置にあり、洪水を避けられる高さにあったと思われる。また旧大山街道は釈迦道と交わるところで直角に曲がっているが、この山脈を避けるような形で、現在の国道246号線をわたり、早淵川まで行って曲がっている。また早淵川と合流する布川も現在は東名高速道路で地下化しているが、以前はそのまま谷を伸びていて、蛍も生息するきれいな川となっていたようだ。


現在の釈迦道と旧大山街道と東名高速道路と国道246号線および早淵川・布川を示している。さらに緑の線で現在の宿自治会館(旧真福寺)方向の道を示している。

 また釈迦道は峠を越える位置で、現在の忠魂碑とほぼ同じようなレベルとなっていたように思うが、いつ切通が出来たかはまだ資料が見つからない。東名高速道路については、1951(昭和26) 東京・神戸高速自動車道路調査を再開とある。調査再開と有るので多分戦前から調査は行われていたことになる。1963(昭和38)18日測量のための杭打ち式開催、全線起工式開催が、1965(昭和40)422日、東名高速道路が全線開通したのが昭和44年(1969年)526日で、真福寺の由来では、大正10(1921)に現在の場所に移動したと書かれている。その後、この地域(旧真福寺周辺)は国道246号線の計画の高さに合わせ、地盤を下げたように思う。またその延長線上にある釈迦道も東名高速道路の高架下を通り抜けるため、計画に合わせ、地盤の変更を行ったのではないかと思う。いずれにしても実際の工事は戦後(1945年)以降と思われる。切り下げしたときの擁壁がしっかりとしている。しかし東名高速道路の下を抜けるためだけではこのような大掛かりな切通にはなっていないように思う。先ほども書いたが、現況図ではこの釈迦道は現在県道であり、主要幹線となっているようだ。したがって峠を越えるような山道では、自動車道路としては安全ではないので、切通にしたように思う。多分大工事のような気がする。

またなぜ真福寺は現在の位置に変更されたかを考えてみる。もし単に本堂が老朽化したのであれば、建て直すこともできる。しかしこれは国道246号線が出来たことによって、地盤の高さを変更する必要があり、現在の位置に変更したのではないかと思われる。真福寺の由来では、大正10(1921)に現在の場所に移動したと書かれている。国道246号線は大正9年(1920年)に当時の道路法に基づき、東京府道第1号東京厚木線、神奈川県道厚木東京線などと指定されたとのこと。時間的には重なっている。また忠魂碑のところですでに書いたが、忠魂碑は大正八年に釈迦堂の土地を寄付されたとされているが、これとも時期がほぼ重なっている。

観福寺  

観福寺(真言宗豊山派 宝剣山) 本堂は鉄筋コンクリート造でできているので新しく、古くからある建物ではなさそう。観福寺の墓地はこの本堂の裏側にあり、広い敷地で、周辺では最も高台にある。

ただしこの観福寺の一部のお墓と真福寺のお墓は、現在の宿自治会館の隣の山側の木々の中にある。



OIKO∑教会

横浜生田線の柚の木の交差点を剣神社の方へ曲がり数十メートルのところを、さらに数10メートル奥に有るプロテスタントの教会。ギリシャ文字のような名前の教会である。ここではコンサートもやっているようで、興味深い。この場所は早淵川のレベルとはそれほど大きな違いはないが、1階はRC造でできており、2階が教会のようだ。今までの論旨で言えば、もし早淵川が洪水になった時には、一階がコンクリート造なので、倒壊は避けられると考えられる。

                写真OIKO教会

剣神社 

剣神社の由来によれば、村(荏田村と思われる)の中央字榎木谷にあり、剣明神と号す当初の総鎮守なり、云々 また 商人が居眠りをしている間に大蛇が狙ってきたので、刀で斬殺した。その剣を祀って剣明神としたと。この伝説は八俣の大蛇の伝説と類似しているとも書かれている。そこで由来の文書では、「開拓神」ないし「農業神」として祭ったのではないかと、鎌倉時代の創建と言われている。いま一般的に考えると大蛇はこの早淵川で、洪水の時には暴れ川になるので、剣でなく、鍬とかスコップで川を改良したのではないかと思う。剣神社周辺は、今も水田の地域である。


矢羽根不動尊  ここは柚ノ木交差点をさらに横浜生田線という道路をセンター北駅の方向へ向かい、早淵川と交差するちょっと手前で、山に相当登ったところにある。創建の正確なことは分からないが、この石の階段は早淵川からは相当レベル差があり、段差も規則的ではなく、登るのは大変で、階段の施工も結構大変だったと思われるが、洪水の時には安全だ。また矢羽根不動尊とはロマンチックな名前である。この神社のすぐ横には、小さなお稲荷さんもある。

東善寺本堂 ここは矢羽根不動尊の前の横浜生田線という道路をセンター北駅の方向へ向かい、橋を渡ってすぐのところにある。やはり東善寺は入り口に階段があり、早淵川とはレベル差がある。


       慈眼寺も杉山神社も高台にあり、早淵川とは高さにレベル差がある。

              センター北駅から眺めた右側 杉山神社、左側 慈眼寺


2024/03/17

和楽器に親しむ というコンサート

 このコンサートの正式な名前は都築区民活動センターが主催している「交流サロン」で、今回のテーマは「和楽器に親しむ」というもの。演奏は都築区三曲協会のみなさまと書かれているのは、主催者は都築区民センターだからです。三曲は箏と尺八と三味線のことで、その合奏という意味ですが、今回は、三味線は居ないようです。場所は都築区民活動センターというところで、2024315日の10時から12時までですが、最初は主に箏と尺八の演奏で、さらに早春賦、故郷などの唄を参加者が歌を伴う合奏があり、後半は箏を触り、塩ビ管でできた尺八を吹かせていただきました。さらに自己紹介もあり、観客と演奏者が溶け込んでいるように思いました。観客には北大の学生で尺八や箏のクラブに入っていて、今は春休み中で来れたとのこと。観客は年寄りばかり?なので、若い人が居るのは頼もしく感じました。

                      集合写真を撮るときに、撮影させてもらいました。

プログラムのチラシの中に、歴史のことがかかれていて、「箏は奈良時代に中国から伝来した楽器で、雅楽の楽器の一種になり、控えめな伴奏する楽器でした」と書かれています。多分雅楽の中の控えめな伴奏する楽器と書かれているのは、和琴いう楽器ではないかと思います。この和琴はどうも中国からではなく、日本の埴輪にも出てくる古くから伝わる楽器の様です。以下は我がブログ(2023.03.24)の「花散里の最初の方にある文、箏、琴、和琴」というタイトルの中に、箏、琴、和琴ということが書かれています。源氏物語に出てくる話です。「風情のありそうに繁っている奥から、美しい音色の箏(そう)の琴(こと)を和琴(わごん)の調子に整えて合奏し賑やかにひいているのが聞こえてきます。」注:()内は訳者の瀬戸内寂聴がフリガナをふってくれている。源氏物語』では、古代中国の士君子の倫理性を担った琴に対して、日本伝来の遊楽を楽しむ和琴が対比され、琴は礼楽中心の楽器、和琴は自由な発想を持った楽器として描かれた。」以下はこのブログである。

https://yab-onkyo.blogspot.com/2023/03/blog-post_24.html

箏や琴や和琴やハープやウクライナのバンドゥーラも弦がたくさんあり、それぞれの用途がありますが、また多分それぞれと別の楽器、例えば尺八や篠笛と合奏するなども考えられます。我々の世代は、クラシック音楽が小学校のメインの曲で、山田耕作や宮城道雄や滝廉太郎等の人たちによって、西洋音階でできた歌などを習い、クラシック音楽を習ってきましたが、クラシック音楽の曲や山田耕作などがつくった今や古くて新しい曲や民謡やJAZZなども併せて聞いたり、演奏したり、歌ったりすることができるようになりました。ただ残念ながら楽器屋さんに行くとピアノやリコーダー、サックスやトランペットなどの吹奏楽器、またドラムなどがありますが、篠笛や尺八や三味線や箏や和太鼓などはまだありません。小学校でも授業で和楽器も習うようなので、そのうちそのような楽器も置かれるようになるといいな。

 



2024/03/11

N響大河ドラマ&名曲コンサート

時: 202439日(土)午後400、場所:東京芸術劇場コンサートホール 

指揮:キンボー・イシイ、オーケストラ:NHK交響楽団 

コンサートとしては珍しい大河ドラマのテーマ曲で主に構成されている。番組が始まる前のたった240秒で聴かせなければならず、どれもはっきりしたテーマを持っている。すごい迫力で、オーケストラの実力がよく分かった。真田丸には尺八も出てきた。尺八を勉強し始めた身としては、癪に障るほど上手な笛の音だった。実はこのコンサートはキンボーさんのお母さんのミエンさんから行こうとすすめられた。ただN響なので簡単には切符は買えないと言ったら、友人にN響の会員がいるので頼めると思うと。おかげさまで切符は手にいれることができたけれど、ミエンさん本人は寝ている間に亡くなってしまい、残念ながらお会いすることができなかった。友人から送られてきたミエンさんの写真は、近くに止まっている車と着ている服の色が同じだったというもの。ミエンさんと会っていると楽しかったことが思い出される。ミエンさんと最初にあったのはウイーンだけど、ニューヨークでレストランを経営していたこともあり、私の息子がC.I.A(カリナリー・インスティチュート・オブ・アメリカ)に入学する前に研修としてそこにお世話になったこともある。2001.9.11の同時多発テロ事件の時、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んでビルが倒壊した。その途中に信じられないと電話をもらったことがある。またその後日本の我が家の近くに娘さん夫婦と住んでいて、よく会いに行ったが、2011.3.11の東日本大震災(13年前の今日)があり、原発事故のため、娘さん夫婦はバリ島に避難し、ミエンさんはウイーンに引越しをしてしまった。それ以来メールだけの会話になってしまった。ただ我が息子夫婦もドイツでキンボーさんのコンサート聴いており、世代が変わってきたことを感じる。キンボーさん、これからもさらに頑張ってください。聞きに行きますから。コンサートのアンコールの後、写真を撮ってもいいとのことなので写真を撮った。




2024/03/09

建築音響の交流の歴史その4

 建築音響上の出来事は、音律まで含めると、1600年代は純正律など和音を美しく響かすことのできる多くの音律が出来、ハーモニーが出来てきた。多分それによって1700年代以降、建築音響の交流の歴史その3で示したように、クラシック音楽やオペラもはじまった。またシェークスピアやセルバンテスに続き、世界各地の各地域で芝居小屋が点在してきており、充実して発展してきている。 

2024.214の朝日新聞朝刊の天声人語に17世紀の時代について書いてある。 『有田焼をはじめとする上質な日本の肥前磁器が云々、17世紀半ばには、長崎の出島から西回りでの輸出が始つたという。野上さんは東回りの太平洋ルートもあったのではないかと考えた。当時、フィリピンとメキシコをガレオン船がむすんでいたからだ。』 その証拠を20年ほど前にマニラの遺跡で有田焼の皿を初めて発見したとのこと。したがってヨーロッパから来るルートは17世紀後半には西回りも東回りもあることになる。この天声人語にはヴァレンタインデーに合わせてチョコレートカップについて書いてあるが、おそらく楽器もさらに演奏者も来たに違いがない。それが芝居小屋や歌舞伎や人形浄瑠璃などにどう影響があったかは分からないが、何かあるに違いがない。このことはあとで述べる。

まず江戸時代の芝居小屋はどの程度あるか調べた。ただ残念なことに江戸時代、17世紀、18世紀の芝居小屋に関する本・著作見つらず、YAB芝居小屋mapから調べた。次にイギリス、フランス、イタリア、ドイツ、スペインとしらべた。

江戸時代の芝居小屋

1615京都南座四条河原町で開場、7つの櫓を構えた芝居小屋ができた。江戸では、元禄時代(16881704年頃)、猿若、市村座、森田(のち守田と改める)、山村座が櫓を構えた

人形芝居竹田近江一座 寛分年間(1660年頃)に竹田近江掾が大阪の道頓堀に人形芝居の櫓を上げ、竹田近江一座を開き、さらに竹本義太夫が貞享元年(1684)竹本座を創設し、近松門左衛門と組んだ。 以下は弊社芝居小屋MAPから江戸時代の分を抜き書きした。

長栄座 江戸時代、白市には広島藩内で3か所しか置かれなかった芝居小屋の一つ

大黒座 福山市1892年、芝居や演芸ができる劇場が開館

一心館 江戸時代 三次宿と吉舎宿の中間の宿場町に開館

鳳凰座(文政10年(1827年)明治16(1883)客席部分大改修)、

旧金毘羅大芝居金丸座(天保6年(1835年))

川上芝居 金沢市菊川町 文政2年(1819) 1700名収容

末広座 金沢市 元治元年(1864)ごろ

戎座 金沢市卯辰山開拓時には建っていた。

1791年 会津若松市七日町 歌舞伎人形座 人形浄瑠璃を中心に公演

千葉座 江戸時代末期に石巻市に建てられたが、その後、明治24年に「岡田座」となった。

京都周辺で、7座、江戸で4座が櫓を構えたようだが、その他の地方でも全国的に多くの芝居小屋があったと想像された。また人形浄瑠璃の芝居小屋もあったことが分かった。

 その他、芝居小屋には、1716年花道が常設されるようになる。1758年には大阪の角座で回り舞台が開発され、1724年には火災の観点から一度瓦葺きの本建築が実施された。また江戸時代の芝居小屋は舞台だけ屋根がある農村舞台のような場合とシェークスピア劇場のように舞台と桟敷席だけ屋根があり、平土間席には屋根がない場合と、この平土間席にも屋根がある場合と様々な形がありそうである。

 2012.02に発刊された日本建築学会の技術報告集に1 5座の芝居小屋と演奏会を行っているつくば古民家、歌舞伎座、杉田劇場のデータを比較し、2012.2発刊に以下のように報告した。

『木造芝居小屋の音響特性 藪下満、寺尾道仁、関根秀久、日本建築学会技術報告集第18巻第38号』 報告書のまとめでは、芝居小屋の音響特性は、響きのなさ、音声明瞭性および音の方向感があるとした。


また私の建築学会の論文を見たベルリン工科大学の研究者のClemensさんは、その後いくつかの芝居小屋を図面上で調査して、音響シミュレーションの結果を論文にまとめた。大会名『SEPTEMBER 2014  KRAKOW  FORUM ACUSTICUM』、タイトル『Acoustical characteristics of preserved wooden style Kabuki theaters in Japan 』 執筆者はClemens Büttner, Stefan Weinzierl Audio Communication Group, TU Berlin, Germany)、Mitsuru Yabushita YAB Corporation)、Yosuke Yasuda Faculty of Engineering, Kanagawa University

内容は、以前我々が音響調査をした金丸座、八千代座、村国座、嘉穂劇場、鳳凰座を選び、図面からCAD図を起こし、空席の場合の音響シミュレーションを行い、実測値と比較し、満席の状態を予測して音響シミュレーションを行い、その結果、ヨーロッパの考え方から言えば、芝居小屋の音響特性は音楽より話声に好ましく、さらに親近感や親密感が音の特徴と言えると結論付けている。

とうとう芝居小屋の音響の研究がヨーロッパに伝搬したことになった。さらにClemensさんはベルリン工科大学の音響研究の責任者のWeinzierlさんとともに来日して、東京大学の森下有先生と弊社にいたAntonioさんと私で新たな芝居小屋の音響の実態調査をおこなった。以下は調査メンバーです。


左から:ClemensButtner氏、藪下満、森下 有氏、AntonioSanchezParejo氏、明治座の館長 加藤周策 氏、StefanWeinzierl 氏  2017925日ごろ かしも明治座前で撮影

発表論文は『ACTA ACUSTICA UNITED WITH ACUSTICA Vol. 105 (2019) 1105 – 1113

タイトルは『The Acoustics of Kabuki Theaters』です。芝居小屋の対象として以下の表の8つの芝居小屋について、伝統的な日本の公共劇場の形は器楽を伴った話声や歌が混ざった特徴があり、ヨーロッパのプロセニアム形式の舞台タイプの劇場と比較すると、歌舞伎劇場は相対的に1席当たりの容積も14m3と小さいために、歌舞伎劇場は比較的残響が短い。歌舞伎は器楽演奏を伴った歌や演技(パントマイム)ダンスを演じるにもかかわらず、音響条件は一貫して最適な音声明瞭性をデザインしているとしている。

1 開館年、容積(幾何学的モデルから算出)、収容人員(文献から)、一人当たりの容積

Clemensさんの論文の最後は『西洋の音楽コンサートの室内音響の、残響時間が約2秒の標準は、日本人の観客にとって非常に珍しく、20世紀の後半に大変後れを取って確立することができた。』とまとめている。これで、Clemensさんの次のドクター論文『Symphony Concert Life and Concert Venues in Tokyo1868-1945』につながることになる。ただクラシック音楽に対しては、日本は対応が遅れたが、歌舞伎や人形浄瑠璃のための芝居小屋に対しては、声や三味線や太鼓のためにちょうど良い残響空間となっている。結局ヨーロッパのハーモニーを追求する状況は、おそらく残響の長い教会での賛美歌がハーモニーを重視するように変化していって、クラシック音楽にも影響を与えたための結果だと思われる。Clemensさんが言うように、大きさや残響時間の条件ではBristolのロイヤル劇場(ミュージカルやオペラなど)やロンドンのWyndham劇場(ミュージカルなど)のような同時代のイギリスの劇場が最も比較できるようだ。芝居小屋は劇場やミュージカル劇場やオペラハウスと比較した方が好ましい。

イギリスの17世紀18世紀の劇場

シェークスピア劇場やスペインのアルマグロ(Almagro)の劇場(1628)ののちの主にヨーロッパの劇場はどうなっているかあまり知られていない。先ほど述べたClemensさんの論文に出てきたシアターロイヤル(1766 ブリストル)やロンドンのWyndham劇場(1899)のほか、ロンドンのウエスト・エンド地区にはWikipedia によると様々な劇場があったことになる。

イギリスのウェスト・エンド・シアターをWikipediaで調べて参考・引用した。『1576年、シアター座 その後カーテン座 いずれもシェークスピア劇団が使用した。また1599年、シアター座は解体されグローブ座が建築された。シアターロイヤルとして1663年に開館するが、焼失後、新たにドルリー・レーン王立劇場が開館イズリントンサドラーズウェルズ劇場1683年に開館。演劇上演を行う許可が得られず、オペラの公演を行う「ミュージック・ハウス」として運営された。1720ヘイマーケット・シアターが開館する。1732コヴェント・ガーデンロイヤル・オペラ・ハウス開館。この二つの劇場は、演劇上演を独占的に行う権限を19世紀まで保持した。ただし19世紀初頭までに、ミュージックホールのショーが人気となり、出演者たちは非勅許劇場にとってメロドラマのジャンルが規制の抜け穴になることに気付いた。たくさんの小規模な劇場やホールが開館するにつれ、ウェスト・エンドの劇場地区はその名を高めていった。1806アデルフィ・シアターが、1818オールド・ヴィック・シアターが開館する。さらに1870年ヴォードヴィル・シアターが開館し、1874クライテリオン・シアターが開館、1881年には、さらにサヴォイ・シアターで、コミック・オペラを上演(より涼しく清潔な電気のライトが採用された初の劇場である)。その5日後パントン・ストリートにコメディ・シアター(現ハロルド・ピンター・シアター)がロイヤル・コメディ・シアターとして開館する。この劇場建設ブームは第一次世界大戦まで続く。』

<イタリア式>劇場の誕生試論 著 望月一史より一部の表を引用した。


『表1では1597/98パラツィオ・コルシで、ベーリ曲、リヌッチーニ台本のダフネが上演された。これがオペラ上演の最初の記録である。1637年上演年のサン・カッシアーノ劇場で、マネッリ曲、フェッラーリ台本のアンドロメダで、この劇場は記録された最も古い劇場である。現存する最も古いオペラハウスは付表の4ページ目の1737年のナポリのサン・カルロ劇場で、馬蹄形、1300名収容のものである。筆者は『半円形の客席を有する古典的な劇場の形態から、[3]に見られるような長方形、U字型、楕円形、馬蹄形、釣鐘型とさまざまな形式を歩んできたが、視覚(どこからもよく見えること)と音響(どこからもよく聞こえること、エコーの問題がないことなど)をどのように解決するか、音響学がいまだ存在しない時代に、前例と経験を頼りに時代の要請を踏まえて到達したのが、基本的に馬蹄形の平土間席にそれを囲む壁沿いのボックス席という形態であった。』 建築音響の交流の歴史その2ではテアトロ・ファルネーゼのことを書いていて、1618年開設で観客席はU字型をしていて4500名収容と書いてある。この論文では3000名収容と書かれているが、主に出し物で変化するような気がする。U字形の平土間を演技に使えば、収容人員は減ってくる。1608年のテアトロ・ドッカーレは6000名と書かれている。今の常識で言えば、電気音響による拡声が必要な収容人員であるが、とにかく音楽や芸能は人を集めること、人が集まることが前提または目的のような気がする。付表では劇場の数は16世紀1317世紀には4518世紀3819世紀は25と計121を計上している。この付表は素晴らしい。各地域でこの表があるともっと素晴らしい。

 


  

 

フランスの劇場

 奥 香織 著『17­-18世紀フランスにおける演劇と政治―新・旧イタリア人劇団の上演環境をめぐって―』の論文を引用しながら、フランスの演劇の状況について調べてみる。以下はこの論文のホームページである。chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/http://www.engekieizo.com/dramaturg/wp-content/uploads/2014/03/17-18%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%BC%94%E5%8A%87%E3%81%A8%E6%94%BF%E6%B2%BB.pdf

この論文から引用すると、『17世紀から18世紀のフランスでは、演劇は権力の問題と密接に結びついている。特に絶対王政の時代、演劇はカトリックの考え方とはそぐわないものでありながら王の権力を示す手段として利用され、「演劇政策」が行われた。』『1718世紀のパリにおいて「公式」に認められた劇場/劇団は、フランス人劇団とイタリア人劇団、そしてオペラ座であった。』『このように権力に左右される中で、イタリア人劇団は、母国語での上演からも、コメディア・デッラルテの伝統からも次第に遠ざかっていく。』『1645年にマザラン枢機卿によって別の一座がパリを訪れ、プチ・ブルボンで上演を行っている。この一座に関しては、その存在を裏付けるものとして「偽の気違いじみたご夫人(LaFolleSupposee/LaFintaPazza)」上演された記録が残っており、当時の舞台が朗誦と歌唱部分から成り立っていたことがわかる。イタリア人劇団は、1660年にはパリに定住し、モリエールの一座と交代で、パレ・ロワイヤルの劇場で上演するようになる。さらにコメディ=フランセーズが創設されるとフランス人俳優はゲネゴー座で、イタリア人俳優はオテル・ブルゴーニュ座で上演をはじめる。』『特に、中略、王妃がイタリアの名門メディチ家の出身であり、宮廷で母国語を話すことを好んだことが大きな原因である。中略、イタリア人俳優たちは伝統的な台本(カヌヴァ)を用い、イタリア語で上演することが可能であった。コンメディア・デッラルテの伝統的な舞台は、即興性、身体性、喜劇性によって特徴づけられているが、そこでは猥雑な場面も観客を笑わせる要素の一つであった。』とある。しかし17世紀後半になるとルイ14世は全ての場においてフランス語を話すことを強制する。フランス人の劇団より格下と見なされたイタリア人劇団にとって、舞台装置の改良は、フランス人劇団やオペラ座に対抗するためには必要不可欠のものであった。18世紀にはイタリア人の俳優たちはフランス人俳優にない演技の魅力によって、オペラ=コミック座との合併に至るまで、イタリア人俳優たちはパリの観客を魅了し続けた。

『【マニアックすぎる】パリオペラ座ヒストリー<9>ナポレオンとオペラ座~余の辞書にも「オペラ座」の文字はある 2022.02.05 永井玉藻』のHPより引用すると、この永井氏の文章によってもオペラは時に権力と直接結びついていることがわかる。ただこの権力が自由にさせていた時には劇場は雨後の筍のようにたくさんできていたようだ。

1806年と1807年に発布された、パリ市内の劇場における上演ジャンルを規制する法律が出来た。』 『フランス革命後のパリでは、革命政府の方針によって劇場の開設が自由化されたため、まるで雨後の筍のごとく、新しい劇場が次々に生まれました。』 そこでナポレオンは『パリ市内の劇場の数を8つだけに絞り、それぞれの劇場を確実に監督できるようにした上で、各劇場が上演できるジャンルを細かく定め、劇場どうしの違いを明確にしました。』 これによって『オペラとバレエをパリ市内で上演できるのはパリ・オペラ座だけになります。』

ドイツの17世紀18世紀の劇場

『大塩量平著「社会経済史学」84-3201811月) 論説 18世紀後半ドイツ語圏における舞台芸術家の「雇用市場」の生成―ウィーン宮廷劇場の俳優の社会的地位と雇用条件の事例分析からー』からはじめにを引用する。『18世紀ウィーンの劇場の分析は作品や上演がいわば「商品化」され、作品供給者(=作曲家や劇場)と需要者(=作品購入者や聴衆)との間の経済的関係が「パトロネージ指向から市場指向へ」と徐々に変化したことを実証的に論じながら、近代の舞台芸術の浸透を経済学的に考察した。』とある。ヨハン・セバスティアン・バッハもドイツ、モーツアルトもオーストリア、ベートーベンもドイツのボンであるが、いずれも18世紀でドイツ語圏である。

ドイツ演劇 大百科事典(ジャポニカ)より、参考:1516世紀、キリスト教伝来から存在していた春祭りが謝肉祭と結びついて、茶番狂信的な「謝肉祭劇」が生まれた。『17世紀のバロック時代は、一方では感性的な要素に富む演劇を発展させた。文学的には過剰な修辞が好まれ、オペラの導入によって覗き見舞台を持つ遠近法を利用した舞台装置が発達した。この「バロック演劇」の舞台はいかに狭くとも全世界を表しうるという世界劇場の理念は、大規模な祝祭行列の催しとも関係している。』 18世紀、これを参考にすると、18世紀の啓蒙時代に入ると、レッシングは新しく台頭した市民劇の立場から古典演劇理論を批判して、同時代の市民を主人公とする「市民悲劇」を擁護して、様々な傑作を書いた。1770年代若い世代から啓蒙時代の理性中心主義に反発して感情の優位を説き、天才シェークスピアを賞賛して、規則ずくめのフランス古典劇を攻撃した。19世紀は、ゲーテ、シラ―の後を受けた技古典的な亜流作家の時代であり、劇場の隆盛と反比例して戯曲には見るべきものがない。1876年ワーグナーがバイロイトで開始した祝祭劇は、楽劇という総合芸術論の実現であり、大きな意義を持った。

スペインの17世紀18世紀の演劇など

以下はスペイン黄金世紀演劇Wikipedia より引用・参考、『スペイン黄金世紀演劇とは、1590年か1681年頃までのスペイン演劇を指す。1469年にアラゴン王フェルナンド2カスティーリャ王イサベル1の結婚により統合され、1492年のグラナダ包囲でグラナダ王国キリスト教国の領域内へと奪還し、スペインはヨーロッパ強国として頭角を現すようになった。』『スペイン黄金世紀に作られた芝居の多様さを反映し、初期のスペイン国民演劇は様々なものから影響を受けている。ストーリーテリングはイタリアのコンメディア・デッラルテに起源を有する。また、西ヨーロッパで各地を旅してエンタテイメントを提供していたミンストレルからスペイン特有の表現方法が生まれ、初期スペイン演劇の語りと音楽それぞれに一般受けする要素を加えたと言える。』『ルネサンス期スペインの芝居は極めて多様であることで有名で、ヨーロッパでは唯一、世俗的な演劇と宗教的な演劇が同時に発展した。さらに、国がスポンサーをつとめる演劇が大衆向け商業演劇と共存しており、多くの演劇人は両者に有意な貢献をしていた』『商業的な上演を行う公衆劇場は1570年代頃からスペインの主要都市に建設されるようになった。1579年、マドリード初の常設劇場としてコラール・デ・ラ・クルス※が建てられた。プリンシペ劇場は1583年にこけら落としした。1584年中頃には、マドリードには他にも劇場があった。しかしながら他の劇場が衰退したため、17世紀のマドリードではクルス劇場とプリンシペ劇場のふたつが主な常設劇場となった。』 ※コラール・デ・ラ・クルスはアルマグロの)にある。スペインの17世紀の演劇についてはこの文章ではセルバンテスのドン・キホーテなども話題になるべきで、まだ研究があまり進んでいないようだ。

以下は多分朝日新聞の昭和52年(1977118日(火曜日)の47年前の切り抜きの記事で、「民謡のルーツはスペイン」と武智鉄二氏が小泉文夫著 「音楽の根源にあるもの」を紹介し書いている。

『たとえば日本民謡の「あんたがったどこさ」が、スペインのマドリードの石けり唄の童謡と同一であることを、氏(小泉文夫)の指摘によって知り、』 『「あんたがったどこさ」で代表される近世歌謡が、実はスペインからの直輸入だったと考えると、すべての疑問が解けてくる。近世音楽は、三味線と切り離しては考えられないが、三味線の渡来は永禄年間(155869)とされている。しかしスペイン人の渡来は、ザヴィエルの布教にはじまる。ザヴィエルがはじめて鹿児島湾に投錨したのは、永禄に先立つ天文年間(1549815日)のことである。』『ザヴィエルは領主たちへの贈り物として様々な楽器やクラヴィコード(ピアノの先祖的楽器)まで持参している。その上、ポルトガルのイエズス教会系のグレゴリアン聖歌も用いられていたらしく、日本民謡の一部にも、その影響をとどめているように思える。』 『ポルトガル船の水夫たちはすべてスペイン人で、この下層階級たちと、薩摩の浜辺の漁夫たちや商人たちとの交流の中で、スペイン音楽は大きな影響を残したはずである。日本の民衆は聞いたこともない珍奇なメロディーに、はじめは反発しつつ、次第に耳を傾けやがて自分たちのものにしようと思うようになったに違いない。薩摩の民謡の「ハンヤ節」「オハラ節」は、みなスペインのフラメンコ音楽の形式を継承している。』 『小泉氏の所論で特徴的なのは、日本の民謡や三味線音楽をテトラコルド(四音音階)としてとらえることで、同時にその特徴はスペイン歌謡につながっていく。たとえば私は、地唄「残月」の冒頭のメロディーがデ・ファリアが採集したスペイン歌謡の「エル・ピニョ(松)」にきわめて類似していることに、深い興味を持つ。スペインの水夫は、鹿児島の浜辺の松にもたれ、望郷の歌を唄い、松の木を指して涙しつつ日本の漁夫に語りかけたことであろう。「磯辺の松に葉がくれて」という「残月」の歌詞に、スペインの「松の木の唄」のメロディーが用いられていることは、大変興味深い。これも私の想像であるが、そのとき、スペインの水夫が用いた楽器は、三絃ギターだったのではないか。当時三絃ギターはスペインで大流行していたし、演奏法も簡単で、水夫が持ち歩くのに手ごろだったように思う。琉球の三線(さんしん=蛇皮線)は、音階も典型的な五音音階だし、それに第一、糸の張り方の順序が、三味線とまったく逆である。三線が三味線に転化する可能性は非常に少ない。おそらく薩摩の農民たちは三線の楽器を利用して、糸を逆に張り、三絃ギターの代用として、テトラコルドの音楽を奏したものであろう。』 これは少し古い記事であるが、この文章の初めに書いた2024.2.14の朝日新聞朝刊の天声人語には、17世紀の時代は日本から太平洋を回り、メキシコ島を超えて、大西洋に渡る航路もできていたようなので、武智氏の日本の歌謡がもともとはスペインから到来したとの考え方も実際にあった可能性がある。 武智鉄二の文章は本論の建築音響の交流の歴史の流れの中に存在していて素晴らしい文章となっているが、果たして裏付けがあるか知りたくなった。ただし小泉文夫著 『音楽の根源にあるもの」には日本の童謡とスペインの歌謡と同一といった話は出てこない。日本の音階はよく5音階(ヨナ抜き音階)と言われている。1オクターブの中にドレミソラドの音階である。テトラコルド音階とはどういうものか小泉文夫の書いた本の中から調べる必要がある。また武智鉄二が書いた「三絃ギター」というものも気になって、できればスペインでは何と言っていたのか書かれていればよかったと思う。近隣の東京芸大を出た大田さんの話では、まず小泉理論のテトラコルドとは、上村幸生氏の早わかり小泉理論によると「音階と言えばオクターブのサイズで出来ているものと考えますが、小泉理論ではオクターブより狭い完全4度を、基本的な単位と認めます。そしてこの完全4度を構成する二つの音を重要な音と見なします」https://www.geidai.ac.jp/labs/koizumi/results/lecture1_uemura.pdfということで、本文の「日本の音階は5音階」と言われている意味とは異なっている。たださらに大田さんは武智鉄二の本文の「あんたがったどこさ」に対しては五度枠に近い特徴があり、これは九州地方の唄(東北もらしい)は中国や韓国の影響らしいと。したがってこの話は武智鉄二の話とは異なってくる。

また以下の文章が見つかった。小泉文夫著 「音楽の根源にあるもの」のp.116には「日本の民族性についての比較音楽学的認識』で、『講式のような語りものの萌芽から、さらに平家琵琶などに発展して、中世から単なる文芸的意味よりも、演劇的型式への発展が見られて能楽が生まれ、さらに近世から浄瑠璃や歌舞伎といった傾向に進んでくる。この傾向はますます総合芸術的な色彩をそえ、歌舞伎における舞踊劇の出現にいたって、その極に達する。こうした変容の過程を見ると、ヨーロッパのオペラの発達と、ある面で共通しているように見えながら、実はヨーロッパの場合は、中世ポリオフォニーから器楽が生まれ、教会ソナタなどを経て近代の器楽形式の頂点であるソナタ形式の完成という、むしろ劇音楽と反対方向の絶対音楽の発達と平行して、こうした劇音楽があったことを思えば、やはり日本の場合には、声楽を主とし、その文芸的意味を重要視する傾向は、ヨーロッパと日本の大きな違いとみてよいだろう。』この中では小泉文夫は歌われている空間に言及していない。ヨーロッパのゴシック教会などは残響がものすごくあり、これは刺激になるはずである。これが、ハーモニーが発達してきた理由と思われる。日本のお寺には、このような残響はあまりない。そこでお経や声明などは発達してきて、あくまで声の明瞭性は存在し、話の内容はわかり、ここでいう文芸的意味が重視されていることがわかる。