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2022/01/05

横浜ボートシアターの遠藤啄郎さんの言葉「この世界は全て図形なのだということがわかった」

横浜ボートシアターの代表の遠藤さんが2020.2.7に亡くなられ、後に開かれたしのぶ会でいただいた書面によると遠藤さんが亡くなる前の臨死体験で、「この世界は全て図形なのだとわかった。自分にこだわっても仕方がない。その有様を見てさっぱりした。」とおっしゃり、目をキラキラとさせていたとのこと。

遠藤さんは舞台では「小栗判官照手姫」の中で仮面を多用し、説教「愛護の若」より「恋に狂いて」では紙の人形に囲まれていたこともあるので、仮面や人形などを思い浮かべるならわかります。

なぜ「この世界は全て図形なのだということがわかった」とおっしゃったのかずっと気になっていました。

最近思い出したことですが、東京工業大学すずかけ台校舎の建築学科の建物の入り口にいくつか記されている偉人の言葉のうち、ルイス・カーンの「I always start with squares no matter what the problem is.」という言葉があります。

正確には忘れてしまったために1月4日に外壁を撮ってきました。それは多分 「どんな問題でも私はいつも四角から始める」 という意味だと思います。

この話と横浜ボートシアターの遠藤さんの言葉は似ていませんか?遠藤さんの作品、小栗判官照手姫も愛護の若も物語は複雑ですし、ルイス・カーンのソーク生物学研究所やキンベル美術館も美しくかつ複雑ですが、もとは多分単純な図形からできているのではないかと思い始めています。

 

2022.01.04 15:00頃 東京工業大学の建築学科の校舎外観、
ほぼ中央上部にルイス・カーンの言葉が彫りこまれている。

外壁にあるルイス・カーンの言葉

音で言えばすべての波は正弦波から組み合わせることができるというフーリエ変換がその代表例かもしれません。現在は高速フーリエ変換(FFT)を用いて、周波数分析が即座にできて技術を前に進めることができます。

遠藤さんの世界は図形からできているも、ルイス・カーンの四角から始まるも、フーリエのすべての波形は正弦波からできているのもその後の作者自身の成果品が素晴らしいためになるほどと思えますが、それをまねすることは簡単ではないです。

とくに図形から「小栗判官」を生み出すのは大変なことです。願わくば遠藤さんにまたお会いして、遠藤さんの演劇を見てみたいと思います。

2021/07/28

牧の原の大興寺の鐘楼

今年は何度か仕事で静岡の牧の原に行く機会がありました。

すでにだいぶ前の話になりますが、3月の終わりに行った際、帰りがけに牧の原インター近くに大きなお寺があったので寄ってみることにしました。

大興寺というなお寺で、入り口に鐘楼がありその柱の左右に平家物語の冒頭、

「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と、

「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」

が書かれているのが目に留まりました。

鐘の声、これは音に関する言葉です。

「諸行無常の鐘の声」とは実際の音色はどんなものか、とふと気になりました。

お寺の鐘の音は、一般的にはゴーンという衝撃音の後に唸りを生じながら減衰していきます。

トレヴァー・コックス著「世界の不思議な音」のP.274に、

(この本からは以前にも引用してブログを書いたことがあります。)

教会の鐘を新たに鋳造するとき、西洋の鋳造所ではそのような震音を避けたいと考えるのがふつうだろう。ところが韓国では、この効果は音の質を決定する大事な要素と見なされている。

韓国の鐘と西洋との違いを唸りのある無しであると書いています。

私が以前に重慶の飛行場で買ったチベットのお土産の鐘も唸りが美しく、またタイのバンコクの暁の寺で買ったお土産の鐘も軽い音の唸りを生じます。

おそらく仏教に関係する鐘は唸りが重要な要素ではないかと思われますが、これは私が想像するに、人々の願いや思いを天国に届ける役割をしているものではないかと思います。

しかし個人的には、この大興寺のような鐘の音と、平家物語にある「祗園精舎の鐘の声」とは少し響きのイメージが違いました。

祇園精舎の鐘とはどのようなものなのかと思い、ネットで調べてみると、

祇園精舎の北西の一角には無常堂(無常院)というところがあり、僧たちの最後のホスピスのようなところだということです。そして臨終を迎えると建物の四隅にある鐘が鳴るそうで、それは腰鼓(ようこ)のような形で「頗梨(はり)」という水晶でできた小型の鐘と書かれているものがありました。

祇園精舎の鐘の声とは梵鐘ではないだろうと想像したことは正しかったように思いますが、真ん中がくびれた腰鼓の形をした鐘で、しかも水晶でできているとは想像もしていませんでした。

水晶でできた鐘の音は心地よい音だと想像しますが、実際どんな音だったのでしょう。

牧之原の大興寺周辺はお茶畑で、季節は桜の時期がほぼ満開でした。

大興寺の鐘楼

大興寺
    
周辺の茶畑

この写真のみ6月に行った時に撮ったものです
鐘楼左右に平家物語の冒頭が書かれています(一部薄くなっている)


2020/03/16

鶯と室内音響

昔から不思議に思っていたのですが、鶯は、目の前で鳴いてはいてもほとんど姿が見えません。それはなぜかということを、仮説を立てて、室内音響の指標を基に考えてみることにしました。

室内音響の最も有名な指標は残響時間です。明治33年(1900)ボストンシンフォニーを設計するためにSabineが作った指標です。これが室内音響の歴史の始まりです。

現在では劇場などの残響時間の測定方法はISO3382-1:2009-06-15(JISにはまだない)で定められていて、ノイズ断続法とインパルス応答2乗積分法の2種類が規定されています。
ISOではインパルス応答からは、残響時間をはじめ以下のような指標も分析することができます

AnnexA
Sound strength,G,
Early decay time(EDT)
Clarity,C80,
Definition,D50
Centre time Ts
Early lateral energy fraction ASW JLF
Late lateral sound level LEV Lj

AnnexB
Inter-aural cross correlation (IACC)

Annex C
Acoustic parameters measured on orchestra platforns
Early support, STEarly
Late support STLATE

以上がISO3382-1の音響指標ですが、イエンス・ブラウエルト他編著『空間音響』から、頭部音響伝達関数という指標を紹介します。本書の16ページ、「頭部音響伝達関数」の章より、
音源からの音波が人の両耳(鼓膜)に到達する経路は、壁の反射、回折、散乱等の室の伝達系と、頭部音響伝達関数と呼ばれる頭部や耳介による反射、回折、共振等の伝達系に分けることができる。それらの系を経て鼓膜に到達した音響信号は音刺激となり、その結果、受聴者は次の3つの特性をもった聴覚事象すなわち音像を知覚する。
1. 時間・・・リズム感、逐次感、持続感など
2. 空間・・・方向感、距離感、広がり感等
3. 室・・・大きさ、ピッチ、音色など
とあります。
頭部音響伝達関数を評価する場合には、頭の形や大きさだけでなく、耳介や耳道や鼓膜の音響特性まで忠実に似せないと聴覚事象の空間特性に顕著な違いが現れると書かれています。

以上が音響設計の主な指標となっています。

この最後の頭部音響伝達関数で、音の方向感や距離感などを感覚的にとらえることになりますが、これを利用して鳥や昆虫が音を出して、自分の位置をだましているのではないかと考えてみました。

以下に鶯の鳴き声の波形を示します。「ホーホケキョ」の中でも、瞬間、瞬間で発生する周波数が多少異なっていることがわかります。この周波数が異なることで音の方向感・距離感が異なって聞こえると想像できます。このことで鶯は見つけられないように対応しているのではないかいうのが今回の仮説です。

音の方向と、人の頭や顔の形、鼻や耳の位置で音の周波数が変化します。しかも人によってその特性が変わります。したがって音の特性が変化しない場合には、ある方向、またはある距離から聞えていると感じますが、音源の特性が突然変化すると違った方向や距離に変化したと感じるのです。

録音は昨年のものですが、我が家の庭で3月12日(木曜日)の朝、今年初めて鶯が鳴きました。また、桜の開花(3/14東京、この日は雪も降りましたが)も始まりました。

上段:鶯の鳴き声を約6分ほど録音したもの
下段:上段の赤丸部分の鶯の鳴き声を拡大したもの


上の波形を1~4の部分に分けて周波数分析


FFT分析

2019/05/23

旅する楽器展

国立民族学博物館で『旅する楽器 南アジア、弦の響き』という企画展(2019年2月21日~5月7日)を行っており、大阪での仕事の帰りに立ち寄ってみました。

国立民族学博物館は大阪府吹田市千里万博公園の中にあります。最寄り駅は大阪モノレールの万博記念公園駅です。そこから太陽の塔のわきを通った先に博物館があります。


2007年に、トルコのイスタンブールで開催されたInter Noiseの大会に参加した際、街を歩いていて大変びっくりしたのは、楽器店が多くあり、しかもエレキギターなどの電気楽器はほぼなく、ほとんどが弦楽器のサズおよびその種の民族楽器だったことです。サズは町の店舗の壁にもかけられており、いつでも弾ける状態になっています。街を歩く人の中にも楽器のケースを持っている人がたくさんいたので、一人に「それは何ですか」と声をかけると、路上でサズをケースから出して弾いてくれました。そのくらい身近に民族楽器があることに驚きました。

2007年トルコの楽器店

トルコの楽器にて

トルコの楽器にて

トルコの楽器にて

トルコの楽器にて

また、2008年にはカザフスタンに行きました。カザフスタンの民族楽器であるドンブラ及びコブスを演奏するホールの音響調査が目的でした。ドンブラは馬の足音のような弾き方で、コブスは重厚なチェロのような音を出す楽器です。カザフスタンは独立後に民族楽器の復興につとめており、その当時ドンブラ用のコンサートホールを作るという計画があったのですが、アメリカ発信のリーマン・ショック(2008年)の影響でカザフスタンにおける建設計画もかなり止まってしまい、このドンブラホールの建設計画も中止されてしまいました。とても残念なことです。


大統領文化センターホールでの民族楽器による演奏および音響測定(2008年9月28日)


 これらの旅行を通じて、様々な楽器が様々なところで存在していることが気になっていました。

また昨年には、「テュルクソイ」というテュルク語系諸民族の民族楽器の合同オーケストラの演奏を聴く機会もあり、このブログでもご紹介しました。

今回は、たまたま国立民族学博物館で開催されていた『旅する楽器 南アジア、弦の響き』の展示会に行った次第です。これだけ様々な楽器が一堂に陳列されているのを見るのはなかなかないことです。サズやドンブラ、コブスは単独にそれぞれの地域に存在していることはわかりますが、その他の地域、西アジア、中央アジア、南アジア、中国、東南アジアとのつながりが感じられます。

正直、弦楽器だけでもものすごい数が存在していることがわかりました。おそらく管楽器や太鼓なども入れると相当な数になると思います。

季刊166. 2018民俗学『特集 旅する楽器』のP.4に「楽器は、特定の地域で生まれ、その場所で何世紀にもわたって伝承された『土着』型がないわけではないが、圧倒的に多いのは他地域から伝播し定着した楽器である。」とありました。

「旅する楽器展」は西アジア、中央アジア、南アジア、日本、中国、東南アジアにある楽器のルーツを探るもので、大陸の東のどん詰まりにある日本の楽器、三線、三味線、箏などもどういう経路を経てきたのかと思いをはせました。

『旅する楽器 南アジア、弦の響き』より









2017/10/24

荏田宿のお祭り(2017)

昨年3月、地元荏田宿のお囃子の復活を目指して、お隣町の驚神社の宮元囃子連の指導を仰いで始めた練習も、ほぼ1年半が過ぎました。昨年のお祭りでは、お囃子の4曲の内のはじめの1曲目、破矢のみで参加しましたが、今年は4曲、「破矢」、「鎌倉」、「くにがため」、「四丁目」を篠笛で練習し、完璧ではないのですが参加することができました。後はひょっとこ踊りの伴奏の「いんば」という曲があり、これを覚える必要があります。9/30、5:30より9:00ごろまで宿自治会館前で宵宮、自治会役員や剣神社の関係者など約100名ほどが集まり、お囃子の演奏をバックに親睦を交わしました。

荏田宿の祭りの宵宮(前夜祭)
荏田宿の祭りの宵宮(前夜祭)
10/1、祭り本番、子供神輿とともにお囃子の屋台で荏田の町中を練り歩きました。老人ホームにも3か所行き、お囃子や獅子舞、ひょっとこ踊りを披露しました。とにかく拍手と笑顔で迎えていただいて大変ありがたい気がしました。まだ驚神社の宮元の方々の助けが無ければひょっとこ踊りはできませんが、来年はお祭りの日程も重なっているようで独り立ちしないといけません。

屋台

老人ホームでのひょっとこ踊りの披露
10/7、10/8は、荏田宿お囃子連の先生方の驚神社宮元のお祭りでした。10/7は宵宮、ここのお祭りはかなり盛大です。お囃子だけでなく、大人神輿が町中を回っています。本番の10/8は昼の11時、平崎橋交差点近くで、4つの地域のお神輿や屋台が集まり、それぞれの威勢の良さを競い合います。その迫力には驚き、大変楽しめました。荏田お囃子連はこの域に達するのはまだまだ何十年も時間がかかるのではないかと思います。驚神社の屋台では子供のお囃子もあります。荏田のお囃子連もこのように子供が参加していてはじめて何十年も継続できるようになると実感をします。

宮元の宵宮

平崎橋付近での4つの地域の競い合い
朝日新聞(2017.10.4朝刊)の連載記事の「てんでんこ」で、「音楽の力」という節がありました。大槌町の人々がばらばらに避難しているが、花巻の音楽療法士の三井さんが次第に気がついたのは、「(避難されている)皆が好むのは、童謡や流行歌ではない。地元に古くから伝わる甚句や大漁節などだ。」と書かれています。
お囃子もそうですが、長い年月、同じ曲を何度も何度も毎週のように地域で歌ったり聴いたりしているので、地域の人たちの共通の感覚ができているからだと自分の経験からも感じます。

また毎週練習をしている中で感じるのは、我々は去年始めたばかりですからうまくいかない、失敗することも多いですが、それでも先生に怒られることがない。皆が長く続けるためには独特の教え方があると感じます。そのうちに何とかなるだろうという余裕の気持ちです。

2017/08/28

1600年頃の歴史的転換点とガリレオ・ガリレイの登場

スティーヴン・ワインバーグ著「科学の発見」を読んだ。著者は1979年のノーベル物理学賞の受賞者であるが、年を経るにしたがって科学史に魅力を感じるようになったと本書の「はじめに」に書いている。

目次を拾うと、「第一部 古代ギリシャの物理学」、「第二部 古代ギリシャの天文学」、そして「第三部 中世」では、アラブ世界が古代ギリシャの知識を再発見し、黄金期を迎えたことなどが書かれる。

「第四部 科学革命」では、第11章に本書の最も重要な論点が書かれている。要約を転載する。

16世紀~17世紀の物理学と天文学の革命的変化は、現代の科学者から見ても歴史の転換点だ。コペルニクス、ティコ、ケプラー、ガリレオの計算と観測で太陽系は正しく記述され、ケプラーの三法則にまとめられた。

とある。
続けて、章のタイトルのみ記載すると、
「第12章 科学には実験が必要だ。」「第13章 最も過大評価された偉人達」
「第14章革命者ニュートン」

そして「第15章エピローグ:大いなる統一をめざして」で終わる。

本書のクライマックスはニュートンの記述であるが、ここでは「科学を発見した」ガリレオについて注目した。ガリレオが活躍したのが1600年前後だからである。

ガリレオは、1564年ピサで、音楽理論の研究者ヴィンチェンツォ・ガリレイの息子として生まれた。1600年代初め頃には、望遠鏡がすでにオランダで製造されていたというが、1609年にガリレオはすぐにその改良版を制作したという。

1609年8月23日、彼は自作の望遠鏡をヴェネティアの総督と名士たちに披露し、これを使えば、沖からやってくる船を肉眼で見えるようになるよりも2時間早く捉えられることを実演して見せた。海洋国家ヴェネティアにとって、このような器具の持つ価値は明らかだった。望遠鏡をヴェネティアに寄贈したガリレオは終身教授の身分を保障され、大学の俸給も3倍に引き上げられた。彼は11月にはすでに倍率を20倍までに高めることに成功し、望遠鏡を使って天体観測をはじめていた。

とある。この時ガリレオはおおよそ36歳であった。
ガリレオによる望遠鏡で、6つの歴史的な天文学上の発見がなされたことが紹介されている。1609年12月20日、月の凹凸を発見。無数の暗い星を発見。惑星は「小さな月の様に見える完全に円い球体」である、1610年には、木星の周りに4つの衛星を発見。同じく9月には金星も月と同じように満ち欠けすることを発見。1613年には太陽表面に黒点を発見、などである。

このように、若くしてガリレオは天文学の大きな発見を行い、財力や栄誉を得ている。このガリレオが活躍した1600年前後という時代は、世界の各地で、偉大な文化的な発展がみられた時代として興味深い。

1597年には、最初のオペラと言われている「ダフネ」がイタリアのフィレンツェで上演された。1598年、ロンドンにシェークスピアのグローブ座が出来た。1603年、日本では阿国が北野天満宮で歌舞伎踊を始めたとされている。1605年には、スペインのマドリードにてミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』が出版される。この世界的に文化的な転換があった時に、ガリレオもイタリアで活躍していた。

この本では、科学の始まりはギリシャで、そこからアラブを経てスペインにたどり着き、ヨーロッパ全体に展開していたとされるが、音律などの音楽理論については、ガリレオの父親が音楽理論研究者とする以外は、何の記述もない。音楽は音という面からみると科学的な要素で重なるところがある。
音律に関する本、「響きの考古学 音律の世界史」(藤枝守著)によると、ギリシャのピタゴラス音律(BC500)が、アラブのカザフスタンのアル・ファラビーの音楽大全(AD900頃)につながり、アラブのサフィー・アッ・ディーンAD1252)の「旋法の書」につながり、それらがスペインに伝わったとある。科学は、音楽と相当に似た経路をたどっていることがわかる。

1616年2月、ガリレオは異端審問所に呼び出され、「コペルニクス説を信ずること、または擁護することを禁ずる。」と命令を受けている。

コペルニクスの説は、地球は太陽の周りをまわっているというもの。その後、1632年ガリレオは「二大世界体系―プトレマイオス体系及びコペルニクス体系―に関する対話」(訳注:邦題「天文対話」)をフィレンツエ司教の許可の上出版した。

しかし、「1633年4月、ガリレオは裁判にかけられた。罪状は、1616年の異端審問所の命令書に違反したことだった。」とある。彼は「異端の濃厚な疑い」で終身刑を言い渡され、地動説の撤回を宣誓させられた。最終的には自分のアルチェトリの別荘で軟禁生活となり、しかしその間、1635年に「新科学対話」を完成させた。この中で落体等の運動の研究をはじめて実験をして理論化した。また実験結果を積極的に公表して、物理理論の正しさを判断できるようにしたこともガリレオの功績の様である。

1642年、ガリレオは軟禁中のアルチェトリで死去した。ガリレオの著作の様な、コペルニクス説を唱える著作がカトリック教会の禁書目録から外されたのは、それから200年近くものちの1835年ことだったが、コペルニクス的宇宙感はとうの昔にほとんどのカトリック教国とプロテスタント教国で受け入れられていた。

地球が太陽の周りをまわっていることは、地球が世界の中心である必要があった時代には体制側には受け入れられないことであったのだろう。

歴史を前に進めた偉大な人たち、ガリレオは1564生まれ、1642年に亡くなった。同年、ニュートンが生まれている。シェークスピアはガリレオと同じ1564年、ストラトフォード・アボン・エイボンに生まれ、1616年に死去している。

1600年前後は中世から近世への大きな転換点である。

2017/08/07

中国天津・重慶に出張

7/4から7/7まで天津・重慶に行ってきた。天津は羽田から西へ3時間余り、とても近い。到着して、午後から打ち合わせ。翌日、朝の打ち合わせ前にホテルの近くを散歩した。ホテルの前はレストランやカフェがならぶこじんまりした小路、その先は緑の多い広場になっていて、広場に面してギリシャ古典様式のコンサートホールがある。

コンサートホール
まだ朝の7時、早いのでドアは閉まっていたが、公演の案内ポスターが貼ってあった。クラシックコンサート(写真)から伝統音楽(写真)までやっているようだ。




ここ天津出身の高さんによれば、数十年前、ここは映画館だったようだ。この様なしっかりとした建物が映画館とは、多くの芝居小屋が映画館になった日本とは大きく違う。

7/5の午後、重慶に向う。天津からは相当遠い。重慶の印象は霧である。当初PM2.5かと勘違いをした。次の印象は緑が多いことである。温暖で雨が多いからのようだ。そして素晴らしいのは、高層ビルも含めて、屋上庭園がおそらく全ての建物に存在していることだ。
ビルの屋上はほぼ緑化されている
また古い町並みを残していい雰囲気の地区もある。


さらに重慶は大河の長江と嘉陵江(かりょうこう)の合流地点で、しかも盆地のために湿度が多い。この合流地点は30万ドルの夜景と自ら称している。香港には負けるけど、それに近いほどきれいだという意味だそうである。その夜景を見ながら、火鍋を食べるのがここの人たちの楽しみのようだ。




火鍋屋が立ち並ぶ
川沿いにたくさん火鍋屋さんが並んでいる。何でこんなに辛い食べ物を食べるかと言えば、湿度が多いために汗をかきにくいので、辛いのを食べて汗をかいて健康になろうということのようだ。この長江は上海まで何千キロの旅をするのだが、とても水の流れが強い。単なるゆったりとした大河ではなく、水がとうとうと流れる大河だった。重慶の飛行場で、チベット物産の店に鐘が売っていたので、鳴らしてみたら何と唸り音が生じた。


2017/06/29

都市の中の心地よい音 その2 人工的な音

以前、弊社の事務所は横浜市関内の尾上町通りに面したところにあり、それに連なって市役所や横浜球場があるために、野球のあるときは応援の声が賑やかで、地響きのように聞こえるときもあった。野球が終わると飲み屋は一杯になる。1998年にベイスターズが優勝した時には眼の前の道路でパレードが行われ、事務所のバルコニーから『浜の大魔神』に手を振った。また開港祭のときには日本大通りで吹奏楽のパレードがある。市役所が近いために、時にはデモ行進や街宣車も来る。また港があるので船の汽笛の音も聞こえる。これらは横浜の都市の音として記憶している。

先月、「都市の中の心地よい音」というブログで、トレヴァー・コックス(Trevor Cox)著の「世界の不思議な音」(英文題「The Sound Book The Science of the Sonic Wonders of the World 」)をご紹介した。

この中の「音のある風景」の章で、都市の象徴的な音「サウンドマーク」は「ランドマークと同じく多様性に富む」とし、カナダのバンクーバーの汽笛、シリアの水車のうなり、アメリカ南西部ではアムトラックの警笛、そしてロンドンを代表する音として国会議事堂の時計台にあるビッグベンの音をこのように紹介している。
「ビッグベンは新年を迎えるときに鳴らされ、何十年もニュース番組の冒頭で流され続け、休戦記念日(アメリカでは「復員軍人の日」と呼ばれる)には二分間の黙祷の開始を告げるのにも使われる。」
と、非常に日常に浸透した音であることがわかる。
「大鐘が鳴る前に、鐘楼の四隅にある四つの鐘が有名な「ウエストミンスター・チャイム」を奏でる。」
それに続きビッグベンの大鐘が10回ならされるそうだ。少し、この鐘の音について内容をご紹介する。
「まず金属がぶつかりあうカーンという音がして、それが次第に弱まるにつれ朗々と響く音になり、二〇秒ほど続く。最初のハンマー音の打撃から生じる音は高周波成分が多いが、それはすぐ消滅し、もっと穏やかな低周波数の響きが残ってゆったりとした震音を発する」。
この震音とは二つのわずかに異なる周波数が重なると発生する唸りのことで日本の鐘にもある現象である。
「鐘の場合は対称性によって、というか正確には対称性の欠如によって、震音が生じる。完璧な円形でない場合、鐘はうなりを生じる二つの近接した周波数をもつ音を出す。教会の鐘を新たに鋳造するときには、西洋の鋳造所ではそのような震音は避けたいと考えるのは普通だろう。ところが韓国では、この効果は音の質を決定する大事な要素とみなされている。西暦771年に鋳造された聖徳大王神鐘は、「エミレの鐘」という呼び名の方がよく知られている。この鐘を鳴らすと「エミレ」(お母さん)と子供が泣き叫ぶような音がすると言われている。言い伝えによると、鐘の音を響かせるために鋳造師が自らの娘を人身供養としてささげさせられたという。 ビッグベンが明瞭な唸りを発するのは、いくつかの傷のせいで二つの周波数が生じるからであり、傷の一つははっきりと見て取れる。
『参考文献:S.-H.Kima, C.-W.Lee, and J.-M,Lee “Beat Charcteristics and Beat Maps of the King Seong-deok Divine Bell” Journal of Sound and Vibration 281 (2005):21-44』
私は30年ほど前に、数カ月ウイーンで生活したが、昼と夕方など、定時に近くのセント・エリザベス教会の鐘が鳴るのを毎日聞いた。その鐘の音は、日本の鐘の様には唸ることはなく、「ガーンガーン」と、まるで私はここにいるから来なさいと言っている感じで鳴る。しかし、ビッグベンの音は日本の鐘の様に唸るのだ。ビッグベンの鐘の音を、ロンドンの人はどのように聞いて感じているのだろうか。

韓国の鐘は聞いたことがないが、きっと日本の寺の鐘と同じように唸りがあるのだろう。私にはお寺の鐘の音は、仏壇の鈴(りん)と同じように、唸ることで願が天に伝わるような気がする。また別の本であるが、笹本正治著「中世の音・近世の音 鐘の音の結ぶ世界」には、鐘の音は「この世とあの世を結ぶものとして意識されている」との記述がある。

かつて特に中世では、寺の鐘は昼と夜の境を知らせる身近な関係にあったと思われる。
しかし今や日本の都市の中でお寺の鐘の音は騒音にかき消されてしまって、あまり象徴的な意味が少なくなっていると思われる。祭りのお囃子やお神輿の声でさえも、身近な音ではなく単なる騒音として感じられるようになっている可能性がある(祭りの音にクレームが出ることもある)。音楽はコンサートホールの中にのみ存在できる状態がある。

歌舞伎に「夏祭浪花鑑」という話がある。主人公が訳あって人をけがさせ刑務所に入り、出所してやっと故郷に戻ってきたばかり。夏祭りの音が生き生きと聞こえる。しかしその後、人を助けるために格闘の末に、また悪人をあやめてしまう。人生が思い通りにならないやる瀬なさのなか逃亡しようとし、ふと気がつくと、今度はお祭りのお囃子の音がしだいに遠のいて聞こえている、という表現がなされる。これは、お祭りが人々に身近な時代の物語である。

一方で、お囃子を復活させようという動きもあり、今、我町も毎週1回、近所の集会所でお囃子の練習が行われている。地元で身近な音になるといいと思う。

2017/05/19

都市の中の心地よい音

春になり、小鳥の声がよく聞こえるようになった。緑の多い静かな住宅街にある我が事務所の周りでは、まず目立つのが鶯であるが、身近なスズメやキジバト、ヒヨドリ、シジュウカラなどがにぎやかである。目の前には公園があって、夕方には学校から帰ってきた子供たちの声が聞こえるのも何とも平和な気がする。

先日、雨の日に青葉区寺家町のふるさと村に行ったら、田んぼの横の用水路にアマガエルがケロケロ大きな声で鳴いていて、久しぶりに聞いたアマガエルの声に嬉しくなった。このふるさと村は、横浜市の中で里山をわずかに残している場所で、気分転換によく行く場所である。

トレヴァー・コックス(Trevor Cox)著の「世界の不思議な音」(英文題は「The Sound Book The Science of the Sonic Wonders of the World 」)を読んだ。

「世界で一番静かな場所」という章で、イングランド田園地帯保護協会(CPRE)の調査では、静穏が得られればストレスが軽減することが証明されているとあり、静穏感をもたらす三大要素は、「自然の風景を眺めること」、「鳥の鳴き声を聞くこと」、「星を見ること」だそうだ。

それに続いて、「都市で大事なのは絶対的な音の大きさではなく、相対的な静けさだと。田舎と同様、人為的な音は抑えるべきであるが、完全に聞こえなくする必要はない。自然の音が大きくなれば街の静穏度が高くなると研究で判明しているので、鳥の鳴き声や葉のざわめき、水の流れる音などを積極的に取り入れるべきである」とある。

交通騒音や工場騒音などの騒音は低減する必要があるが、そういった喧噪のなかでも、自然の音が聞こえてくることが重要な役割があるとわかる。また、都市の人工的な音の中でも、お寺の鐘の音などは一つの文化的なものの象徴として存在していて、心地よい音と感じるものである。上記の本の中でも、都市の象徴的な音「サウンドマーク」(例えばロンドンのビッグベンの鐘の音)が人にもたらす影響について書かれているが、それはまた別の機会に書こうと思う。

2017/04/25

喜多流大島能楽堂の見学

 広島県福山市の学校の体育館で、グラスウール天井撤去後の残響時間の測定を行う機会がありました。

 測定後、ご紹介いただいた設計事務所に併設されているお茶室でお抹茶をいただきました。目の前に福山城が見える素晴らしい茶室でした。その際に設計事務所の方から近くの能楽堂をご紹介いただき、翌朝9時に見学の予約をして行ってみることになりました。

茶室からの景色 目の前が福山城

能楽堂までの道の途中
 福山駅前から商店街を通り、歩いて約10分程度で、目的地の喜多流大島能楽堂です。4代目の大島 政允(おおしま まさのぶ)氏の奥様に施設の案内をしていただきました。大島家は福山藩の藩士でしたが、明治維新後、独立して能の普及につとめられたそうです。

 現在ある能楽堂はRC4F建て、1Fには能に関する展示室、3F~4Fは能舞台および楽屋となっています。能舞台は二方向自然の光が入る空間で、本来の屋外にあった能舞台を感じさせてくれます。能舞台の桧板は竣工当時(昭和46年)毎朝、糠で磨いたそうで、いまだにピカピカです。300席ほどありますが、舞台を囲んでいるために舞台が間近で親密感があります。これが本来の劇場のあるべき姿の様な気もします。
 楽屋には娘道成寺に使われた鐘が置かれていました。鉄のフレームを布で覆ったもので、非常に重いものでした。

能楽堂内
自然光が入る明るいです
足袋をお借りして舞台を歩いてみました


 1階の展示室でお抹茶をご馳走になりながら、いろいろお話を伺いました。海外公演も行われることがあり、また外国からのお客さんもたくさんいらっしゃるようです。「国から一銭も援助をもらっていません」という言葉が印象に残りました。気づくと2時間半ほどもお邪魔してしまいました。

 福山は文化に対する強い気概が定着しているような印象を受けました。朝、商店街を歩いた時も、景色がすっきりとして見え、そこに電柱が無いことに気づきました。道を掃除している人に、思わず「きれいですね」と声をかけてしまいました。地方に多いシャッター街ではなく、元気な商店街でした。珍しい和楽器店(柴田楽器店)もあり、中を覗くと箏三味線のほかに篠笛もあります。実は前日の体育館の音響測定用に持ってきた篠笛を、測定後に紛失してしまいました。朝は閉まっていたので帰りがけに寄って、記念に買って帰りました。広島県福山市はお琴の生産も日本一という土地柄だそうです。

電柱がなくすっきりしています

和楽器屋さんのショーウィンドウ
能楽堂で思いがけず長居してしまったため、行きたいと思っていた鞆の浦には行けずじまいでした。また次の機会に行ってみたいと思います。

2017/04/24

平野交差点整備計画(旧平野屋古民家の活用工事)

だいぶ前の話になりますが、2月の終わりに富士山を見に行き、その際に以前にブログで紹介した古民家のその後の様子を見に行ってみました。

「山中湖の寿徳寺の三浦環の墓」2016.11.08で、寿徳寺の門前にある、解体修理が始まっていた古民家です。
現場には以下の写真の様な内容の工事が行われていました。紹介を見ると、
「既存の骨組みをそのまま活かして地域活動や体験学習などのイベントに利用できる施設に改修します。」
と、あります。建物は旧平野屋という明治初期前後に建設されたものだそうで、なかなか立派な古民家です。山中湖の玄関口にあたる平野交差点にあり、交差点周辺の再整備計画が進行しています。バスの待合所や、観光カウンター、イベント広場なども計画されているようです。(リンク PDFが開きます。)

山中湖には、富士山というとてつもなく大きな魅力がありますが、歴史的な町並みや建造物が案外少ないのです。この建物は建設初期に完全に復原するものではありませんが、再生して活用することは素晴らしいと思いました。昨年のまだ工事が始まったばかりの時に解体中の古民家を見て、その時は何ができるのかわかりませんでしたが何か前向きな開発の気配を感じ、その後を確認したいと思い行ってみました。
どのような施設が出来上がるのか楽しみです。




工事風景
山中湖からの富士山

2016/11/28

半田の街

音の測定の仕事で、11月18日(金)に愛知県の半田に行きました。
仕事が終わった夕方、すでに暗くなっていましたが新美南吉記念館に行きました。新美南吉は、童話ごんぎつねの作者(1913(大正2)~1943(昭和18))です。
記念館の建築は、屋根が波打っていて里山の雰囲気を表している素晴らしいデザインだと思いました。

翌朝、午前中時間があったので、知多半田駅前で30年近く前に設計に関わった旧第一証券半田支店の建物を見に行きました。現在は社会福祉法人むそうという障害者施設になっていましたが、建物が残っていてよかったです。設計した当時は半田の商店街の中に存在していましたが、今や周辺は駐車場になっていました。駅前なので将来の計画があるのでしょうが、今はちょっとさみしい感じです。


旧第一証券半田支店の建物と(現在は社会福祉法人むそう)

その後、近くの赤レンガ建物を見学しました。ここは明治31年(1898年)にカブトビール工場として誕生したとのこと。設計は明治の代表的な建築家の妻木頼黄(つまきよりなか)で、横浜レンガ倉庫も設計しています。当時ドイツ人の技術者を二人招いて、本格的なドイツビールを明治時代に製造していたようです。

最近になって使われなくなって建物を解体し始めたところ住民の反対があり、市が買い取って改装したとのことで、危なく無くなるところだったのです。
この建物は、一部はレンガ構造で階数が4~5階あり、横浜のレンガ倉庫より高いです。また一部は木造のフレームの中にレンガが組み込まれている構造で、富岡製糸場と同じ構造になっています。



観光施設としてオープンしてまだ間が無いとのことですが、観光客がたくさん来ていました。雰囲気のいいカフェでは当時のビールと同じ味のビールが飲めるようです。
半田の街は、お酢のミツカンが創業したところだそうです。運河があり、地の利が良く、商売が盛んだったようです。このミツカンもかぶとビールに経営参加していたようです。

赤レンガのカフェ
また赤レンガ建物の近くに、順正寺という大きなお寺があったのでちょっと寄りましたら、聖母マリア像のようなお地蔵さんがあり、興味を持って写真を撮りました。
マリア像のようなお地蔵さん

 また半田は山車祭りで有名で、5年に一度、31輌の山車が一度に揃うようで、写真を見ると壮観です。前回は平成24年でしたから、次回は平成29年、来年に行われることになります。
町には歴史が、特に頑張った歴史が大事だと感じたところです。

この半田の山車祭りのうちの一つ、亀崎潮干祭の山車行事が、ユネスコの無形文化遺産に登録される見通しの「山車が登場する全国33の祭り、『山・鉾・屋台行事』」に含まれています。