2017/08/28

1600年頃の歴史的転換点とガリレオ・ガリレイの登場

スティーヴン・ワインバーグ著「科学の発見」を読んだ。著者は1979年のノーベル物理学賞の受賞者であるが、年を経るにしたがって科学史に魅力を感じるようになったと本書の「はじめに」に書いている。

目次を拾うと、「第一部 古代ギリシャの物理学」、「第二部 古代ギリシャの天文学」、そして「第三部 中世」では、アラブ世界が古代ギリシャの知識を再発見し、黄金期を迎えたことなどが書かれる。

「第四部 科学革命」では、第11章に本書の最も重要な論点が書かれている。要約を転載する。

16世紀~17世紀の物理学と天文学の革命的変化は、現代の科学者から見ても歴史の転換点だ。コペルニクス、ティコ、ケプラー、ガリレオの計算と観測で太陽系は正しく記述され、ケプラーの三法則にまとめられた。

とある。
続けて、章のタイトルのみ記載すると、
「第12章 科学には実験が必要だ。」「第13章 最も過大評価された偉人達」
「第14章革命者ニュートン」

そして「第15章エピローグ:大いなる統一をめざして」で終わる。

本書のクライマックスはニュートンの記述であるが、ここでは「科学を発見した」ガリレオについて注目した。ガリレオが活躍したのが1600年前後だからである。

ガリレオは、1564年ピサで、音楽理論の研究者ヴィンチェンツォ・ガリレイの息子として生まれた。1600年代初め頃には、望遠鏡がすでにオランダで製造されていたというが、1609年にガリレオはすぐにその改良版を制作したという。

1609年8月23日、彼は自作の望遠鏡をヴェネティアの総督と名士たちに披露し、これを使えば、沖からやってくる船を肉眼で見えるようになるよりも2時間早く捉えられることを実演して見せた。海洋国家ヴェネティアにとって、このような器具の持つ価値は明らかだった。望遠鏡をヴェネティアに寄贈したガリレオは終身教授の身分を保障され、大学の俸給も3倍に引き上げられた。彼は11月にはすでに倍率を20倍までに高めることに成功し、望遠鏡を使って天体観測をはじめていた。

とある。この時ガリレオはおおよそ36歳であった。
ガリレオによる望遠鏡で、6つの歴史的な天文学上の発見がなされたことが紹介されている。1609年12月20日、月の凹凸を発見。無数の暗い星を発見。惑星は「小さな月の様に見える完全に円い球体」である、1610年には、木星の周りに4つの衛星を発見。同じく9月には金星も月と同じように満ち欠けすることを発見。1613年には太陽表面に黒点を発見、などである。

このように、若くしてガリレオは天文学の大きな発見を行い、財力や栄誉を得ている。このガリレオが活躍した1600年前後という時代は、世界の各地で、偉大な文化的な発展がみられた時代として興味深い。

1597年には、最初のオペラと言われている「ダフネ」がイタリアのフィレンツェで上演された。1598年、ロンドンにシェークスピアのグローブ座が出来た。1603年、日本では阿国が北野天満宮で歌舞伎踊を始めたとされている。1605年には、スペインのマドリードにてミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』が出版される。この世界的に文化的な転換があった時に、ガリレオもイタリアで活躍していた。

この本では、科学の始まりはギリシャで、そこからアラブを経てスペインにたどり着き、ヨーロッパ全体に展開していたとされるが、音律などの音楽理論については、ガリレオの父親が音楽理論研究者とする以外は、何の記述もない。音楽は音という面からみると科学的な要素で重なるところがある。
音律に関する本、「響きの考古学 音律の世界史」(藤枝守著)によると、ギリシャのピタゴラス音律(BC500)が、アラブのカザフスタンのアル・ファラビーの音楽大全(AD900頃)につながり、アラブのサフィー・アッ・ディーンAD1252)の「旋法の書」につながり、それらがスペインに伝わったとある。科学は、音楽と相当に似た経路をたどっていることがわかる。

1616年2月、ガリレオは異端審問所に呼び出され、「コペルニクス説を信ずること、または擁護することを禁ずる。」と命令を受けている。

コペルニクスの説は、地球は太陽の周りをまわっているというもの。その後、1632年ガリレオは「二大世界体系―プトレマイオス体系及びコペルニクス体系―に関する対話」(訳注:邦題「天文対話」)をフィレンツエ司教の許可の上出版した。

しかし、「1633年4月、ガリレオは裁判にかけられた。罪状は、1616年の異端審問所の命令書に違反したことだった。」とある。彼は「異端の濃厚な疑い」で終身刑を言い渡され、地動説の撤回を宣誓させられた。最終的には自分のアルチェトリの別荘で軟禁生活となり、しかしその間、1635年に「新科学対話」を完成させた。この中で落体等の運動の研究をはじめて実験をして理論化した。また実験結果を積極的に公表して、物理理論の正しさを判断できるようにしたこともガリレオの功績の様である。

1642年、ガリレオは軟禁中のアルチェトリで死去した。ガリレオの著作の様な、コペルニクス説を唱える著作がカトリック教会の禁書目録から外されたのは、それから200年近くものちの1835年ことだったが、コペルニクス的宇宙感はとうの昔にほとんどのカトリック教国とプロテスタント教国で受け入れられていた。

地球が太陽の周りをまわっていることは、地球が世界の中心である必要があった時代には体制側には受け入れられないことであったのだろう。

歴史を前に進めた偉大な人たち、ガリレオは1564生まれ、1642年に亡くなった。同年、ニュートンが生まれている。シェークスピアはガリレオと同じ1564年、ストラトフォード・アボン・エイボンに生まれ、1616年に死去している。

1600年前後は中世から近世への大きな転換点である。

2017/08/07

中国天津・重慶に出張

7/4から7/7まで天津・重慶に行ってきた。天津は羽田から西へ3時間余り、とても近い。到着して、午後から打ち合わせ。翌日、朝の打ち合わせ前にホテルの近くを散歩した。ホテルの前はレストランやカフェがならぶこじんまりした小路、その先は緑の多い広場になっていて、広場に面してギリシャ古典様式のコンサートホールがある。

コンサートホール
まだ朝の7時、早いのでドアは閉まっていたが、公演の案内ポスターが貼ってあった。クラシックコンサート(写真)から伝統音楽(写真)までやっているようだ。




ここ天津出身の高さんによれば、数十年前、ここは映画館だったようだ。この様なしっかりとした建物が映画館とは、多くの芝居小屋が映画館になった日本とは大きく違う。

7/5の午後、重慶に向う。天津からは相当遠い。重慶の印象は霧である。当初PM2.5かと勘違いをした。次の印象は緑が多いことである。温暖で雨が多いからのようだ。そして素晴らしいのは、高層ビルも含めて、屋上庭園がおそらく全ての建物に存在していることだ。
ビルの屋上はほぼ緑化されている
また古い町並みを残していい雰囲気の地区もある。


さらに重慶は大河の長江と嘉陵江(かりょうこう)の合流地点で、しかも盆地のために湿度が多い。この合流地点は30万ドルの夜景と自ら称している。香港には負けるけど、それに近いほどきれいだという意味だそうである。その夜景を見ながら、火鍋を食べるのがここの人たちの楽しみのようだ。




火鍋屋が立ち並ぶ
川沿いにたくさん火鍋屋さんが並んでいる。何でこんなに辛い食べ物を食べるかと言えば、湿度が多いために汗をかきにくいので、辛いのを食べて汗をかいて健康になろうということのようだ。この長江は上海まで何千キロの旅をするのだが、とても水の流れが強い。単なるゆったりとした大河ではなく、水がとうとうと流れる大河だった。重慶の飛行場で、チベット物産の店に鐘が売っていたので、鳴らしてみたら何と唸り音が生じた。