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2015/06/18

ジャカルタ芸術劇場 Gedung Kesenian Jakarta ("Jakarta Art Building") 見学

 5/30昼過ぎ、仕事で再びバンドンに行った帰りのジャカルタで、飛行機の出発の前に時間があったので、ジャカルタ芸術劇場に寄ってみました。この劇場では、その時ちょうど子供のバレエスクールの発表会が行われており、切符は完売していましたが、2F席の裏方がビデオ撮影しているところに、幸運にも入れていただくことができました。

外観

 客席は馬蹄形で、2Fのバルコニー席があり、オペラハウスのようでした。バレエの公演は、生演奏はなく、伴奏はコラムスピーカ(2F席のスピーカはTOAなので、コラムもおそらくTOA)から音を出していました。子供たちは小学校低学年または未就学でしたが、一所懸命な感じが良く出ていました。演出に霞幕の様なものも使われていました。霞幕は上部に引き上げていましたので、フライズもありそうです。客席数は475席です。








 以下に、建設されてから現在に至るおおよそ200年の経緯を英語版Wikipediaの一部を日本語に翻訳してみましたが、この劇場はその時その時で様々に変化して使用されてきたことを伺うことができ、劇場としてとても幸せな扱いをされていると感じます。日本の芝居小屋は、戦後、ここと同様に映画館として使われた後、ほとんどが終了してしまいました。

以下引用翻訳。

1821年にオランダ植民地政府により、既存に有ったbamboo theaterに代わり、より恒久的な構造のもの作り変えられた。設計はJ.C. Schultzeで、 Neoclassical styleのデザインである。Gedung Komedi ("Comedy building").[2]という名前で有名になった。杮落しは1821年10月の予定であったが、コレラの流行で延期され12月7日に行われた。公演はシェークスピアのオテロであったとのこと。ただし女性歌手やオーケストラの不足などで民間企業の経営が失敗し、1848年に政府が引き継ぎ、1911年にはバタビア市(ジャカルタの植民地時代の名前)に引き継がれた。
最初の照明は蝋燭や灯油ランプで有ったが、1864年にはガス灯が導入され、1882年には電気が初めて使われたが、1910年まではガス灯も使われていた。
National Awakeningの時代、1926年には地域の青年同盟により、Kongres Pemoeda (Youth Congress)のために使われた。
日本占領時代(1942~1945)は最初軍の本部として使われ、1943年4月には劇場( Sin'tsu Cekizyoo.[1])として使われた。
独立時代には Seniman Merdeka, ("Independent Artists")として若い芸術家の会議場所として使われるようになった。1945年8月29日、インドネシアの公式の独立記念日の12日後には最初の大統領のスカルノがインドネシア中央政府を発足させ、ここで最初の会議が開かれた。
1951年にはインドネシア大学の経済学部により使われるようになり、1957年から1961年まではインドネシア国立劇場アカデミーにより使われていた。
1968年には建物は再び名前を変え、 Bioskop Diana (Diana Theater)となり、Brigadier General Pimgadie.によって管理された。1970年には中国映画を見せる映画館になり、City Theaterという名前になった。
1984年には元に機能にも戻すように法律が制定され、 3 billion rupiah(※当時のレートで約3億円ほど)かけて改修され、1987年9月5日にGedung Kesenian Pasar Baru.[1]から Gedung Kesenian Jakarta,になり、現在に至っている。

2015/06/10

こんぴら歌舞伎大芝居と芝居小屋調査


今年の1月19日のブログで紹介した、共同で芝居小屋の音響特性の研究をしているベルリン工大のクレメンスさんから昨年暮れにメールがあり、助成金が取れそうなので、いくつかの芝居小屋などを調査したいとのこと。調査の対象は、旧金毘羅大芝居金丸座、内子座、川越の鶴川座、早稲田大学の大熊講堂を設定し、金丸座と内子座の調査の日程は、4月26日のこんぴら歌舞伎大芝居の千穐楽を見るスケジュールで決定しました。

メンバーはクレメンスさん、東大の森下さん、YABのアントニオと私です。

25日の朝、あざみ野駅で皆さんと待ち合わせをして車で横浜を出発し、その日の夕方に琴平に到着をしました。

翌朝26日、旧金毘羅大芝居金丸座で、まず千穐楽のもちつきを見た後、午前部を観ました。
『伊勢音頭恋寝刃』です。序幕では客席の中で役者さんの「追いかけっこ」があり、「芝居小屋の客席も舞台の一部」が表現されていて、外国人の皆さんも楽しんでいただけました。午後は金比羅宮の参拝をしました。

27日朝には琴平を経ち、途中善通寺に寄り、内子に向いました。内子の伝統的な街並みを散歩した後、5時より内子座の調査を行いました。

28日にはふたたび琴平に向い、夜5時より琴平の旧金比羅大芝居金丸座の調査を行いました。29日朝には琴平を出て夕方、横浜に到着、約2000kmの長旅が無事終了しました。

またこの調査に先駆けて、川越の鶴川座を4月23日に行っており、さらに5月12日には大熊講堂の調査を行いました。

調査の方法は、3Dレーザースキャナーを用いて、空間の形状を把握して、そのデータを用いて室内音響シミュレーションを行おうとするものです。3Dレーザースキャナーは東大の森下先生が担当しています。また鶴川座と大隈講堂では音響インパルス応答の測定もしています。これはYABが担当しました。その後、クレメンスさんにより音響シミュレーションが行われ音質評価を行います。特に川越市鶴川座は、現在は映画館が廃墟になった状態です。これを音響シミュレーションでかつての芝居小屋の音響に復元しようとしています。

また調査に当たっては、川越市役所都市景観課および蔵の会の皆様、内子町役場 町並・地域振興班の皆様、琴平町教育委員会の皆様、早稲田大学文学部の児玉教授、および木造劇場研究会の皆様に大変お世話になりました。
今後データをまとめて、解析・結果が出ましたら学会などに発表する所存です。

川越鶴川座の測定

川越鶴川座の測定

第三十一回こんぴら歌舞伎大芝居の千穐楽のもちつき

第三十一回こんぴら歌舞伎大芝居 千秋楽

内子の街並み

内子座の測定

内子座の測定



内子座外観

大隈講堂測定

大隈講堂測定

大隈講堂測定

大隈講堂測定2階席