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2016/11/28

半田の街

音の測定の仕事で、11月18日(金)に愛知県の半田に行きました。
仕事が終わった夕方、すでに暗くなっていましたが新美南吉記念館に行きました。新美南吉は、童話ごんぎつねの作者(1913(大正2)~1943(昭和18))です。
記念館の建築は、屋根が波打っていて里山の雰囲気を表している素晴らしいデザインだと思いました。

翌朝、午前中時間があったので、知多半田駅前で30年近く前に設計に関わった旧第一証券半田支店の建物を見に行きました。現在は社会福祉法人むそうという障害者施設になっていましたが、建物が残っていてよかったです。設計した当時は半田の商店街の中に存在していましたが、今や周辺は駐車場になっていました。駅前なので将来の計画があるのでしょうが、今はちょっとさみしい感じです。


旧第一証券半田支店の建物と(現在は社会福祉法人むそう)

その後、近くの赤レンガ建物を見学しました。ここは明治31年(1898年)にカブトビール工場として誕生したとのこと。設計は明治の代表的な建築家の妻木頼黄(つまきよりなか)で、横浜レンガ倉庫も設計しています。当時ドイツ人の技術者を二人招いて、本格的なドイツビールを明治時代に製造していたようです。

最近になって使われなくなって建物を解体し始めたところ住民の反対があり、市が買い取って改装したとのことで、危なく無くなるところだったのです。
この建物は、一部はレンガ構造で階数が4~5階あり、横浜のレンガ倉庫より高いです。また一部は木造のフレームの中にレンガが組み込まれている構造で、富岡製糸場と同じ構造になっています。



観光施設としてオープンしてまだ間が無いとのことですが、観光客がたくさん来ていました。雰囲気のいいカフェでは当時のビールと同じ味のビールが飲めるようです。
半田の街は、お酢のミツカンが創業したところだそうです。運河があり、地の利が良く、商売が盛んだったようです。このミツカンもかぶとビールに経営参加していたようです。

赤レンガのカフェ
また赤レンガ建物の近くに、順正寺という大きなお寺があったのでちょっと寄りましたら、聖母マリア像のようなお地蔵さんがあり、興味を持って写真を撮りました。
マリア像のようなお地蔵さん

 また半田は山車祭りで有名で、5年に一度、31輌の山車が一度に揃うようで、写真を見ると壮観です。前回は平成24年でしたから、次回は平成29年、来年に行われることになります。
町には歴史が、特に頑張った歴史が大事だと感じたところです。

この半田の山車祭りのうちの一つ、亀崎潮干祭の山車行事が、ユネスコの無形文化遺産に登録される見通しの「山車が登場する全国33の祭り、『山・鉾・屋台行事』」に含まれています。

2015/10/09

バンドン会議場見学

8月22日から27日まで4回目のバンドンに行く。23日が日曜日のために、ホテルの近くにあるモスクとバンドン会議の会議場を見学した。1955年に開催された反帝国主義・反植民地主義・民族自決を掲げたバンドン会議が行われた場所である。このバンドン会議は残念ながら1回しか開催されなかったようである。

ちょうど今年はインドネシア独立70周年にもあたるようで、ポスターがたくさんあった。またアジア・アフリカ道路は歩行者天国になっていた。

アジア・アフリカ道路 歩行者天国

バンドン会議場

バンドン会議の会場は現在博物館になっており、無料で入ることができる。
会場の仕上げ材は薄いボードにペンキ仕上げである。天井は凹曲面でできていて、フラッターも聞こえる。しかしこれは人がたくさん入れば無くなる可能性もある。当時は独立したばかりの国が多いため、ものすごい熱気にあふれていたと想像ができる。

※本建物は公式パンフレットによると1921年に豪華なホールとして建てられたもののようだ。


会議場内部

会議場内部


ジャワ影絵芝居ワヤンをやっているとホテルで紹介された場所(Selasar Sunaryo)へ行ったが、いわゆる現代美術館で、ワヤンはやっていないようであった。
しかし写真(喫茶店)のようにゆったりとしていて、たくさんの人が来ていた。


竹楽器の音楽のAngklung Udjo以外、バンドンには劇場が見当たらない。

ただし、おいしいコーヒーを焙煎販売しているアロマコーヒー店前に、ギターを弾いている人がいて、彼の前にはガラス瓶が置いてあり、中にはたくさんのお札が入っているようであった。その周辺には何人かが彼の歌を聴いていて、しかも一緒に歌っている人が多い。また歩道を歩く人も、その歌を口ずさみながら通り過ぎて行く。彼を励ましているような感じにも見えた。芸能文化が生きていて、生活に根付いているように感じられた。

2015/06/18

ジャカルタ芸術劇場 Gedung Kesenian Jakarta ("Jakarta Art Building") 見学

 5/30昼過ぎ、仕事で再びバンドンに行った帰りのジャカルタで、飛行機の出発の前に時間があったので、ジャカルタ芸術劇場に寄ってみました。この劇場では、その時ちょうど子供のバレエスクールの発表会が行われており、切符は完売していましたが、2F席の裏方がビデオ撮影しているところに、幸運にも入れていただくことができました。

外観

 客席は馬蹄形で、2Fのバルコニー席があり、オペラハウスのようでした。バレエの公演は、生演奏はなく、伴奏はコラムスピーカ(2F席のスピーカはTOAなので、コラムもおそらくTOA)から音を出していました。子供たちは小学校低学年または未就学でしたが、一所懸命な感じが良く出ていました。演出に霞幕の様なものも使われていました。霞幕は上部に引き上げていましたので、フライズもありそうです。客席数は475席です。








 以下に、建設されてから現在に至るおおよそ200年の経緯を英語版Wikipediaの一部を日本語に翻訳してみましたが、この劇場はその時その時で様々に変化して使用されてきたことを伺うことができ、劇場としてとても幸せな扱いをされていると感じます。日本の芝居小屋は、戦後、ここと同様に映画館として使われた後、ほとんどが終了してしまいました。

以下引用翻訳。

1821年にオランダ植民地政府により、既存に有ったbamboo theaterに代わり、より恒久的な構造のもの作り変えられた。設計はJ.C. Schultzeで、 Neoclassical styleのデザインである。Gedung Komedi ("Comedy building").[2]という名前で有名になった。杮落しは1821年10月の予定であったが、コレラの流行で延期され12月7日に行われた。公演はシェークスピアのオテロであったとのこと。ただし女性歌手やオーケストラの不足などで民間企業の経営が失敗し、1848年に政府が引き継ぎ、1911年にはバタビア市(ジャカルタの植民地時代の名前)に引き継がれた。
最初の照明は蝋燭や灯油ランプで有ったが、1864年にはガス灯が導入され、1882年には電気が初めて使われたが、1910年まではガス灯も使われていた。
National Awakeningの時代、1926年には地域の青年同盟により、Kongres Pemoeda (Youth Congress)のために使われた。
日本占領時代(1942~1945)は最初軍の本部として使われ、1943年4月には劇場( Sin'tsu Cekizyoo.[1])として使われた。
独立時代には Seniman Merdeka, ("Independent Artists")として若い芸術家の会議場所として使われるようになった。1945年8月29日、インドネシアの公式の独立記念日の12日後には最初の大統領のスカルノがインドネシア中央政府を発足させ、ここで最初の会議が開かれた。
1951年にはインドネシア大学の経済学部により使われるようになり、1957年から1961年まではインドネシア国立劇場アカデミーにより使われていた。
1968年には建物は再び名前を変え、 Bioskop Diana (Diana Theater)となり、Brigadier General Pimgadie.によって管理された。1970年には中国映画を見せる映画館になり、City Theaterという名前になった。
1984年には元に機能にも戻すように法律が制定され、 3 billion rupiah(※当時のレートで約3億円ほど)かけて改修され、1987年9月5日にGedung Kesenian Pasar Baru.[1]から Gedung Kesenian Jakarta,になり、現在に至っている。

2014/12/09

東京工業大学講堂が登録有形文化財に

東京工業大学70周年(昭和51年当時)を記念して、卒業生から寄付を募って建設された講堂が、登録有形文化財に答申されました。

東工大の清水先生(音響)と、この話をしたことを機に、当時の建築学会に発表された論文をいただきました。
「東京工業大学講堂の音響特性について」(日本建築学会関東支部第21回研究発表会1957年1月)で、筆頭が勝田先生、次に我恩師で当時助手であった松井先生と、同じく研究科学生であった浅野昭壽さんが執筆されています。

浅野さんはその後NHKを経て、現在は弊社の技術顧問にもなっていただいている方です。浅野さんに論文をお見せしたところ、ぜひ講堂を見学してみたいとのこと。清水先生に依頼し、大学許可をもらって10月9日に見学をさせていただきました。

講堂ができたのは論文から推定すると1956年と思われますが、このころ竣工したホールとしては、神奈川県立音楽堂(1954年(昭和29))、旧NHKホール(1955年(昭和30))、杉並公会堂(1957年(昭和32))で、本講堂もホールの草分け的な存在になります。

松井先生の論文でも、「建物の性質上講演、講義を主目的とし、他に演劇、音楽、映画等の場合を考慮に入れて次のような音響設計を行った。」とあり、音楽も意識していたものと思われます。論文には1956.11.18工大音楽部定期演奏会、聴衆約500名入場とあり、その時の残響時間測定結果が約1.0秒で平坦特性となっています。室容積は4244m3、座席数は868席、神奈川県立音楽堂が1331席で1.2秒ですから、当時としては音楽堂の残響の長さと同じようなところにあります。ただし、最適残響時間のグラフ(B.F.Day他 BuildingAcoustics 1969刊)によれば、1秒は講堂に最適となります。

浅野さんは講堂に行って、客席に座りながら感心していらっしゃいました。当時、内幸町の旧NHKホールとどちらが早いかわからないが、設計法が白紙の状態の時に、よくこの天井の高いホールができた、と。また舞台側が反射性、客席側が吸音性であることや、舞台周りの拡散性の配慮や響きもちょうど良い感じであるとおっしゃっていました。
浅野さんの当時の記憶は、連日NHKの残響室で吸音材の実験をしていたことだそうです。
私にとってもこの講堂は学生時代の思い出深い場所であり、見学ができて、いい機会をいただきました。



2014/05/14

琴平町公会堂

旧金比羅大芝居金丸座の敷地の隣に、和風の琴平町公会堂が有ります。国の登録有形文化財に登録されている建築で、入り口わきの案内には1932年(昭和7年)に建造されたとあります。




和風ではありますが、数寄屋のようではなく、お寺の様でもないのびのびした様式です。内部はさらに素晴らしいです。





廊下の天井のデザインは、フランク・ロイド・ライトの影響を受けているようにも見えました。さらに奥には平土間のホールが有り、大空間となっています。


外に出て改めて玄関を見ると、こちらもライトの旧帝国ホテル(大正12年1923年竣工)の玄関の意匠を思い出させます。



外国からの刺激を受けて、新しい和風のデザインを作り出そうという意思を感じました。

2012/06/28

渋谷ヒカリエ シアターオーブ見学



6月20日午後から、渋谷ヒカリエの劇場「シアターオーブ」の見学会がありました。とても印象的な劇場でした。まず渋谷駅から直結していること、吹き抜けているホワイエからの景色が素晴らしいこと、その吹き抜けを窓にそってエスカレータで登っていくこともドラマチックでした。客席は約2000席ですが、非常に舞台が近く、パンフレットによれば最後尾で28.8mしかありません。3階席の後ろから見ても確かに舞台が近く感じます。舞台の幅が20mとすると、客席の幅は25~26mではないかと思われます。客席幅が少し広いですが側壁からの反射音がエコーにならない距離で、いわゆるシューボックスタイプの劇場となっています。また舞台が畳1畳分の分割されたパネルからできていて、取り外しが可能で、どこにでもセリが設置できる。この舞台や客席の形状は、昨年オープンした神奈川芸術劇場(1300席)とも雰囲気が似ており、現在の舞台技術の最先端であると感じます。

客席の形状として、音楽ホールではシューボックスタイプとワインヤードタイプの2つのタイプが知られています。ワインヤードタイプで劇場を作る場合には、コンサートホールと同様、初期反射音をどう作り出すかが重要になってきます。初期反射音に補強され音声が力強く聞こえつつ、舞台から客席最後部までの距離を短くできる可能性が出てきます。ギリシャ劇場の形で、客席に段々畑をつくって初期反射音をもたらすような形です。ただし舞台の形は出舞台となり、プロセニアムタイプとは違ったものになります。この形は舞台が観客席と一体化する可能性もあると感じています。



吹抜けとエレベーター


ホワイエの窓


3階席から舞台を見る



舞台方面から


舞台のパネルをはずして

2012/06/19

つくば市北条の蔵のコンサートホール


つくば市北条は、筑波山参詣の町として、また古い街並みが残っていることでも知られています。しかし、先日つくば市に竜巻が大きな被害をもたらした際に、北条も竜巻に襲われて被害を受けたところとして有名になってしまいました。

その北条の古民家の蔵でクラシックコンサートが行われていると聞いていたので、つくばに出かけるついでに、どのようなところか見に出かけました。
北条の町は、地方の都市によくあるようなシャッター街の印象とは違い、人々が多く街を歩いていて立ち話をしたりしていましたが、それは竜巻の復旧工事が行われているためなのかもしれません。竜巻で瓦が飛ばされたりしているために、ブルーシートで覆われている家もいくつかありました。

コンサートが行われているのは立派な古民家で、1Fの店の中をのぞいてみるとコンサートのポスターが置かれてあったので 硝子戸を開けて中に入ってみました。奥様が出てこられ、少しお話を伺いました。ベルリンフィルやウイーンフィルのメンバーも来て、年に何回かコンサートを行っているとのこと。今度の土曜日6月23日にもウイーンフィルのフルート奏者のワルター・アウアー氏と、工藤重典氏と、チェンバリスト橋本麻智子さんの共演で演奏会があるとのこと。しかし切符は完売していると。以前このお宅は醤油屋さんで、蔵は米蔵だったそうです。

蔵は木造ですが土壁が厚く、きっと響く空間だと想像できますが、伺った日は倉庫のようになっていて、中は見せていただけませんでした。昨年の大地震の際に、瓦屋根がかなり崩れてしまい、また壁も傷んだようです。今年5月には筑波大学の学生も手伝ってやっと修理が終わったところだということでした。幸いこの民家は竜巻の被害を免れたようです。

いつか機会を見つけてコンサートを聞きに行きたいと思っています。このコンサート等については、ブログ 「たかぼんのつくば市北条古民家暮らし」に書かれています。
帰りには地酒 「純米吟醸 筑波」を買って帰りました。