2014/12/25

スペインの音響技術者がYABに加わりました

今年10月から、スペインの音響技術者アントニオ・サンチェスがYABのメンバーになりました。彼はグラナダ大学の建築音響の修士課程を出て、その後昨年9月から1月まで東京工業大学の機械工学科の研究室に留学しており、その際に知り合ったのがきっかけです。大学在学中には同済大学(トンギ大学)で四川地震の研究を行い、その間に中国語も習得し、他に英語やフランス語も話せるなど、語学が堪能です。 

入社から3か月、その間にヘルムホルツ床の開発実験やスラブ解体騒音振動の測定、床振動測定、騒音測定など、すでに様々な仕事で活躍してくれています。

彼の故郷はスペインの南、アンテケラという美しい町で、歌のマラゲーニアで有名な地中海に面したマラガから近く、グラナダからも比較的近い場所にあります。この地域はアンダルシア地方で、フラメンコでも有名な場所です。彼を通じて、スペインの音楽や文化、おいしい料理などに興味が湧き、だいぶスペインが身近に感じられるようになりました。


重量床衝撃音測定中


2014/12/09

東京工業大学講堂が登録有形文化財に

東京工業大学70周年(昭和51年当時)を記念して、卒業生から寄付を募って建設された講堂が、登録有形文化財に答申されました。

東工大の清水先生(音響)と、この話をしたことを機に、当時の建築学会に発表された論文をいただきました。
「東京工業大学講堂の音響特性について」(日本建築学会関東支部第21回研究発表会1957年1月)で、筆頭が勝田先生、次に我恩師で当時助手であった松井先生と、同じく研究科学生であった浅野昭壽さんが執筆されています。

浅野さんはその後NHKを経て、現在は弊社の技術顧問にもなっていただいている方です。浅野さんに論文をお見せしたところ、ぜひ講堂を見学してみたいとのこと。清水先生に依頼し、大学許可をもらって10月9日に見学をさせていただきました。

講堂ができたのは論文から推定すると1956年と思われますが、このころ竣工したホールとしては、神奈川県立音楽堂(1954年(昭和29))、旧NHKホール(1955年(昭和30))、杉並公会堂(1957年(昭和32))で、本講堂もホールの草分け的な存在になります。

松井先生の論文でも、「建物の性質上講演、講義を主目的とし、他に演劇、音楽、映画等の場合を考慮に入れて次のような音響設計を行った。」とあり、音楽も意識していたものと思われます。論文には1956.11.18工大音楽部定期演奏会、聴衆約500名入場とあり、その時の残響時間測定結果が約1.0秒で平坦特性となっています。室容積は4244m3、座席数は868席、神奈川県立音楽堂が1331席で1.2秒ですから、当時としては音楽堂の残響の長さと同じようなところにあります。ただし、最適残響時間のグラフ(B.F.Day他 BuildingAcoustics 1969刊)によれば、1秒は講堂に最適となります。

浅野さんは講堂に行って、客席に座りながら感心していらっしゃいました。当時、内幸町の旧NHKホールとどちらが早いかわからないが、設計法が白紙の状態の時に、よくこの天井の高いホールができた、と。また舞台側が反射性、客席側が吸音性であることや、舞台周りの拡散性の配慮や響きもちょうど良い感じであるとおっしゃっていました。
浅野さんの当時の記憶は、連日NHKの残響室で吸音材の実験をしていたことだそうです。
私にとってもこの講堂は学生時代の思い出深い場所であり、見学ができて、いい機会をいただきました。



2014/10/07

オーケストラピットと花道

少し前のことになりますが、7月26日に早稲田大学の教室にて、JATET建築部会 木造劇場研究会の発表が行われました。発表者は、私を含め下記の5名です。


  • 柴田満「三味線で辿る日本の音楽とその場所」
  • 永石秀彦「全国芝居小屋スライドショ-」
  • 賀古唯義「劇場誕生!我が国に全蓋式本建築の劇場が誕生した瞬間」
  • 山﨑泰孝「なぜ今木造劇場か~これからの劇場づくりと再生はすべて木造に~」
  • 藪下満「オ-ケストラピットと芝居小屋」 

私の発表は「オーケストラピットと芝居小屋」で、歌舞伎の花道とオーケストラピットの成り立ちの違いについて考えたことが発想の発端となっています。

歌舞伎は、能舞台のような形の舞台から、次第に舞台から花道が飛び出してきて現在に至っています。一方オペラは、当初はテアトロファルネーゼのように、アリーナ(平土間)で演じ、それを客席が取り囲む構成の例もありますが、次第に舞台が奥に入っていって、舞台の前にオーケストラピットがある形に変化して行った過程が大きく違います。前者は、演者が客席に近づいていきますが、後者は客席との間に距離ができていきます。

歌舞伎は、1603年の阿国が北野天満宮で行った歌舞伎踊りから始まっていると言われています。またオペラは1600年にフィレンツエの歌手ジャコポ・ペリが、詩人のリヌッチーニとともに舞台装置に取り囲まれた何人かの人物が登場する「オイリディーチェ(エウリディーチェ)」を作曲したことが始まりとされています。このように歌舞伎とオペラはほとんど同時に発生しています。

また歌舞伎用の劇場は、当初は神社の境内などの屋根のないところ(※1 P.18花下遊楽図屏風 天木宗仲画 六曲一双 桃山時代/17世紀初期 サントリー美術館)から始まって、次第に屋根のある能舞台の様な舞台(※1 P.21重要美術品 阿国歌舞伎草子 1巻桃山時代/17世紀初期 大和文華館)で公演する様になり、どのように花道ができたかは明確ではありませんが、花道は1733年の市村座の絵図(※1 P.64 市村座場内図屏風 江戸時代享保18年(1733年)頃)には出てきています。

先に示した最初のオペラを※2のP.59から引用すると、
「「エウリディーチェ」はフィレンツェ、ピッティ宮殿の大劇場で、1600年10月6日、マリア・デ・メディチとフランス王アンリ4世の結婚式であった。中略、こういった初期のオペラを上演した貴族たちは、それを古代ギリシャ劇の再生と考えていた。」
とあります。その代表的な劇場がテアトロ・オリンピコで、ジョージ・R・カーノールド著「ルネサンス劇場の誕生」のP259~260に、テアトロ・オリンピコ(1584年竣工)の杮落し公演「1585年3月22日『オイディップス王』」に関する観客の一人のフィリッポ・ピガフェッタの手紙が紹介されています。そこには、
「賓客たちが数時間に及ぶ交歓、ワイン及び果物、互いの衣装の素晴らしさ、オーケストラに陣取った婦人たちの姿を満喫した後に上演が始まった」
とあり、その数行後に、
「この幕開きの後、内部の遠近法的装置から、様々な楽器と声による調和のある音楽が聴こえて」
とあります。
オーケストラとは舞台前部にある場所での名前で、そこには楽団員ではなくご婦人たちがいたことになります。そして楽団員は、装置の後ろ側にいたことになります。

また※2のP.59には、テアトロ・ファルネーゼのアリーナについて、ステージと同じように使用したとの記述があります。少し長くなりますが、以下に引用します。

「パルマにあるジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ設計のテアトロ・ファルネーゼは、長く伸びた円形劇場形につくられており、ルネッサンス建築全般にいえることだが、古典ギリシャ・ローマの建築様式の原理に基づいている。テアトロ・ファルネーゼでは、円形劇場形がつくりだすアリーナも、ステージと同じくアクションに使われることがよくあった。1628年12月21日の杮落しの出し物は、トルネオ(馬上武術試合のための音楽)の≪マーキュリーとマルス≫で、台本はアッキリーニ作、間奏はモンテヴェルディ作曲だった。このスペクタクルは、クライマックスで中央アリーナに水がいっぱいに入れられ、ネプチューンが引き起こしたあらしと海賊に船や海の怪物が巻き込まれててんやわんやのところへ、フル・コーラスを従えたジュピターが騒ぎを静めに天井から降りてくるという趣向である。」
※2のP.60によれば、現在よく見る馬蹄形のオペラ劇場の最初がテアトロ・サン・カッシーノ(1637年)で、初めて舞台と客席の間にオーケストラピットができました。それまで多くの試行錯誤があったと思われますが、オーケストラピットの成立過程の歴史はあまりはっきりしていません。以下に一部引用します。
「世界最初のオペラ専用劇場がつくられたのもヴェネツアである。1637年のテアトロ・サン・カッシアーノ(聖カッシアーノ劇場)がそれで、オペラのスペクタクル的な効果を出すのに必要な舞台設備が整っていた。金持ちのトロン家が、1629年に焼失した劇場に替わるものとして建てられたのである。営利を目的としていたので、壁沿いにぐるっと席が段状に設けられ、できるだけ多くの観客を収容するようになっていた。オーケストラは、以前は舞台の両脇、桟敷席、書割りのうしろなどに座っていたのが、この時初めてステージの前に置かれるようになった。」
とあります。

音響的な視点からオーケストラピットを見ると、観客から楽器(音源)が見えないために楽器からの直接音は聞こえず、回折音または天井などからの反射音を聞くことになります。したがって中高音域の音は低減してしまい、音質が変わってしまいます。さらに楽団員の演奏環境も、あまりよいとはいえません。ピット内で音がこもるため音圧レベルが相当高く、難聴に気をつけねばならないほどだと思います。

オーケストラピットは、オペラにとって最初からあったものではありませんが、観客をたくさん収容するという商業的な理由から現在の形ができたものと考えられます。芝居小屋と比較すると、観客と舞台の一体感という観点から言えば芝居小屋が圧倒的に優れていると感じます。そこで当初テアトロ・ファルネーゼに見られるオペラにもかつてあった一体感を再度実現するために、オペラを芝居小屋で公演したらどうだろうかというのが今回の提案です。芝居小屋は商業的にいえば、現在の歌舞伎座や南座のような大きな小屋も含まれますが、その場合オーケストラはどこに配置すれば一番よいのかは検討する必要があります。


※1「歌舞伎座新開場記念展 歌舞伎 ― 江戸の芝居小屋 ― 」展カタログ
企画・構成サントリー美術館

※2マイケル・フォーサイス著 長友宗重・別宮貞徳 共訳 「音楽のための建築」

2014/10/01

建築学会(2014)で発表しました

2014年度建築学会大会が9月12日(金)から14日(日)まで、神戸大学で開催され、私は、共同研究者として2つの発表に参加しました。

12日の床衝撃音の分野で、神奈川大学の廣瀬君の発表『Helmholtz共鳴器を有する高性能乾式二重床の開発その3 共鳴器構造1ユニットでの基礎実験』、また13日の、あと施工アンカーの分野では『静充填型あと施工アンカーの実用化に関する研究 その1からその5』の一連の発表の内の最後、『その5 試験体における騒音振動測定結果』と題する水上さんの発表です。

Helmholtz共鳴器を有する遮音二重床は、床衝撃音が10dB改善できる二重床で、数年ほど前に開発し、現在は施工性・コストの面からの改良を目指しています。現在UR都市機構、神奈川大学、江尻建築構造設計事務所、そして当社の共同で実用化に向け実験を行っています(実験は、神奈川大学およびUR技術研究所で実施)。

主の目的は、数十年前に建設された集合住宅の改修をする際に、当時の薄いスラブの床衝撃音を改善することにあります。
当時の平均的な110mm厚のスラブでは、重量床衝撃音(タイヤ)ではLH-70ほどになります。それを開発中の遮音二重床によって、LH-60ほどに改善することを目標としています。従来の二重床のほとんどは、施工後に素面よりも重量床衝撃音が大きくなってしまうため、開発が急がれます。

同様に、静充填型あと施工アンカーも集合住宅の耐震改修に適応できるように開発を行っています。私の方の発表では、この工法は騒音・振動を低減しているために居住しながら(居付)改修を行えると紹介しています。
従来型のハンマードリルと、ドリルでコンクリートを削り取るタイプ(コアドリル)では騒音が25dBAほど違います。2軒隣の住戸では45dBAを下回るほどで、人が住みながら工事をすることが可能です。

また明治大学中野キャンパスで行われた、騒音制御工学会の秋の大会(2014年秋季)大会でも神奈川大学の安田先生の発表に、共同研究者として参加しました。
9/18午後の、新しい騒音・振動対策技術と適用事例の分野で、『Helmholtz共鳴器を有する高性能乾式二重床について』と題して、その理論的な面を考察しています。

2014/08/06

ハンス・ホラインの死

オーストリアの建築家、ハンス・ホラインが2014年4月24日亡くなった。80歳であった。
ホラインとは、第二国立劇場設計コンペ(1985~86)、東京フォーラム設計コンペおよび奈良市民ホールで一緒に参加させていただいた。第二国立劇場では優秀賞も得た。

5月5日に葬儀の案内が届いていた。毎年届いているホラインからのクリスマスカードにあったサインがそういえば昨年はなく、気にかかっていたが、その4ヶ月後のことであった。

ホラインは30歳の頃に設計した、アルミインゴットの様な、わずか10坪のレッテイ蝋燭店でプリツカー賞を受賞(1985年)している。


Kohlmarkt 8-10, Vienna Kerzenshop Retti


また田園風景の中に巨大な航空母艦をコラージュした「航空母艦都市」で、膨張する暴力的な都市に警告を発する。車のグリルの形をした超高層でAll is Architectureを表現。
シューリンⅡ宝石店のファッサードの鎌の形はシンボルとして、建物の機能をこえる象徴としてポストモダン建築では鎌の形が模倣され流行った。
ミエンヘングラートバッハ美術館のWalk On Buildingの概念も多くの影響があった。
いずれも明確な概念をうち出していた。


第二国立劇場の設計コンペの仕事をしていた時のことである。ホラインは、たくさんのスケッチをトレペの巻紙に行い、我々にも意見を尋ねていた。大劇場と中劇場の間にコロナードを配したが、そのコロナードが曲線に変更された瞬間の感動も忘れない。

ホライン事務所にて

また打ち合わせの時に、私が上着を脱いだら、君も暑いのか窓を開けよう、と仰った。そのとき人間は皆共通で、体温は約36度ということが感じられた一瞬だった。

ホライン事務所には衛藤さんという日本人のスタッフがいて、第二国立劇場プロジェクトのチーフだった。彼から、ホラインの葬儀の後に電話があり、当時いた人で今も残っているのは模型担当のエアリッヒさんだけだといった話をした。

最後に仕事をしてからだいぶ経っているが、いつかまた共同設計ができればと思っていた。しかし残念ながら実現ができなかった。昨年ホラインの作品集が出版された。その中の二国コンペの写真には、提出した模型よりも精巧な模型が載っていた。


ホライン作品集より 第二国立劇場コンペ模型


2014/06/30

幼稚園・保育園の騒音対策

 騒音制御工学会の会誌、騒音制御Vol.38 No.3 2014.6に、「保育空間の音響的現状」というテーマで、船場ひさお氏が記事を書いている。

 児童福祉法が昭和22年に制定され、昭和23年に児童福祉施設最低基準が制定され、今日の保育所制度の基礎ができたが、
「保育環境とくに音環境については「子どもはうるさいのが当たり前」という思い込みのもと、対策らしい対策が取られる事がなく、何十年もの歳月が経ってしまったと言わざるを得ない」
とあり、音環境についてはなおざりにされていたことがわかる。

 そして、実際の保育園の音環境の改善を実験した結果が報告されている。
 最初は、「床はフローリング、天井は化粧石膏ボード仕上げであり、フロア全体に子供の声が響いている状態」だったという。
そこで、天井に吸音フィルム※をハンモック風に吊り下げ、残響時間を1kHz帯域で1.0秒以上から0.8秒程度に、0.25秒短くなったとのこと。

 環境騒音が顕著に下がった結果は得られなかったそうであるが、保育士の方へのアンケートでは、対策によって、話しやすさや聞きやすさ、子供の寝つきなどに効果があった様子がうかがえる。
 この保育園ではさらに音環境を改善するための検討を加えているとのこと。やはり音環境というものは、改善の必要がある対象として意識をすることが重要と思われる。

 私も以前、保育園の音響調査を行ったことがある。
 その時の調査では、吸音材のない室内の園児の声は、連続して100dBほどあり、異様な騒々しさとなっていた。子供たちも保育士の方々も、音声が明瞭に伝達できないために、より一層大声になってしまうという状態であった。子供の成長にいい影響があるとは思えない。とにかく設計の段階で吸音材(一般的には岩綿吸音板やグラスウール化粧板など)を天井などに使う必要がある。
※有孔ダイノックフィルムにグラスクロスを積層した製品(3MTMダイノックTM吸音フィルムG 不燃認定)。

 幼稚園は建築基準法における「学校等」に含まれる。したがって内装制限の規制から除外される。そのため内装に木材も使用可能であり、例えば吸音材としてポリエステル繊維吸音板なども使用できる。ポリエスエル繊維吸音板はグラスウールと異なり、チクチクする繊維は無く、布団の綿と同じような柔らかな材料のために、子供の空間では使いやすい。

 また保育園は、幼稚園とは似た施設であるが児童福祉施設に相当するために、特殊建築物となり、内装制限が発生し、耐火建築物では3階以上で合計300m2以上、準耐火建築物では2階で300m2以上、木造などでは床面積200m2以上に内装制限がある。それ以下であれば、木材でも、またポリエステル繊維吸音板も用いることができる。現状の改善のために、建築基準法上の「壁の仕上げ」ではなく、吸音材を壁に掛ける「絵画」のように扱い、音対策をすることも考えられる。
参考例として、弊社の設計したトライビートスタジオの写真。





2014/06/23

ヘルムホルツ共鳴器の応用

先日TVで、ダイソンの羽のない扇風機にヘルムホルツの共鳴器を応用し、騒音を大幅に低減させた製品が4/30に発売されるという紹介があった。

ヘルムホルツ共鳴器は、空洞部と頸部から成るツボのような形をしており、頸部の空気と空洞部の空気の共振によってエネルギーを消費する。そのため、現在では主に消音器として使用される。

聞き慣れたヘルムホルツという単語の扇風機に興味をもった。
音響技術者にとっては、ヘルムホルツの共鳴器は、有孔板やスリットによる吸音構造で良く知られている。また自動車のマフラーなどにも応用されている。

弊社では、ヘルムホルツ共鳴器を応用した高性能遮音二重床の実用化を目指して開発している。床下にヘルムホルツ共鳴器を仕込んだものである。


日本建築学会環境系論文集 V0l.79 No.698(2014年4月)に掲載されました

2013年建築学会北海道大会で発表しました

日本建築学会大会(東海)に参加してきました(2012年9月)


実はヘルムホルツ共鳴器の技術は古く、1862年(明治元年の6年前)に発表されている。ヘルムホルツはドイツの医学者で、「On the Sensations of Tone」という本を表して、ヘルムホルツ共鳴器の原理を紹介した。本の裏表紙には「ON THE SENSATIONS OF TONE as a physiological basis for the THEORY OF MUSIC」 ただしAlexander J. Ellisによる英文訳本による。
訳すと「音楽理論のための、生理学的根拠に基づいた音律の感覚について」といった内容になる。
序には肉体的な又は生理学的な音響学と音楽科学または審美学の境界で関連付ける試みと書かれている。

共鳴器については本書のかなりはじめの方に示されており、壺の様な形や筒の様な形のものが示されている。
その後、弦楽器の音律や、管楽器の音律や声、耳の生理学的構造、調和の妨害、ビート(うなり)、ハーモニー音楽、ペルシャやアラブの音楽の構造などについても書かれている。その最後の付属のⅡに問題の共鳴器の理論が示されている。

ヘルムホルツが共鳴器を開発した目的は楽器のチューニングのためであった。その共鳴器は下記の図のような形をしており、ドレミファに対応したサイズの違う共鳴器を作成し、チューニングの際にはaの開口部を空間にbの開口部を耳に差し込んで、楽器の音を聞いて、共鳴した時の周波数を確認していた。


On the Sensations of Toneより
そのころ、ウィーンフィル(1842年)やベルリンフィル(1882年)、ロイヤル・コンセルトヘボー管弦楽団(1888年)などのオーケストラが結成され、ウィーン楽友協会ホール(1870年)、ウィーン国立歌劇場(1869年)などの有名なコンサートホールが開館している。大オーケストラのたくさんの楽器を同じ音律に調整する必要に迫られたのではないかと感じる。

詳しくは翻訳しないと理解できないが、東川清一著 「音律論 ソルミゼ―ションの探求」をみると美しい和音を目的に開発された純正律から、利便性を求めた平均律への移行過程で、ヘルムホルツは平均律の和音の問題点に警鐘を鳴らしているようである。


2014/06/17

ウズベキスタンの「ナボイ劇場」

2014年5月30日の朝日新聞朝刊に、
名劇場の陰 抑留の歴史  ウズベキスタン 保存へ改修
という記事が掲載された。

記事には、

「首都タシケント中心部の官庁街に、ウズベキスタン最高級の「ナボイ劇場」がある。」
「1400人を収容できるれんが造りの重厚な建物で、モスクワのレーニン廟の設計で知られる建築家シューセフが手掛けた」
「戦後に旧ソ連の捕虜となり、旧満州からウズベキスタンまで連行された約400人の日本人抑留者が建設に携わったとされる」
「劇場の側面には「数百人の日本国民が劇場の完成に貢献した」と記されたプレートがはめ込まれている」

とあり、このことをカザフスタンにいる建築家にメールで知らせた。

以前紹介したアルマティのオペラハウス(YABブログ2008/10/17)も、日本人抑留者が建設に協力したと聞いていたからである。

彼から返信があり、ウズベキスタンのオペラハウスについては、間寛平氏の動画で知っていたこと、その歴史や建築様式などについて説明があった。
許可を取って、メールを転載する。

タシケントにあるオペラハウスの件、大変興味深く拝見させて頂きました。タシケントのオペラハウスが、アルマティ同様、日本人の抑留者によって建設されたことを知ったのは、間寛平氏が世界一周マラソンにて、タシケントを訪れた動画を見たのが最初でした。
こちらの方が少しばかり建物のディテールが垣間見えると思います。
彼はタシケントの日本人墓地も訪れています。
手元にあるウズベキスタンの建築の本によると、設計者はA.Shchusev, ロシア人で竣工はビデオにもあるように1947年のようです。彼はモスクワの赤の広場にあるレーニン廟も手がけています。内装はローカルのデザイナーの手によってなされたようです。
アルマティのオペラハウスは、設計者はN. Prostakovで竣工は1941年です。こちらも内装は別のようですがローカルなのかモスクワから来たロシア人なのかは個人的にははっきりと分かりません。
アルマティのオペラハウスは、サンクト・ペテルブルグのアレクサンドリスキー劇場(1832年)の正面ファサードの構成とそっくりです。
実はタシケントはカザフスタンそしてアルマティ同様、抑留者が強制的に送られてきた場所でありまして、日本人だけでなく韓国人(正確には高麗人)も非常に多いです。
抑留者のみならず、その当時スターリンの粛清から逃れてきた多種多様の芸術家、エリートも多かったようです。映画監督のエイゼンシュタインや、革命家のトロツキーもこちらアルマティに滞在しています。実は天先生(※友人、作曲家、昨年の6月13日に89歳で亡くなった)もその一人に当たります。
キルギスはビシュケクのオペラシアターがあります。設計者はA. Laburenko、竣工は1955年です。外観はロシアにある建築同様、新古典主義の様式です。キルギスにはソビエト時代ソビエト圏内で非常に有名な国民的バレーダンサー、Bibisara Beishenalievaというダンサーがいました。



多くの日本人抑留者、さらには朝鮮人抑留者が、カザフスタン、ウズベキスタンさらにはキルギスにも強制連行されて、現在まで残る美しい施設をつくっていることに関し、時空を超えて思いをはせてしまう。

間寛平氏の日本人墓地を訪れた時の映像では、美しく整備されている墓地を見ながら、彼は墓地の碑、「永遠の平和と友好 不戦の誓いの碑 1990年6月29日」を読みあげていて、ウズベキスタン人と思いを共有している。

朝日新聞によれば、「旧ソ連での抑留者は推計で約56万1千人、抑留中の死亡者は約5万3千人に上る。抑留者のうち約2万3千人がウズベキスタン(91年独立)に連行され、劇場建設のほか運河やダム、水力発電所の建設以外に炭鉱や農業などにも従事した。推定約900人が栄養失調や病気などで死亡。」とある。

劇場は楽しむための場所であるが、戦争抑留者の犠牲の上に成り立っているのを知るとなかなか楽しめず、劇場の存在が自己矛盾になってしまう。ただ、抑留者は相当一所懸命建設したようで、1966年のマグネチュード8の大地震で市内の多くの建物が倒壊したが、ナボイ劇場は毅然と立っていて、避難所にもなったそうだ。この時日本人抑留者たちの仕事ぶりが改めて注目され、尊敬されてもいるようだ。

2014/06/04

学校体育館の天井


昨日、こんなニュースがあった。
つり天井の9割が耐震対策不十分 公立小中学校の体育館

2011年の東日本大震災によって、体育館や劇場、空港ターミナルビルなど、天井の落下事故が多く発生し、話題にもなった。その防止策として建築基準法の改正が行われ、体育館の様な大きな天井は「特定天井」として構造上の安全性に対して規制が厳しくなり、本年4月1日から施行されている。
その結果、小学校や中学校の体育館では、「特定天井」に相当する天井を撤去する対策が取られ始めている。天井には本来、意匠性のほか吸音性能も考慮して設計されている。学校行事である入学式や卒業式などの式典や講演なども体育館で行われており、その際は話声の明瞭な伝達も必要であるために残響に対する配慮が必要で、一般的には天井は吸音材で仕上げられていることが多い。

最近、神奈川県の某小学校で天井撤去の計画に関わることができた。既存天井は岩綿吸音板であったが、それを取り除くと、その上部は裸のスラブとなっていて、残響過多となることが懸念された。一般的には、吸音材は不燃材であるグラスウールを用いることが多いが、ボールが当たるなどしてグラスウールの表面がつぶれて見た目に汚くなること、また留め金(トンボ)がはずれて落下してしまう可能性などから、金属ネットなどで保護する場合が多い。そこで、ポリエステル繊維板(シンセファイバー)を接着剤でスラブ下に接着する設計とした。学校の体育館は内装制限から外れているために、このようなポリエステル繊維板でも内装材として用いることができ、コスト的に押さえることができる。

2014/06/03

横浜ボートシアター公演 『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』『創作影絵人形芝居 極楽金魚』  会場「自在・南軽井沢稲葉邸」

公演は5/31(土)と6/1(日)の2回。私は5/31に伺った。
会場は、横浜駅から徒歩16分ほどの近さではあるが、うっそうとした山のふもとにある古民家「自在・南軽井沢稲葉邸」。最近狐が出ると所有者が仰っていた。戦後直後に建設されたで典型的な日本家屋で、その中の中心的な空間、二間続きの畳敷きの和室で公演が有った。床の間側の部屋に舞台を設定して、反対側の部屋が客席と設定されている。部屋の周囲は縁側が有り、その外側は日本的な庭園となっている。縁側の反対側は廊下で玄関や水場につながっている。縁側と座敷の間には障子があり、廊下側は障子と襖で仕切られている。

開演は18:30、ちょうど日が沈んで薄暗くなり始めた頃。いくつかのろうそくを立て、ゆらゆら光が揺れる中、ざしきぼっこの語りがエレキギターの伴奏とともに始まった。障子は半分開いて庭が見え、次第に外が暗くなっていく様子がよくわかる。観客は座布団に座り、思い思いの向きで、また何人かの小さな子どもは親に寄りかかりながら舞台の語りを見ている。
宮沢賢治の物語で奇妙で少し怖い話であるが、自然の中で聞いていると語りの声の調子も説得力を増し、現実の様な錯覚に陥る。

二つ目は「影絵人形芝居 極楽金魚」である。この話の元は高松の郷土人形「奉公さん」の由来をもとに作られたとのこと。
客席側の照明も落とし、スクリーンの後ろにスポットライトがあたり、影絵が映しだされる。
長者の息子が重い病気にかかり、長者に買い取られた娘が子供の病のもとを吸い出し、子供は直るが娘は病気になり、小船に乗せられ焼かれてしまう。娘は頂天眼(金魚)になり、天に昇っていくという話である。
このような話も、日本家屋の自然を感じる空間で見ていると臨場感があり、観客皆が同じような感覚を共有した気がした。



2014/05/14

琴平町公会堂

旧金比羅大芝居金丸座の敷地の隣に、和風の琴平町公会堂が有ります。国の登録有形文化財に登録されている建築で、入り口わきの案内には1932年(昭和7年)に建造されたとあります。




和風ではありますが、数寄屋のようではなく、お寺の様でもないのびのびした様式です。内部はさらに素晴らしいです。





廊下の天井のデザインは、フランク・ロイド・ライトの影響を受けているようにも見えました。さらに奥には平土間のホールが有り、大空間となっています。


外に出て改めて玄関を見ると、こちらもライトの旧帝国ホテル(大正12年1923年竣工)の玄関の意匠を思い出させます。



外国からの刺激を受けて、新しい和風のデザインを作り出そうという意思を感じました。

2014/05/09

「音の返り」とは?

「第30回記念四国こんぴら歌舞伎大芝居」という案内本(発行 松竹株式会社)に 三代目澤村宗之助さんの紹介文がありました。その最後に「歌舞伎座はしゃべった声が舞台に返ってきますけど金丸座は返ってこない。雨戸から抜けるのか。昔の小屋はこうだったんだと体験できるんです。」とあります。

音響技術で言えば、音の返りは一般的には反射音ととらえます。舞台から出した声が、客席後壁に反射して帰ってくる、あるいは返ってこないと考えます。しかし金丸座の後壁は板か土壁ですから音は反射します。先日、粟津演舞場の杮落し公演に行きましたが、舞台から声を「あっ」出したときに、客席に座布団の無い時には、「もあっ」と後に残りますが、座布団を敷いてお客様を迎える準備をしたととたんに、声に返りが無くなったように思いました。粟津演舞場も後の壁は板です。

どうも返りというものは、このことから考えると単純な反射音ではなく、拡散音のことの様な気がします。おそらく、それも声を出してから50msほどの経たときの一連の反射音で構成された拡散音ではないかと想像します。このことに関しては、いつか実験ができればと思います。この「返り」は言葉の出しやすさや演奏のしやすさに関係しており、音響技術の重要な要素です。上述の澤村宗之助さんの「昔の小屋は、、」にも意味のある重要な内容が含まれています。

2014/04/18

金比羅大芝居および粟津演舞場杮落とし公演に参加

4/10、朝4時半に横浜を車で出発して、香川県の琴平に14時に無事到着、第30回四国こんぴら歌舞伎大芝居の午後の部を観ました。今年は、市川染五郎座頭とする若手中心の一座で、演目は近松門左衛門の女殺油地獄、油まみれになりながらの殺しの場面は、すごい迫力でした。
翌朝は天気も良く、桜も満開で、鶯の鳴き声にも迫力があるような印象です。昨日につづき、午前の部は「菅原伝授手習鑑」。車引きの幕、梅王丸と桜丸の、まるで動画のコマ撮りの様な動きはとても印象的でした。回り舞台もスッポンも懸け筋も使っていないのですが、染五郎は素晴らしかった。堪能しました。地元の人が『今年のお練りは、若い人が多いせいか、集まった人の中を走り回っていた、いつもと違う』とおっしゃっていました。

こんぴら歌舞伎

余韻を楽しむ間もなく、その日は福井県の粟津温泉に車で向かいました。途中神戸での大渋滞をかわし、若狭湾経由で夜9時到着。この日は粟津演舞場の杮落し公演があり、夜は9時からオープニングパーティがあるため、皆さん晴れ晴れとした華やいだ雰囲気です。4/12は、御供田(ごくでん)幸子一座による公演、午後3時と夜8時の会に参加しました。「婆ちゃんコント」ではドッと笑いが起こっていました。

粟津演舞場は昭和8年に竣工し、温泉町の芸子さんによる公演を行っていましたが、わずか10年で軍需工場に転用されてしまい、戦後は温泉旅館の寮などに改修され、その後は倉庫として使用されていました。まるでお化け屋敷の様に廃れて住民の記憶から芝居小屋が失われ、解体して駐車場になるところでしたが、寸前に『粟津演舞場を救う会』が結成されました。そして今から4年前、コンパネによる仮設舞台がつくられ、仮設公演が行われました。その後注目が集まり、全国芝居小屋会議の仲間たちや小松市の協力も得られ、消防法もクリアし、今回の杮落し公演となったようです。やはり地元の人たちの強力なバックアップが実現の原動力です。


粟津演舞場

粟津演舞場内部

横浜船劇場も見習わないといけません。船劇場には中心になるレベルの高い劇団、横浜ボートシアターがいるのですから、後は地元の力強い住民の動きが必要です。横浜の特徴は港町であるということ。船劇場は舞台観客が一体となれる鋼鉄製の芝居小屋で、街のにぎわいに一役かってくれるはずです。

翌朝、4/13粟津温泉をでて、手取川ダム経由、福井県大野市経由、岐阜県下呂市門和佐の白雲座にちょっと寄り、明治座を横に見ながら中津川経由で10時に無事帰宅しました。

2014/04/17

日本建築学会環境系論文集 V0l.79 No.698(2014年4月)に掲載されました

論文は、「Helmholtz共鳴器を有する高性能乾式遮音二重床の開発 -2質点系モデルに基づく遮音特性の解明-」と題し、神奈川大学の安田洋介先生が筆頭、私は共著者として執筆いたしました。

この数年間かけて開発を行ってきた、「ヘルムホルツ共鳴器」を内蔵する二重床に関して、理論的な解析を安田先生が行ったものです。それは二重床そのものの錘とヘルムホルツ共鳴器の頸部の空気を錘とした空気をばねとする2自由度系の運動として解析されています。2自由度の運動方程式は基本的なものであり、その基本的な考え方が適用できるため応用問題が解きやすくなります。ただ共振現象を利用しているため計算上は大きなピーク(増幅)がありますが、何らかの抵抗要素で幸いにも大きな低減効果だけが得られ、63Hz帯域で10dBの改善がこのヘルムホルツの遮音二重床で得られています。

実用化にはまだまだ努力が必要なため、今年度はさらに大がかりな実験を計画しています。

2014/04/03

横浜ボートシアター公演 説経「愛護の若」より 恋に狂ひて

船劇場で3月8日(土)、その1週間後、シアターχで3月15日(土)夜の部を見ました。
横浜ボートシアター 説経「愛護の若」より 恋に狂ひて

公演はたくさんの人形と、それを操る数人の俳優で演じられます。またエレキ三味線やエレキギター、太鼓などによる伴奏音楽もあり、歌もあり、ヨーロッパで言えばオペラ、邦楽で言えば人形浄瑠璃に通じるものがあります。

物語は、中世。子供の居ない貴族が観音様にお願いして「愛護の若」を授かるが、その身代わりに母が亡くなってしまう。後妻「雲居の前」が「愛護の若」に恋をし、父親から誤解を受けた末、家を出て比叡山に助けを請うが受け入れられず、滝に身投げしてしまう。その後、彼に関わった人々全て、108名が滝に身を投げて終わるという話。

前半は貴族の華やかな生活、後半はあれよ、あれよという間に暗転してしまう。
主人公は一見悲劇の愛護の若のようですが、本当は恋に狂った継母「雲居の前」と思われます。悲劇という点ではオペラ「ムチェンスク郡のマクベス夫人」(2008年5月9日のブログ)を見た時の印象に似ていました。「マクベス夫人」では、金持ちの奥様が浮気をし、さらに義父と主人を殺し、浮気相手とシベリア流しになりながら、最後は自殺する。時代を表現しながらも、逆説的に人間が生きることを肯定的にとらえたもののように感じました。
愛護の若も悲劇ではありますが、最後は彼の負った苦しみを周りに理解されたことが救いです。

横浜ボートシアターでは1年半以上前に、この公演を企画し、船で練習を積み重ねてきています。時々公開された練習に参加してきました。当初は朗読だけで練習していましたが、人形がはいり、面がはいり、舞台美術が入っていきました。当初は継母の息子いじめの物語かと思いましたが、次第に若い継母の愛護の若への狂った恋の物語に変化して行ったように思います。とにかく同じことを何度も何度も繰り返すことで見えることがあるものだと感じました。
また何度も何度も練習できる船劇場という場が創造の場として非常に重要だということも感じました。

今回、船劇場とシアターχの両方で見られたことで両者の違いもある程度明らかになりました。シアターχは、声ははっきりと通り、照明も人が浮かび上がるようになっていました。
したがって古い言葉のままの分かりにくい台詞の多い前半は、声も明瞭で、照明で人形も俳優も良く見えたために、シアターχの方が見やすかったのですが、後半の人生がガタガタと崩れて行く時の変化の表現は船劇場がすぐれていました。船劇場では、愛護の若が滝壺に落ちて、波に巻き込まれて、一瞬で客席の下に消えていく、また愛護の若を抱いて、大蛇が滝壺から現れ、舞台の下に一瞬に消えていけることも、緊張感をみなぎらせた表現ができていました。
シアターχは見やすく聴きやすい劇場ではありますが、しかし船劇場は一体感のある芝居小屋であると感じました。

2014/02/13

「たいころじい2014.1 No.42」(1/25発売)に寄稿いたしました

浅野太鼓が出版する太鼓専門誌『たいころじい』に掲載していただきました。
『たいころじい』は25年間続いた雑誌ですが、今回の42巻をもって最終巻になってしまいます。その最終刊に、名誉にも書かせていただきました。タイトルは「アメリカ・トーランス市にて和太鼓スタジオの音響設計顛末記」です。浅野太鼓USの和太鼓スタジオの音響設計の内容を、かなり具体的に仕様を含めて書いています。今後、ますます和太鼓が世界で使われるようにと願って書きました。

その他、最終刊特別企画として、「戦後日本に穿たれた太鼓文化の足跡をたどる」という主題に対して、西角井正大氏の「太鼓徒然小草道草」と永六輔氏へのインタヴューで「太鼓文化のエポックメーキングとなった「佐渡の國鬼太鼓座」創設のいきさつとその後」という記事がありました。西角井氏の文章の中で、平成13年(2001)に田中誠一氏がアメリカにおける「日本太鼓」普及の功績が高く評価され、アメリカの国家芸術褒賞を受賞したと書かれています。私も田中さんに直接お会いしてこのことをお伺いしました。しかしこの記事によれば、日本の官もメディアもこの受賞に対し、何の反応も示さなかったとのことです。全米でたった13名しか受賞していないにもかかわらずで、非常に残念に思います。
永六輔氏のインタヴューでは、佐渡の鬼太鼓座の創設の時のことが書かれています。特に職人の仕事を大事にしようということの運動体として発足したそうで、これも内容が奥深いものです。

続きはぜひ購読してご覧いただければと思います。よろしくお願いします。