ページ

2009/09/30

元「オフコース」のドラマー大間ジロー氏率いる、ソウル&ビートユニット「天地人」の「宝船ツアー2009」プレスリリースにコメントを提供いたしました

天地人は、元オフコース・ドラマーの大間ジロー氏、創作和太鼓界を牽引する女性奏者、大沢しのぶ氏、津軽三味線の日本チャンピオン、黒沢博幸氏によって構成されており、今月より、各地の芝居小屋を巡るツアー「宝船ツアー2009」をスタートしました。

YABでは、芝居小屋の音響調査を行ってきた御縁で、音響の観点から推薦のコメントをさせていただきました。

ツアープレスリリースはこちら

「宝船ツアー2009」公演スケジュール
10月4日(日)    内子座(愛媛県喜多郡内子町)
10月18日(日)    永楽館(兵庫県豊岡市)
11月3日(火・祝)    かしも明治座(岐阜県中津川市)
11月21日(土)    八千代座(熊本県山鹿市)
11月23日(月・祝)    嘉穂劇場(福岡県飯塚市)
「宝船ツアー2009」詳細: http://www.tenchijin.info/2009/

各地を回るツアーとなっていますので、興味のある方はぜひ足を運んでみてください。

2009/09/15

今年の全国芝居小屋会議が、ながめ余興場で開催されます

今年も、全国芝居小屋会議が10月23日(金)~25日(日)まで群馬県のながめ余興場を会場に実施されます。ながめ余興場は、先日音響測定を行いましたが、渡良瀬川の渓谷を見渡せる非常に景色のいい場所にあります。

詳細は、芝居小屋会議のブログをご覧ください。


昨年は、兵庫の永楽館にて開催され、YABも芝居小屋の音響特性について発表を行いました
その時の模様がこちらにアップされていました。

2009/09/14

木造芝居小屋の音響測定今年2回目無事終了

先々週の秋田の康楽館の調査に続き、9月8日(火)~9月10日(木)まで、今年2回目の測定に行ってきました。
8日(火)午後は群馬県みどり市のながめ余興場、9日午前中には岐阜県各務原(かかみがはら)市の村国座、午後には岐阜県瑞浪(みずなみ)市の美濃歌舞伎博物館となっている相生座、10日は愛知県犬山市の明治村の中にある呉服(くれは)座、計4座の調査を無事行うことができました。これで今まで調査した芝居小屋は、14座になります。

調査の目的は、邦楽に好ましい音響空間を探ることと、残り少なくなった江戸歌舞伎様式の芝居小屋の音響空間を音響インパルス応答の形で保存することです。インパルス応答があれば、無響室録音の音楽と重ね合わせることで、あたかもそこで演奏されたかのような音がシミュレーションできます。インパルス応答が、ダミーヘッドによるステレオ録音であれば、より立体的に空間を再現できます。
日本の伝統芸能を育んだ芝居小屋のような残響の少ない空間が、邦楽にとって好ましい音響空間ではないかという仮説を立てて、その正しさの検討をしています。
Sabineの残響理論(1900年)から始まった室内音響学ではありますが、劇場やコンサートホールはそれ以前にもあります。木造芝居小屋の建設には、もちろんこのSabineの残響理論が使われているわけはありません。しかし、いずれも残響時間は0.6秒~1.0秒程度、舞台回りの壁は、土壁、客席は、障子や土壁や板壁で、舞台側ライブエンド(反射性)、客席側デッドエンド(吸音性)のような形につくられています。
したがって建設時には、意匠デザインだけでなく、音響についても考えているような気がしています。今回調査した芝居小屋は、ながめ余興場、村国座、相生座の3座が、床が板張りで、特に、村国座は、壁はかなりの面積が漆喰壁で、残響感がかなりありました。

以下測定をした芝居小屋の特徴などをご説明いたします。
ながめ余興場はその名のとおり、渡良瀬川の渓谷を眺められる絶好の景色の「ながめ遊園地」の中にあります。遊園地は、大正14年(1924年)開園され、さらにながめ余興場は、昭和12年(1937年)、その中心施設として、建設されました。しかし昭和62年(1987年)閉館を余儀なくされましたが、保存運動の結果、平成9年(1997年)大改修が完了し、現在に至っています。この芝居小屋は、昭和12年の建設当時は、板床の上にゴザを敷いていたようですが、現在は、ベンチになっています。床はフローリング、壁は漆喰壁、天井は格天井で、畳の床と違って、結構響きます。また学生も含めて、地元民の利用も盛んのようです。この10月23日(金)~25日(日)には、ここで全国芝居小屋会議が開催される予定で、柳家紫文の都々逸や人形浄瑠璃の公演も計画されています。

ながめ余興場 測定の様子




 村国座は、村国神社境内にあり、客席後方が板戸で出来ていて、神社に向かって開放できます。村国座の創建は、慶応2年(1866年)に建設が提案され、明治10年ころ(1877年ころ)完成したようです。農村歌舞伎の舞台として、特に近年は子供歌舞伎の公演を行っているようですが、創建から130年たち、建物が傾いてしまい、平成の大修理を行って、この平成21年の2月に完成したものです。この大修理の指導は、神奈川大学建築史の西先生が行ってきています。この劇場は、金丸座の空間と同じように、建築的に緊張感のあるすばらしい空間です。特に松丸太の大きな小屋組みが見えて、天井の竹の化粧小舞が繊細で美しく、壁は、ほとんど漆喰です。床は升席ではなく、単に板の床となっています。したがってよく響きます。この小屋は国の重要文化財に指定されています。竣工後は、杮落とし公演として、5月に大黒摩季のコンサートもあったようで、そのときには、客席後の板戸も開放して、コンサートが行われたようです。またこの秋には、スペインのフラメンコの公演も計画されています。

村国座 外観

村国座 内観

村国座 測定の様子


 相生座は、岐阜県瑞浪市の山の中にある民間経営の芝居小屋で、昭和の高度成長期、都市化の流れの中で、地歌舞伎が危機的状況になったときに、危機感から美濃歌舞伎保存会が出来、当初はテント小屋で公演していたようですが、昭和51年岐阜県明智町と名古屋の芝居小屋を合体して誕生したそうです。中には、農村歌舞伎の衣装や小道具類も展示されています。この経営者は、これらの歌舞伎衣装の貸し出し業務や、相生座に隣接した日吉ハイランドクラブというゴルフ場や、歌舞伎の衣装や浮世絵などを展示しているミュージアム中仙道、またセラミックミュージアム内のフレンチレストラン『クレイ』も経営しているようです。このセラミックミュージアムは磯崎新の設計です。
この相生座は、村国座と同様、天井空間に小屋組みが見えていて大きな空間でしたが、なにかほっとするような親しみのある空間でした。

相生座 測定の様子




 呉服座は、今は明治村の中にありますが、ホームページには「明治初年大阪府池田市の戎神社の近くに建てられ、戎座(えびすざ)と呼ばれていたが、明治25年(1892)に同じ池田市の西本町猪名川の川岸に移され、名称も呉服座と改められた。」とあります。このときの地区名が「ごふく」でなく「くれは」と呼ばれていたようで、くれは座と呼ばれるようになったとガイドさんが説明していました。「ここでは地方巡業の歌舞伎をはじめ、壮士芝居、新派、落語、浪曲、講談、漫才等様々なものが演じられたが、特に興味を引くのは、尾崎行雄や幸徳秋水らが立憲政治や社会主義の演説会に使っていることで、当時の芝居小屋が大衆の遊び場、社交場であると同時に、マスコミの重要な役割も果たしていたことがうかがえる」とあります。床は、升席となっており、板の上にゴザが敷かれています。現在屋根の杉皮葺きが、鳥にいたずらされ、大分持っていかれてしまったとのことで、青いネットが保護用に張られています。なお呉服座も国の重要文化財に指定されています。

呉服座 測定の様子



呉服座 内観



呉服座 外観 鳥よけの青いネット


明治村の中にある帝国ホテル
(旧所在地 東京都千代田区内幸町 建設年代 大正12年(1923))


 今回調査した岐阜県の芝居小屋は、村国座、相生座、一昨年は、白雲座、常盤座、鳳凰座、明治座でしたが、そのほかにも蛭子座(えびすざ)、五毛座(ごもうざ)、東座(あずまざ)とあり、岐阜県の中仙道沿いにたくさんの芝居小屋が残されています。これは江戸時代に、幕府の直轄領で、歌舞伎上演が許可されていたことによるそうで、現在でも地歌舞伎の保存会が27団体もあるようです。またその周辺の民家は、瓦屋根の軸組み構造のものがほとんどで、農村風景と相まって、街並みが大変きれいだと感じました。

芝居小屋の音響調査は、劇場演出空間技術協会のなかにある木造劇場研究会と神奈川大学寺尾研究室と全国芝居小屋会議の3団体の共同で行っています。また本調査には、ポーラ伝統文化振興財団の助成を頂いております。

2009/09/11

響く馬頭琴

8月5日の朝日新聞夕刊に、「自由な時代 響く馬頭琴」という見出しの記事がありました。
モンゴル最大のお祭りのナーダムが、建国記念日である7月11日に始まり、ウランバートルの中央競技場で行われた開幕式で、国立馬頭琴交響楽団の演奏があったそうです。
馬頭琴とは、弓で2本の弦をこすって音を出す楽器で、チェロのような、またはチェロより濁った音を出します。楽器の棹の先に、馬の顔の彫り物があるので、馬頭琴といいます。

モンゴルの歴史を振り返ると、1921年にソ連赤軍の支援を受けて中華民国から独立し、1924年から社会主義国としてモンゴル人民共和国となる。1946年中華民国からも独立を承認され1961年に国連加盟された。しかし1930年から独裁体制であったが、1980年以降、ソ連のペレストロイカの動きがあり、1990年一党独裁が崩壊してモンゴル国となっています。

記事では、その3年後の1993年、国立馬頭琴交響楽団ができて、馬頭琴が民族のシンボルとして民主化の歩みとともに息を吹き返したそうで、この15年間は、毎年、建国記念日に、国立馬頭琴交響楽団の演奏があるそうです。さらに記事には「馬を愛する遊牧民が儀式の時に狭いゲルで弾いていたころは、胴体に馬の皮を用い、音も響かなかった。」とあり、それが「徐々に胴と弦は木材とナイロンにかわり、響きを良くするために胴にも切れ目がはいり、チェロのようになった。楽器の『現代化』は社会主義時代に拍車がかかる一方、伝統的な民謡はさびれ、弾き手も減った。」「しかし国立楽団の発足で歯止めがかかり」、「楽器の形や演奏形態は変わったが、大切な馬の生きた毛を使って民族の歌を奏でる精神は受け継がれた。」とあります。

そのような複雑な歴史を経てきた馬頭琴ですが、その発祥は相当古いもののようです。13世紀に書かれたマルコポーロの「東方見聞録」の中にも、馬頭琴らしい楽器のことが書かれているようですが、その頃はまだヨーロッパには擦弦楽器はあまり知られていなかったようです。ヴァイオリンは、16世紀後半に完成し、その後現在の形になるには19世紀になってからのようです。

弓で弾く二弦の擦弦楽器には、中国の二胡、カザフスタンのコブスなどがあります。二胡は蛇皮が張られていますが、カザフのコブスは、ハート型のひょうたん?を半分に割ったような形で、何も表面に張られていません。それでもかなり大きな音が出ます。二胡はヴァイオリン、カザフのコブスはビオラ、馬頭琴はチェロに音域が近いような気がします。日本では、弓で弾く弦楽器は胡弓だけですが、三味線と形が似ていて三弦で、ふさふさした多量の馬の尻尾の毛でできた弓で弾きます。ルーツは中国ではなく、東南アジアではないかという説があります。しかし、現在日本ではあまり流行っていません。

おそらく世界中で生まれた様々な楽器や音楽が、シルクロードや南の海を経由して日本に入り、日本人の好みで選択されたものが現代に残っているのだと思います。

昨年馬頭琴のコンサートに行き、演奏者にどのようか空間が演奏に好ましいですかと聞きましたら、もともと草原で弾いていましたから、とおっしゃいました。したがって馬頭琴の「響き」は、風が吹き渡るような感じのところで演奏することが理想のようです。馬のいななきのような曲もあります。馬が疾走している様子が目に浮かびます。

2009/09/01

芝居小屋の音響調査1回目無事終了

8月28日、建築学会の発表の後、そのまま秋田の小坂町まで、車で移動し、4時半に康楽館に到着しました。康楽館は、洋館風木造芝居小屋で、国重要文化財に指定されています。



常設公演が終了した夜5時より、音響測定開始しました。夜9時、最後のインパルス応答の計測時に雨が降り始め、屋根に当たる雨音がうるさいため、暫らく様子を見ながら、雨の弱いときを見計らって、なんとか無事終了しました。
康楽館は、響きは無いのですが、舞台から声を出してみると、はっきりとしていて発声しやすく、客席に飛んでいっている感じがし、また客席で聞いていても、とてもすっきりと明瞭に聞こえます。舞台でサックスの音を出してみますと、自分の周りにだけ音が存在するような感じで、慣れないと演奏しにくいような気がしました。

測定の様子






次の日は、午前中は隣町の鹿角市の鹿角市交流プラザのホールで、音響測定を行いました。こちらは7年前に竣工したもので、弊社は音響設計にかかわることができました。多目的ホールではありますが、主目的は吹奏楽の練習ということです。音響設計の主方針は、左右異なる、強い側方反射音を客席にもたらすようにしています。残響時間は、低音域は除き康楽館と大きな違いは無いのですが、そのために自分の出した音は大変良く聞こえます。このホールがどのように使われているか、いつも気になっていたのですが、その日は午後から劇団の講演会があり、練習室はバンドの練習が入っていました。今後もたくさん使用されることを期待しています。

鹿角市交流プラザホール測定の様子


第二段の芝居小屋の測定も近々行う予定で、ながめ余興場、村国座、相生座、呉服座、第三段は、福島の旧広瀬座に伺う予定です。

2009年度 日本建築学会大会

2009年度の日本建築学会大会は、仙台にある東北学院大学の泉キャンパスで行われました。
今年も、木造芝居小屋の音響特性に関する発表を、8月28日に行いました。
タイトルは、『木造芝居小屋の音響特性その2 旧金毘羅大芝居金丸座、内子座、嘉穂劇場、八千代座、永楽館の例』です。本研究は、社団法人劇場演出空間技術協会・建築部会・木造劇場研究会、神奈川大学、全国芝居小屋会議と共同で行ったものです。

これまでの芝居小屋の調査は、9座になります。
これらの残響時間の特性は、室容積と最適残響時間のグラフにプロットすると、Knudsen&Harrisの推奨する『講堂に好ましい曲線』の周辺に位置しています(下記発表原稿に示しています)。
したがって芝居小屋は、音声の明朗な伝達が容易な音響特性ということが分かります。ほとんどの場合、話声を含む邦楽の場合には、このような特性は好ましいと感じますが、邦器楽のみの演奏の場合はどう感じるのか。聴感アンケートの結果では、朗読、常磐津・三味線はほとんどの人が、室内楽用のホールより、芝居小屋の方が、好ましいと感じていましたが、邦楽でも篠笛の演奏の場合には、室内楽用のホールのほうが芝居小屋より、わずかであるが好ましいと感じる人が多い結果となっています。芝居小屋のような空間は、単純に邦楽にとって好ましいとは簡単にはいえないという結論になっています。


発表したスライドはこちらからダウンロードできます。
2009年建築学会発表資料

また、東京歌舞伎座や国立劇場大・小ホールも、また旧東京芸大奏楽堂もこの曲線の周辺に位置しています。
歌舞伎座や国立劇場が、木造芝居小屋と同じ傾向にあることは、どちらも公演内容が歌舞伎を中心とするもののために、それほど違和感はないと考えますが、旧東京芸大奏楽堂は、日本で最初のコンサートホールとして明治23年(1890年)に建設されたものです。我々の発表の前は、この奏楽堂の音響特性についての発表でしたので、こちらが感じる奏楽堂について、述べたいと思います。

旧奏楽堂が、芝居小屋と同じような音響特性である理由は、たまたまそうなってしまったのではないという感じがしています。
東京歌舞伎座の開設は、その前年(明治22年)です。その時期、おそらく木造芝居小屋は、全国に相当数、身近な存在として、あったと思われます。東京芸大設立の立役者、伊澤修二は、明治8年(1875年)ボストンのブリッジウオーター師範学校に入学、西洋音楽を学んだ後、明治11年(1878年)帰国し、明治12年(1879年)に文部省の音楽取調掛設立に参加、明治14年(1881年)に小学唱歌集を編集し、明治15年(1882年)に出版しています。音楽取調掛の目的は『東西二様ノ音楽ヲ折衷シテ新曲ヲ作ル事』だったようで、小学唱歌の目的は、和音階だけでなく西洋音階を学ぶことも重要な目的であったようです。伊澤はその後、明治19年に音楽学校設立の建議をし、明治22年東京音楽学校の初代校長に就任し、五線譜『筝曲集』を出版しています。伊澤は単に西洋音楽を輸入しようとしていたわけではなく、伝統的な音楽の良い部分を取り出して、「国楽」を創生しようとし、日本の雅楽、俗楽(庶民が好んだ三味線音楽や箏の音楽)をも研究するように提唱していたようです。
以上のことは、奥中康人著『国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代』、や千葉優子著『ドレミを選んだ日本人』に詳しく書かれています。
したがって、旧奏楽堂は、現在イメージするクラシック音楽のための専用コンサートホールではないと思われ、邦楽や小学唱歌も演奏されるコンサートホールであったと想像できます。伊澤はボストンで、西洋音楽を学んでいます。ボストンシンフォニーホール(1900年竣工)は、まだ出来てはいませんが、どのような空間で西洋音楽が演奏されているかは良く知っていたはずです。同時に邦楽の演奏もどのような空間で演奏されているかも知っていたはずです。その結果が旧奏楽堂ではないかと思っています。