2009年度の日本建築学会大会は、仙台にある東北学院大学の泉キャンパスで行われました。
今年も、木造芝居小屋の音響特性に関する発表を、8月28日に行いました。
タイトルは、『木造芝居小屋の音響特性その2 旧金毘羅大芝居金丸座、内子座、嘉穂劇場、八千代座、永楽館の例』です。本研究は、社団法人劇場演出空間技術協会・建築部会・木造劇場研究会、神奈川大学、全国芝居小屋会議と共同で行ったものです。
これまでの芝居小屋の調査は、9座になります。
これらの残響時間の特性は、室容積と最適残響時間のグラフにプロットすると、Knudsen&Harrisの推奨する『講堂に好ましい曲線』の周辺に位置しています(下記発表原稿に示しています)。
したがって芝居小屋は、音声の明朗な伝達が容易な音響特性ということが分かります。ほとんどの場合、話声を含む邦楽の場合には、このような特性は好ましいと感じますが、邦器楽のみの演奏の場合はどう感じるのか。聴感アンケートの結果では、朗読、常磐津・三味線はほとんどの人が、室内楽用のホールより、芝居小屋の方が、好ましいと感じていましたが、邦楽でも篠笛の演奏の場合には、室内楽用のホールのほうが芝居小屋より、わずかであるが好ましいと感じる人が多い結果となっています。芝居小屋のような空間は、単純に邦楽にとって好ましいとは簡単にはいえないという結論になっています。
発表したスライドはこちらからダウンロードできます。
2009年建築学会発表資料
また、東京歌舞伎座や国立劇場大・小ホールも、また旧東京芸大奏楽堂もこの曲線の周辺に位置しています。
歌舞伎座や国立劇場が、木造芝居小屋と同じ傾向にあることは、どちらも公演内容が歌舞伎を中心とするもののために、それほど違和感はないと考えますが、旧東京芸大奏楽堂は、日本で最初のコンサートホールとして明治23年(1890年)に建設されたものです。我々の発表の前は、この奏楽堂の音響特性についての発表でしたので、こちらが感じる奏楽堂について、述べたいと思います。
旧奏楽堂が、芝居小屋と同じような音響特性である理由は、たまたまそうなってしまったのではないという感じがしています。
東京歌舞伎座の開設は、その前年(明治22年)です。その時期、おそらく木造芝居小屋は、全国に相当数、身近な存在として、あったと思われます。東京芸大設立の立役者、伊澤修二は、明治8年(1875年)ボストンのブリッジウオーター師範学校に入学、西洋音楽を学んだ後、明治11年(1878年)帰国し、明治12年(1879年)に文部省の音楽取調掛設立に参加、明治14年(1881年)に小学唱歌集を編集し、明治15年(1882年)に出版しています。音楽取調掛の目的は『東西二様ノ音楽ヲ折衷シテ新曲ヲ作ル事』だったようで、小学唱歌の目的は、和音階だけでなく西洋音階を学ぶことも重要な目的であったようです。伊澤はその後、明治19年に音楽学校設立の建議をし、明治22年東京音楽学校の初代校長に就任し、五線譜『筝曲集』を出版しています。伊澤は単に西洋音楽を輸入しようとしていたわけではなく、伝統的な音楽の良い部分を取り出して、「国楽」を創生しようとし、日本の雅楽、俗楽(庶民が好んだ三味線音楽や箏の音楽)をも研究するように提唱していたようです。
以上のことは、奥中康人著『国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代』、や千葉優子著『ドレミを選んだ日本人』に詳しく書かれています。
したがって、旧奏楽堂は、現在イメージするクラシック音楽のための専用コンサートホールではないと思われ、邦楽や小学唱歌も演奏されるコンサートホールであったと想像できます。伊澤はボストンで、西洋音楽を学んでいます。ボストンシンフォニーホール(1900年竣工)は、まだ出来てはいませんが、どのような空間で西洋音楽が演奏されているかは良く知っていたはずです。同時に邦楽の演奏もどのような空間で演奏されているかも知っていたはずです。その結果が旧奏楽堂ではないかと思っています。