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2016/11/28

Helmholtz共鳴器を有する高性能二重床に関する建築学会の論文(黄表紙)が出ました

本工法開発の主の目的は、昭和40年代、50年代、1960年代に建設された多くの集合住宅の床衝撃音対策のための工法で、ヘルムホルツ共鳴機構を用いて、主に重量衝撃源の低音域の改善を目標としたものである。
新築の集合住宅では床スラブの剛性を上げること、すなわちスラブ厚を上げることでこれを解決してきたが、古い集合住宅では荷重の制限があり難しい。このHelmholtz共鳴器を有する遮音二重床は画期的な工法と考えている。本論文はそのHelmholtz共鳴器を有する遮音二重床の設計法を示している。


タイトル:
「共鳴器仕様の違いが重量床衝撃音遮断性能に及ぼす影響に関する実験的検討―Helmholtz共鳴器を有する高性能乾式遮音二重床の開発 その2-」
 EXPERIMENTAL STUDY ON EFFECT OF RESONATOR SPECIFICATIONS
  ON HEAVY-WEIGHT FLOOR IMPACT SOUND INSULATION
 Development of high-sound-insulation double floor system with Helmholtz resonators:Part2

執筆者: 安田洋介 廣瀬俊平、関根秀久 藪下満

日本建築学会環境系論文集 第81巻 第729号, 919-929, 2016年11月
J. Environ. Eng., AIJ, Vol.81 No.729, 919-929, Nov., 2016


神奈川大学、安田先生の導いたヘルムホルツ共鳴機構の2自由度系の運動方程式の予測可能性を300角のユニット実験を行い、確認したものである。
実験では、ヘルムホルツ頸部の位置(水平、垂直)、パイプの長さ、数、径等の違い、またヘルムホルツの空洞部を構成した角パイプの縦置き、横置きの違い、等の実験と理論との対応を見た。その対応は振動伝達率の形で比較検討をしている。


半田の街

音の測定の仕事で、11月18日(金)に愛知県の半田に行きました。
仕事が終わった夕方、すでに暗くなっていましたが新美南吉記念館に行きました。新美南吉は、童話ごんぎつねの作者(1913(大正2)~1943(昭和18))です。
記念館の建築は、屋根が波打っていて里山の雰囲気を表している素晴らしいデザインだと思いました。

翌朝、午前中時間があったので、知多半田駅前で30年近く前に設計に関わった旧第一証券半田支店の建物を見に行きました。現在は社会福祉法人むそうという障害者施設になっていましたが、建物が残っていてよかったです。設計した当時は半田の商店街の中に存在していましたが、今や周辺は駐車場になっていました。駅前なので将来の計画があるのでしょうが、今はちょっとさみしい感じです。


旧第一証券半田支店の建物と(現在は社会福祉法人むそう)

その後、近くの赤レンガ建物を見学しました。ここは明治31年(1898年)にカブトビール工場として誕生したとのこと。設計は明治の代表的な建築家の妻木頼黄(つまきよりなか)で、横浜レンガ倉庫も設計しています。当時ドイツ人の技術者を二人招いて、本格的なドイツビールを明治時代に製造していたようです。

最近になって使われなくなって建物を解体し始めたところ住民の反対があり、市が買い取って改装したとのことで、危なく無くなるところだったのです。
この建物は、一部はレンガ構造で階数が4~5階あり、横浜のレンガ倉庫より高いです。また一部は木造のフレームの中にレンガが組み込まれている構造で、富岡製糸場と同じ構造になっています。



観光施設としてオープンしてまだ間が無いとのことですが、観光客がたくさん来ていました。雰囲気のいいカフェでは当時のビールと同じ味のビールが飲めるようです。
半田の街は、お酢のミツカンが創業したところだそうです。運河があり、地の利が良く、商売が盛んだったようです。このミツカンもかぶとビールに経営参加していたようです。

赤レンガのカフェ
また赤レンガ建物の近くに、順正寺という大きなお寺があったのでちょっと寄りましたら、聖母マリア像のようなお地蔵さんがあり、興味を持って写真を撮りました。
マリア像のようなお地蔵さん

 また半田は山車祭りで有名で、5年に一度、31輌の山車が一度に揃うようで、写真を見ると壮観です。前回は平成24年でしたから、次回は平成29年、来年に行われることになります。
町には歴史が、特に頑張った歴史が大事だと感じたところです。

この半田の山車祭りのうちの一つ、亀崎潮干祭の山車行事が、ユネスコの無形文化遺産に登録される見通しの「山車が登場する全国33の祭り、『山・鉾・屋台行事』」に含まれています。

2016/11/08

山中湖の寿徳寺の三浦環の墓

10月末に山中湖に行き、観光地図に寿徳寺には三浦環の墓があるというので行ってみました。
(三浦環は日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。 wikipediaより)

寿徳寺の入り口

三浦環とその御母堂の墓、右側に石碑がある。

墓の脇にある山中湖村教育委員会が立てた石碑(木々と撮影している私とお寺の影も映っています)、そこには三浦環の活躍した経歴と句が書かれていました。

「うたひめは つよき愛国心を持たされば 真の芸術家とはなり得まし」


三浦環60歳ぐらいの時、昭和18年(1943年)に、この地に疎開して、戦火はげしき折に詠んだ句と思われるので、いやに勇ましい感じの句です。ただ軍国主義的という読み方もありますが、オリンピック選手のように国を背負って世界で歌っていたということも言えます。

最近読んだ本、竹中 亨著「明治のワグナー・ブーム 近代日本の音楽移転」の中で、三浦環について、東京朝日新聞1913年6月26日の記事「環は芸術に生きる女である。『歌ふ事ができれば死んでもいい』」とさへ云って居る。環が芸術から離れると云う事は、環から生命を奪ふようなもの」を引用して、「旧来の道徳観念を超える奔放な生き方を体現した三浦はスターとなったのである。」と書いている。
1913年は大正2年になる。三浦環はこのころ30歳、1914年には渡欧し、世界で活躍するオペラ歌手となります。
この本を読んでいて、自由奔放な芸術家としての三浦環が頭に焼きついていたので、この句にはずいぶんびっくりしました。

この寿徳寺の入口の前に、修復しているらしい古民家を見つけました。どう修復されるのか、近いうちにまた来たいと思います。