(三浦環は日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。 wikipediaより)
寿徳寺の入り口
墓の脇にある山中湖村教育委員会が立てた石碑(木々と撮影している私とお寺の影も映っています)、そこには三浦環の活躍した経歴と句が書かれていました。
「うたひめは つよき愛国心を持たされば 真の芸術家とはなり得まし」
三浦環60歳ぐらいの時、昭和18年(1943年)に、この地に疎開して、戦火はげしき折に詠んだ句と思われるので、いやに勇ましい感じの句です。ただ軍国主義的という読み方もありますが、オリンピック選手のように国を背負って世界で歌っていたということも言えます。
最近読んだ本、竹中 亨著「明治のワグナー・ブーム 近代日本の音楽移転」の中で、三浦環について、東京朝日新聞1913年6月26日の記事「環は芸術に生きる女である。『歌ふ事ができれば死んでもいい』」とさへ云って居る。環が芸術から離れると云う事は、環から生命を奪ふようなもの」を引用して、「旧来の道徳観念を超える奔放な生き方を体現した三浦はスターとなったのである。」と書いている。
1913年は大正2年になる。三浦環はこのころ30歳、1914年には渡欧し、世界で活躍するオペラ歌手となります。
この本を読んでいて、自由奔放な芸術家としての三浦環が頭に焼きついていたので、この句にはずいぶんびっくりしました。
この寿徳寺の入口の前に、修復しているらしい古民家を見つけました。どう修復されるのか、近いうちにまた来たいと思います。
1913年は大正2年になる。三浦環はこのころ30歳、1914年には渡欧し、世界で活躍するオペラ歌手となります。
この本を読んでいて、自由奔放な芸術家としての三浦環が頭に焼きついていたので、この句にはずいぶんびっくりしました。
この寿徳寺の入口の前に、修復しているらしい古民家を見つけました。どう修復されるのか、近いうちにまた来たいと思います。