外観 |
客席は馬蹄形で、2Fのバルコニー席があり、オペラハウスのようでした。バレエの公演は、生演奏はなく、伴奏はコラムスピーカ(2F席のスピーカはTOAなので、コラムもおそらくTOA)から音を出していました。子供たちは小学校低学年または未就学でしたが、一所懸命な感じが良く出ていました。演出に霞幕の様なものも使われていました。霞幕は上部に引き上げていましたので、フライズもありそうです。客席数は475席です。
以下に、建設されてから現在に至るおおよそ200年の経緯を英語版Wikipediaの一部を日本語に翻訳してみましたが、この劇場はその時その時で様々に変化して使用されてきたことを伺うことができ、劇場としてとても幸せな扱いをされていると感じます。日本の芝居小屋は、戦後、ここと同様に映画館として使われた後、ほとんどが終了してしまいました。
以下引用翻訳。
1821年にオランダ植民地政府により、既存に有ったbamboo theaterに代わり、より恒久的な構造のもの作り変えられた。設計はJ.C. Schultzeで、 Neoclassical styleのデザインである。Gedung Komedi ("Comedy building").[2]という名前で有名になった。杮落しは1821年10月の予定であったが、コレラの流行で延期され12月7日に行われた。公演はシェークスピアのオテロであったとのこと。ただし女性歌手やオーケストラの不足などで民間企業の経営が失敗し、1848年に政府が引き継ぎ、1911年にはバタビア市(ジャカルタの植民地時代の名前)に引き継がれた。
最初の照明は蝋燭や灯油ランプで有ったが、1864年にはガス灯が導入され、1882年には電気が初めて使われたが、1910年まではガス灯も使われていた。
National Awakeningの時代、1926年には地域の青年同盟により、Kongres Pemoeda (Youth Congress)のために使われた。
日本占領時代(1942~1945)は最初軍の本部として使われ、1943年4月には劇場( Sin'tsu Cekizyoo.[1])として使われた。
独立時代には Seniman Merdeka, ("Independent Artists")として若い芸術家の会議場所として使われるようになった。1945年8月29日、インドネシアの公式の独立記念日の12日後には最初の大統領のスカルノがインドネシア中央政府を発足させ、ここで最初の会議が開かれた。
1951年にはインドネシア大学の経済学部により使われるようになり、1957年から1961年まではインドネシア国立劇場アカデミーにより使われていた。
1968年には建物は再び名前を変え、 Bioskop Diana (Diana Theater)となり、Brigadier General Pimgadie.によって管理された。1970年には中国映画を見せる映画館になり、City Theaterという名前になった。
1984年には元に機能にも戻すように法律が制定され、 3 billion rupiah(※当時のレートで約3億円ほど)かけて改修され、1987年9月5日にGedung Kesenian Pasar Baru.[1]から Gedung Kesenian Jakarta,になり、現在に至っている。