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2024/03/20

旧釈迦堂や旧真福寺周辺の早淵川沿いの神社・仏閣等

 あざみ野駅周辺の早淵川沿いの神社・仏閣などはかなり高台にある。多分洪水があった時にでも水害から避けられるようにと考えたのかもしれない。そこで早淵川に沿って、あざみ野駅周辺を歩いてみた。この荏田の地域は東名高速道路と国道246号線が2本かなり並んで横断しており、横断する前の状況を想像することはなかなか難しい。主に釈迦堂および旧真福寺の過去の状況を文献ではなく、地理学的(明治時代初期の地形図)な、地政学的(国道246号線や東名高速道路)な、物理的(早淵川との地盤の高さ)な解釈の方法で想像してみた。独立行政法人農業環境技術研究所が明治初期につくられた地図(歴史的農業環境閲覧システム)および現代の地図を比較できる比較地図を作成し、公表している。それを利用した。


現在の地図で、調査したところを□で示している。下図は明治初期の農業環境の地図で、太いオレンジの線で旧大山街道を示し、細いオレンジ色の線で、釈迦道(しゃかんどう)を示している。かつて釈迦道は図のように尾根を横断している。


            明治初期の農業環境図

神明社

あざみ野駅の近くを流れる早淵川の上流1kmほどのJollyPastaの一つ手前を左折したところの根の中腹にあるのが神明社で、牛込獅子舞の代表的存在と由来の標識にある。


神明社の鳥居と本殿

慰霊碑                                                         

平成元年 区画整理事業により地区に点在していた墓地を整理し、供養した。場所はあざみ野駅から近く、うかい亭の駅側にあり、尾根の頂上で、忠魂碑のある山脈を分断した田園都市線を超えた延長線上にある。管理しているお寺は分からない。


西勝寺                                                             西勝寺はあざみ野駅の下流側すぐのところにある。早淵川近くにあるが階段を上ったところにある。墓地はこの本堂の裏側にある。


西勝寺墓地(本堂の裏側の一番高いところにある)今はさらに墓地の増築工事を行っている。


伊勢社                                                             伊勢社は早淵川から見て、たまプラーザの方に西勝寺を超えたところの山の頂上付近にある。

驚神社                                                            「驚」は馬を敬うという漢字を合体させたような名前である。あざみ野駅から約500m下流側にある。早淵川近くにあるが、階段の上にある。



忠魂碑



忠魂碑は当時の政府に忠誠を尽くして、日清戦争・日露戦争・第二次世界大戦などの戦争で亡くなったこの近隣の人の名前を記してたたえた記念碑で、お墓ではない。横浜市歴史博物館特別展 『横浜の仏像 しられざるみほとけたち』のブログ

https://yab-onkyo.blogspot.com/2021/02/blog-post.htmlにも書いたが、都築・橘樹研究会の『都築・橘樹地域史研究2』という本を横浜歴史博物館から紹介され、その中に林浩一著『都築郡山内村忠魂碑について』という文書(p. 112118)があり、そのなかに、忠魂碑は大正八年に釈迦堂の土地が寄付されたと書かれている。廃仏毀釈があったのは明治の初めなので、大正八年では廃仏毀釈が原因としては時期が遅すぎているように思う。単に本堂の老朽化ないし後継者がいなくなったためかもしれない。またこの釈迦堂にはお墓が付属していなかったようで、このお釈迦様が納められているお堂があっただけのようだ。


真福寺(真言宗豊山派養老山 真福寺)                                        真福寺の由来の文章によれば、真福寺は老朽化により当時観音寺であった当地に大正10年(1921)真福寺ならびに釈迦堂を移し、それぞれの本尊を客仏として安置したとかかれている。本尊の木造千手観音像(一本造)は、県の重要文化財で、客仏の木造釈迦如来立像は、国の重要文化財で、鎌倉時代の作とある(昭和八年一月二十二日国の重要文化財指定)。この釈迦如来立像は口をキリリと締め、意志の強そうなお顔をしている。他のほとんどの仏像がにこやかな穏やかなお顔をしているが、この顔を見ていると緊張する。素晴らしい仏像である。


 この木造釈迦如来立像は、京都清凉寺本尊を模刻したもので、県内には、この他に称名寺像と極楽寺像が国の重要文化財の指定を受けている。この真福寺は入り口には階段があり、高く位置し、洪水から守られている。この寺の入り口には春彼岸とあり、お墓参りをしましょうと書かれているので、墓地を探したが、この本堂の周辺にはなく、ただこのお寺の隣の敷地に近隣の慰霊碑が経っていた。また、その隣地には、お宮さんの建物もあった。正確には真福寺のお墓は旧真福寺近くの敷地に今もある。



旧真福寺は宿自治会館の近くにあったようで、宿自治会館の近くにはお墓がある。木々がうっそうとしている中にお墓があるので、昼間も少し薄気味が悪い。この墓地を管理しているところはどこかわかりにくいが、この真福寺だということ。(※近隣の人に聞いたが、真福寺と観福寺は兄弟で住職をしているとのこと)、この墓地の奥には現在非常に大きな集合住宅の「アルスあざみ野」があり、よく見るとこの墓地の中段には不自然に地面を削った後があり、この最後の宿自治会館側の道のところでも擁壁がある。


最初に示した現況図と明治時代初期の農業環境図を現在の荏田の近くを中心に拡大して示す。現況図で黄色い線で示されたところは、釈迦道と一部旧大山街道と旧大山街道に沿った道路が示されているが、今やこの道は主要な幹線(県道)となっている。釈迦道(参照:農業環境図、最初に記した図を拡大したもの)は山脈を越える山道となっており、峠の位置では現在の忠魂碑(旧釈迦堂)と同じ山なりにあったことになり、釈迦道の峠からは大きなレベル差はないと思われる。また国道246号線ができる前は、多分この山脈はさらに続いていて、農業環境図に緑色の線で示したが、山を貫通していることがわかる。現在宿自治会館がある位置は、明治時代では山なりの一部に存在していて、多分この旧真福寺も真福寺の墓地も山なりの一部分に位置していて、早淵川より高い位置にあり、洪水を避けられる高さにあったと思われる。また旧大山街道は釈迦道と交わるところで直角に曲がっているが、この山脈を避けるような形で、現在の国道246号線をわたり、早淵川まで行って曲がっている。また早淵川と合流する布川も現在は東名高速道路で地下化しているが、以前はそのまま谷を伸びていて、蛍も生息するきれいな川となっていたようだ。


現在の釈迦道と旧大山街道と東名高速道路と国道246号線および早淵川・布川を示している。さらに緑の線で現在の宿自治会館(旧真福寺)方向の道を示している。

 また釈迦道は峠を越える位置で、現在の忠魂碑とほぼ同じようなレベルとなっていたように思うが、いつ切通が出来たかはまだ資料が見つからない。東名高速道路については、1951(昭和26) 東京・神戸高速自動車道路調査を再開とある。調査再開と有るので多分戦前から調査は行われていたことになる。1963(昭和38)18日測量のための杭打ち式開催、全線起工式開催が、1965(昭和40)422日、東名高速道路が全線開通したのが昭和44年(1969年)526日で、真福寺の由来では、大正10(1921)に現在の場所に移動したと書かれている。その後、この地域(旧真福寺周辺)は国道246号線の計画の高さに合わせ、地盤を下げたように思う。またその延長線上にある釈迦道も東名高速道路の高架下を通り抜けるため、計画に合わせ、地盤の変更を行ったのではないかと思う。いずれにしても実際の工事は戦後(1945年)以降と思われる。切り下げしたときの擁壁がしっかりとしている。しかし東名高速道路の下を抜けるためだけではこのような大掛かりな切通にはなっていないように思う。先ほども書いたが、現況図ではこの釈迦道は現在県道であり、主要幹線となっているようだ。したがって峠を越えるような山道では、自動車道路としては安全ではないので、切通にしたように思う。多分大工事のような気がする。

またなぜ真福寺は現在の位置に変更されたかを考えてみる。もし単に本堂が老朽化したのであれば、建て直すこともできる。しかしこれは国道246号線が出来たことによって、地盤の高さを変更する必要があり、現在の位置に変更したのではないかと思われる。真福寺の由来では、大正10(1921)に現在の場所に移動したと書かれている。国道246号線は大正9年(1920年)に当時の道路法に基づき、東京府道第1号東京厚木線、神奈川県道厚木東京線などと指定されたとのこと。時間的には重なっている。また忠魂碑のところですでに書いたが、忠魂碑は大正八年に釈迦堂の土地を寄付されたとされているが、これとも時期がほぼ重なっている。

観福寺  

観福寺(真言宗豊山派 宝剣山) 本堂は鉄筋コンクリート造でできているので新しく、古くからある建物ではなさそう。観福寺の墓地はこの本堂の裏側にあり、広い敷地で、周辺では最も高台にある。

ただしこの観福寺の一部のお墓と真福寺のお墓は、現在の宿自治会館の隣の山側の木々の中にある。



OIKO∑教会

横浜生田線の柚の木の交差点を剣神社の方へ曲がり数十メートルのところを、さらに数10メートル奥に有るプロテスタントの教会。ギリシャ文字のような名前の教会である。ここではコンサートもやっているようで、興味深い。この場所は早淵川のレベルとはそれほど大きな違いはないが、1階はRC造でできており、2階が教会のようだ。今までの論旨で言えば、もし早淵川が洪水になった時には、一階がコンクリート造なので、倒壊は避けられると考えられる。

                写真OIKO教会

剣神社 

剣神社の由来によれば、村(荏田村と思われる)の中央字榎木谷にあり、剣明神と号す当初の総鎮守なり、云々 また 商人が居眠りをしている間に大蛇が狙ってきたので、刀で斬殺した。その剣を祀って剣明神としたと。この伝説は八俣の大蛇の伝説と類似しているとも書かれている。そこで由来の文書では、「開拓神」ないし「農業神」として祭ったのではないかと、鎌倉時代の創建と言われている。いま一般的に考えると大蛇はこの早淵川で、洪水の時には暴れ川になるので、剣でなく、鍬とかスコップで川を改良したのではないかと思う。剣神社周辺は、今も水田の地域である。


矢羽根不動尊  ここは柚ノ木交差点をさらに横浜生田線という道路をセンター北駅の方向へ向かい、早淵川と交差するちょっと手前で、山に相当登ったところにある。創建の正確なことは分からないが、この石の階段は早淵川からは相当レベル差があり、段差も規則的ではなく、登るのは大変で、階段の施工も結構大変だったと思われるが、洪水の時には安全だ。また矢羽根不動尊とはロマンチックな名前である。この神社のすぐ横には、小さなお稲荷さんもある。

東善寺本堂 ここは矢羽根不動尊の前の横浜生田線という道路をセンター北駅の方向へ向かい、橋を渡ってすぐのところにある。やはり東善寺は入り口に階段があり、早淵川とはレベル差がある。


       慈眼寺も杉山神社も高台にあり、早淵川とは高さにレベル差がある。

              センター北駅から眺めた右側 杉山神社、左側 慈眼寺