3月7日夜、神楽坂近くの矢来能楽堂で、雅楽、能、長唄、新内、日本舞踊の公演「神楽坂の至宝が奏でる日本の伝統芸能絵巻」がありました。
この公演には、神楽坂在住の人間国宝が4名も参加されています。長唄の東音宮田哲男、能楽囃子の亀井忠雄、筝曲の山勢松韻、新内の鶴賀若狭掾です。
神楽坂には、そのほか第一線で活躍されている芸能の担い手がたくさんいらっしゃるそうです。神楽坂の奥深い魅力の元です。
今回の企画のように、古代の雅楽から神楽坂花柳界の芸者衆の舞踊までが一同に舞台に乗るのを見る機会は、めったに無いことだと思います。
能や日本舞踊をそれぞれ別々に見るのではなく、横断的ないし歴史的に縦断的に見ることで、日本の伝統芸能の雰囲気が良く伝わってきました。夕方5時から8時半まで、ずっと座って雰囲気を楽しんでいました。
公演のパンフレットでは、先日、著作である「ドレミを選んだ日本人」を読ませていただいた千葉優子さんが、日本の音楽について説明されています。
日本の音楽・芸能文化は、時代を担った社会的階層の中で生み出され、育まれてきて、時代が変わっても、それぞれの価値を認め、大切に受け継いできたとのこと。雅楽は、5世紀中ごろに中国から伝わったものであるが、平安時代に日本流にアレンジされたものであり、能楽は室町時代に武家社会で大成したもの。箏や三味線などの近世邦楽は、江戸時代の庶民が育んだものであること。しかも江戸時代までは、雅楽は宮廷で、能は武士の間以外では、演じられることは無く、庶民が雅楽や能を見ることは無く、お互いに交流することも無かったとのことです。
日本の音楽の特徴は、そのほとんどに歌や語りがあり、したがって歌を邪魔するような音は避けているということ。特に、持続音を出すリード楽器は避けられてきたそうです。日本人が好むのは、箏や三味線のように爪弾く音の系統だそうです。また、箏の弦を爪でこする「すり爪」、息の音を出す尺八の「ムライキ」、三味線の「サワリ」などの噪音を味わうことが好きであり、また高音を好むといった特徴が書かれていました。それが華やいだ感じを出すのだと思います。持続音という意味では、ヴァイオリンや二胡のように弓で弾く弦楽器は日本では流行らず、能管のような管楽器でも衝撃音のような音で演奏されるのも良くわかります。
神楽坂の芸者衆の日本舞踊が終わって、華やいだ気分で神楽坂を坂下まで歩いたところで、タクシーから華やかな着物姿の人が降りてきました。見ると先ほどまで長唄の三味線を弾いていた人でしたので、ちょっと立ち話をさせて頂きました。神楽坂の人になった気分でした。
2009/03/09
マテリアル・デザイン2009-2010(ディテール3月号別冊)に記事が掲載されました

マテリアル・デザイン2009-2010に、ACT環境計画の小林さん、林さんと共同執筆した記事が掲載されました。
機能材編 「吸音材・遮音材」の項です。これまでの事例をまじえて書いています。ぜひお手にとってご覧ください。
本号の特集は、「木と向かい合う」、「環境に挑む」というものでした。
巻頭の、内藤氏と腰原氏の対談では、木造はエコや林業の観点からも見直されているが、400年前の当時の最先端技術であった在来工法の上に胡坐を組むことなく、現代建築を考える必要があると言われています。内藤氏は最後に、「木造をやることで、一方向の思考法しか持たない近代を変えていく1つのきっかけになるはずです。だから、木造が大きなチャレンジになる」とおっしゃっています。
ケーススタディ1では、集成材の籠構造でできた、体育館のようなホールが紹介されていました。大変興味深い形のものです。設計はワークステーション、構造設計は佐藤淳氏。
また、環境の特集の方では、リファイン建築で有名な青木氏と難波氏の対談がありました。青木さんは、サンフランシスコの例では、建物の解体の条件が厳しく、耐震補強に対して改善命令をだすと、届けの翌日から解体できる日本とは大きく違うと話されています。また既存建物を解体して新たにコンクリートを打つ場合と、既存建物の躯体を利用する場合と比較すると、CO2発生量が84%減少するといった話があり、大変考えさせられました。
購入はこちらから。
2009/01/15
「黒船が運んだオケの芽」朝日新聞1/9(金)神奈川版の記事を読んで
今年は横浜開港150年であり、タイトルの記事はそれを記念したシリーズ連載の7回目です。
その中で、「ペリーの滞在中、宴席や葬儀で、当時の流 行曲や鎮魂歌、賛美歌が演奏されていた。初めて接した西洋音楽に、平野は『当時の日本人は黒船が運んだメロディやリズムを案外抵抗なく受け入れたのではないか』と考える。西洋音楽は浜風に乗って、その後、日本中に広がった。」とありました。
この文章によれば、西洋音楽は瞬く間に日本中に広がったように読めます。実は私も、10数年前に、ドナルド・キーンの「音楽の出会いとよろこび 続 音盤風刺花伝 中矢 一義 訳1980年第1版発行」 の中の「音楽と国際性」の章を読むまでは、西洋音楽に馴染んだ者としては、そのように音楽には国境は無いと思っていました。
ドナルド・キーンによれば「略、複雑なクラシック音楽 の場合には、国境が厳然と存在していることがわかる。明治日本の西洋音楽史をみると、ヨーロッパの歌曲のいくつかは、しばしば5音音階に移されて、ほとんど抵抗もなしに日本人に吸収されている。たとえば、日本人の多くは《蛍の光》が外国産だとは少しも気付かなかった。また日清戦争には、それまでの日本人が 知らなかったような種類の軍楽が急速に広まった。だが、クラシック音楽には、はるかに大きな抵抗が示されたのである。」「渋民村にいた石川啄木は、中略 メンデルスゾーンの音楽を愛好すると書き、さらに欧羅巴3千年の歴史を罵って、退化の記録のみを激語したリヒヤード・ワクネルの心を忍ばるる。とも記して いる。だが、その啄木の音楽的関心も、上京後は大きく変化する。啄木が出掛けたと思われる音楽的催しといえば、娘義太夫の公演ぐらいのものであった。」「クラシック熱が広がり始めるのは1930年代に入ってからのことである。しかしながら、その後のクラシック音楽の人気は、西洋の他の芸術分野の劣らぬほどの勢いを示した。」とありました。このように明治の時代は、クラシック音楽は邦楽と音律が違うために感覚としてなじむことができず、素直に日本人に受け入れられてはいないようです。
ペリーが浦賀に来航したのが嘉永6年(1853)、横浜開港は1859年7月1日、それからクラシックが広がり 始めた1930年代までは70~80年間ほどかかっています。ドナルド・キーンの文章は、日本人のクラシック音楽への愛情を皮肉に見ながら、最後に「国際 性という枠組みの中で、はっきりと日本的特色をもった音楽を作り出すという、明治の音楽教育者たちのいだいた夢が実現する日も、おそらくそう遠くないかも しれない。」
と結んでいます。
1月12日(月)の朝日新聞のGLOBEという欄に、「大野和士 指揮者 日本人であること。彼はそこからタクトを振りはじめた」という見出しの記事がありました。
そこには「音楽に国境はある。~中略~ 紛争下のクロアチアで8年間、ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者と音楽監督を務めた。ある時、楽団が 奏でるチャイコフスキーから、スラブ民族の情念がふつふつとうねり出すのを感じた。~中略~「異邦人」のコンプレックスに苦しんでいた自分が、突如、クラ シックという大河へと解き放たれたように思えた。」と書かれていました。このようにクラシック音楽に対して、自分が「異邦人」と感じる音楽家は多いようです。しかし今や、邦楽に「異邦人」を感じる人はもっと多いかもしれません。しかしこういう現象もあります。クラシックコンサートに行くと、中年の観客が多く見受けられますが、歌舞伎や三味線・尺八の音楽会には若い人がかなり見られます。
ペリーのおかげで、私にとってはクラシック音楽は大変身近な存在です。現在では、そのクラシック音楽の音律から、JAZZやポップス、ロックや歌謡曲が生まれ、日本人にもあたりまえの存在になっています。しかし、日本にはもともと邦楽が存在し、また世界中に様々な民俗音楽があり、それらは言語と同じように、それぞれの音律から構成されていることもわかっています。それらの起源は古く、生活空間や文化や民族によって違い、さらに影響し合って現在に至っています。音楽から世界を感じ、また楽しんで見たいと思っています。
その中で、「ペリーの滞在中、宴席や葬儀で、当時の流 行曲や鎮魂歌、賛美歌が演奏されていた。初めて接した西洋音楽に、平野は『当時の日本人は黒船が運んだメロディやリズムを案外抵抗なく受け入れたのではないか』と考える。西洋音楽は浜風に乗って、その後、日本中に広がった。」とありました。
この文章によれば、西洋音楽は瞬く間に日本中に広がったように読めます。実は私も、10数年前に、ドナルド・キーンの「音楽の出会いとよろこび 続 音盤風刺花伝 中矢 一義 訳1980年第1版発行」 の中の「音楽と国際性」の章を読むまでは、西洋音楽に馴染んだ者としては、そのように音楽には国境は無いと思っていました。
ドナルド・キーンによれば「略、複雑なクラシック音楽 の場合には、国境が厳然と存在していることがわかる。明治日本の西洋音楽史をみると、ヨーロッパの歌曲のいくつかは、しばしば5音音階に移されて、ほとんど抵抗もなしに日本人に吸収されている。たとえば、日本人の多くは《蛍の光》が外国産だとは少しも気付かなかった。また日清戦争には、それまでの日本人が 知らなかったような種類の軍楽が急速に広まった。だが、クラシック音楽には、はるかに大きな抵抗が示されたのである。」「渋民村にいた石川啄木は、中略 メンデルスゾーンの音楽を愛好すると書き、さらに欧羅巴3千年の歴史を罵って、退化の記録のみを激語したリヒヤード・ワクネルの心を忍ばるる。とも記して いる。だが、その啄木の音楽的関心も、上京後は大きく変化する。啄木が出掛けたと思われる音楽的催しといえば、娘義太夫の公演ぐらいのものであった。」「クラシック熱が広がり始めるのは1930年代に入ってからのことである。しかしながら、その後のクラシック音楽の人気は、西洋の他の芸術分野の劣らぬほどの勢いを示した。」とありました。このように明治の時代は、クラシック音楽は邦楽と音律が違うために感覚としてなじむことができず、素直に日本人に受け入れられてはいないようです。
ペリーが浦賀に来航したのが嘉永6年(1853)、横浜開港は1859年7月1日、それからクラシックが広がり 始めた1930年代までは70~80年間ほどかかっています。ドナルド・キーンの文章は、日本人のクラシック音楽への愛情を皮肉に見ながら、最後に「国際 性という枠組みの中で、はっきりと日本的特色をもった音楽を作り出すという、明治の音楽教育者たちのいだいた夢が実現する日も、おそらくそう遠くないかも しれない。」
と結んでいます。
1月12日(月)の朝日新聞のGLOBEという欄に、「大野和士 指揮者 日本人であること。彼はそこからタクトを振りはじめた」という見出しの記事がありました。
そこには「音楽に国境はある。~中略~ 紛争下のクロアチアで8年間、ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者と音楽監督を務めた。ある時、楽団が 奏でるチャイコフスキーから、スラブ民族の情念がふつふつとうねり出すのを感じた。~中略~「異邦人」のコンプレックスに苦しんでいた自分が、突如、クラ シックという大河へと解き放たれたように思えた。」と書かれていました。このようにクラシック音楽に対して、自分が「異邦人」と感じる音楽家は多いようです。しかし今や、邦楽に「異邦人」を感じる人はもっと多いかもしれません。しかしこういう現象もあります。クラシックコンサートに行くと、中年の観客が多く見受けられますが、歌舞伎や三味線・尺八の音楽会には若い人がかなり見られます。
ペリーのおかげで、私にとってはクラシック音楽は大変身近な存在です。現在では、そのクラシック音楽の音律から、JAZZやポップス、ロックや歌謡曲が生まれ、日本人にもあたりまえの存在になっています。しかし、日本にはもともと邦楽が存在し、また世界中に様々な民俗音楽があり、それらは言語と同じように、それぞれの音律から構成されていることもわかっています。それらの起源は古く、生活空間や文化や民族によって違い、さらに影響し合って現在に至っています。音楽から世界を感じ、また楽しんで見たいと思っています。
2009/01/06
神奈川大学管弦楽団の第54回定期演奏会、および吹奏楽部の第44回定期演奏会を聴きました
明けましておめでとうございます。
昨年の正月のブログと同じ様になりますが、私の2008年の聞き収めコンサートは、12月25日に管弦楽団の定期演奏会で、2009年は1月4日の吹奏楽部の定期演奏会で幕を開けました。
管弦楽団の定期コンサートは、めぐろパーシモンホールで行われ、前半はスッペ作曲喜歌劇『軽騎兵』序曲、ハチャトリアン作曲 組曲『仮面舞踏会』、後半はフランク作曲『交響曲ニ短調』でした。このフランクは、コンサートでは、ほとんど演奏されていないように思われますが、穏やかな曲で、循環形式(多楽章の曲で、共通の主題を繰り返し登場させる手法)が用いられ、新しい曲だと思わせるものでした(実際には1888年作曲)。演奏は、いずれの曲もとても勢いがあって、好ましく感じられました。ホールも明るい木目調でいい雰囲気でした。
吹奏楽部の演奏会は、東京芸術劇場大ホールでした。神奈川大学吹奏楽部は毎年大学の部の全国大会に出て、ほとんど金賞を得ていますが、3年連続出場すると、参加はお休みになります。そこで今年は、スペイン・フランスに行って演奏をしてきたようです。しかもスペインで行われた第37回国際吹奏楽コンテストin Altea 2008に出場し、見事1位を獲得したそうです。おめでとうございます。演奏会の曲目は、前半、ロッシーニ作曲『歌劇「盗むかささぎ」序曲』、パスカル・ペレ・チョヴィ作曲『ぺピータ・グレウス』、ファン・エンリケ・カネ・トドリ作曲『Poema Polar』、真島俊夫作曲『三つのジャポニズムⅠ.鶴が舞う、Ⅱ.雪の川、Ⅲ.祭り』、後半はジャック・イベール作曲『交響組曲「寄港地」よりⅡ.チュニスーネフタ、Ⅲ.バレンシア』、サンチャゴ・ロペ作曲『ガリトー』、高昌帥(Chang Su Koh)作曲『ウインドオーケストラのためのマインドスケープ』、アンコール曲は、ハチャトリアンの『仮面舞踏会(管弦楽団とたまたま同じ曲)』、『美空ひばりメドレー』、『星条旗よ永遠なれ』でした。『Poema Polar』は国際コンクールの課題曲で地球環境をテーマとした曲だそうです。『三つのジャポニズム』は、自由曲として披露したそうで、祭りのリズムが随所にあり、次第に盛り上がっていき、和太鼓で最高潮に達します。華やかな元気な曲で、ちょっと明るくしたボレロです。国際コンクールでは、スタンディングオーベーションだったそうです。ちょっと和風なすばらしい曲でした。作曲者の真島さんは、神奈川大学の工学部に在籍して(卒業はせず、音楽に入った)いたそうで、縁があります。東京芸術劇場大ホールは扇型をしていますので、初期反射音が客席にもたらしにくい形をしていますが、楽器の音像ははっきりしているので、吹奏楽のように音が大きく、さまざまなところから出てくるような場合には臨場感がありました。しかし指揮者が、アンコール曲の曲目を言った言葉が聞き取れませんでした。
学生の演奏会は、相当練習しているためか、力強さやエネルギーを感じます。曲目もコンサートではめったに演奏されないような曲を選んでいて、そのこともいいです。今後も、学生の演奏会は進んで行くようにしたいと思いました。また、音律の違う楽器のアンサンブルの曲があればいいと思っています。たとえば三味線とヴァイオリンとか尺八とフルートとかです。今までは和楽器でも、または二胡のような楽器でも、平均律にあわせて、アンサンブルをしていますが、それぞれの楽器の音色の特徴を生かしながら、二重螺旋のような曲ができるのではないかと思っています。音の空間が地球を感じる大きさになります。
昨年の正月のブログと同じ様になりますが、私の2008年の聞き収めコンサートは、12月25日に管弦楽団の定期演奏会で、2009年は1月4日の吹奏楽部の定期演奏会で幕を開けました。
管弦楽団の定期コンサートは、めぐろパーシモンホールで行われ、前半はスッペ作曲喜歌劇『軽騎兵』序曲、ハチャトリアン作曲 組曲『仮面舞踏会』、後半はフランク作曲『交響曲ニ短調』でした。このフランクは、コンサートでは、ほとんど演奏されていないように思われますが、穏やかな曲で、循環形式(多楽章の曲で、共通の主題を繰り返し登場させる手法)が用いられ、新しい曲だと思わせるものでした(実際には1888年作曲)。演奏は、いずれの曲もとても勢いがあって、好ましく感じられました。ホールも明るい木目調でいい雰囲気でした。
吹奏楽部の演奏会は、東京芸術劇場大ホールでした。神奈川大学吹奏楽部は毎年大学の部の全国大会に出て、ほとんど金賞を得ていますが、3年連続出場すると、参加はお休みになります。そこで今年は、スペイン・フランスに行って演奏をしてきたようです。しかもスペインで行われた第37回国際吹奏楽コンテストin Altea 2008に出場し、見事1位を獲得したそうです。おめでとうございます。演奏会の曲目は、前半、ロッシーニ作曲『歌劇「盗むかささぎ」序曲』、パスカル・ペレ・チョヴィ作曲『ぺピータ・グレウス』、ファン・エンリケ・カネ・トドリ作曲『Poema Polar』、真島俊夫作曲『三つのジャポニズムⅠ.鶴が舞う、Ⅱ.雪の川、Ⅲ.祭り』、後半はジャック・イベール作曲『交響組曲「寄港地」よりⅡ.チュニスーネフタ、Ⅲ.バレンシア』、サンチャゴ・ロペ作曲『ガリトー』、高昌帥(Chang Su Koh)作曲『ウインドオーケストラのためのマインドスケープ』、アンコール曲は、ハチャトリアンの『仮面舞踏会(管弦楽団とたまたま同じ曲)』、『美空ひばりメドレー』、『星条旗よ永遠なれ』でした。『Poema Polar』は国際コンクールの課題曲で地球環境をテーマとした曲だそうです。『三つのジャポニズム』は、自由曲として披露したそうで、祭りのリズムが随所にあり、次第に盛り上がっていき、和太鼓で最高潮に達します。華やかな元気な曲で、ちょっと明るくしたボレロです。国際コンクールでは、スタンディングオーベーションだったそうです。ちょっと和風なすばらしい曲でした。作曲者の真島さんは、神奈川大学の工学部に在籍して(卒業はせず、音楽に入った)いたそうで、縁があります。東京芸術劇場大ホールは扇型をしていますので、初期反射音が客席にもたらしにくい形をしていますが、楽器の音像ははっきりしているので、吹奏楽のように音が大きく、さまざまなところから出てくるような場合には臨場感がありました。しかし指揮者が、アンコール曲の曲目を言った言葉が聞き取れませんでした。
学生の演奏会は、相当練習しているためか、力強さやエネルギーを感じます。曲目もコンサートではめったに演奏されないような曲を選んでいて、そのこともいいです。今後も、学生の演奏会は進んで行くようにしたいと思いました。また、音律の違う楽器のアンサンブルの曲があればいいと思っています。たとえば三味線とヴァイオリンとか尺八とフルートとかです。今までは和楽器でも、または二胡のような楽器でも、平均律にあわせて、アンサンブルをしていますが、それぞれの楽器の音色の特徴を生かしながら、二重螺旋のような曲ができるのではないかと思っています。音の空間が地球を感じる大きさになります。
2008/12/15
建築技術2008年12月号に記事を執筆

建築技術2008年12月号『密集市街地につくる住まいのデザインと技術』の特集に、『密集市街地に住まいをつくるテクニック【音】密集市街地での遮音性能の考え方』というテーマで記事を書かせていただきました。
サッシの遮音性能の考え方、床衝撃音の対策方法の目安、昭和50年代のマンションの改修について、騒音の大きさよりもむしろ相互不信感に基づいて発生する近隣騒音問題、文化としての吸音性能、などさまざまな観点からの遮音のテクニックをご紹介いたしました。また、文化としての吸音性能とは、生活習慣や芸能文化と、生活空間の吸音性は密接に結びついて発展してきていることなど、最近の研究や経験からわかったことをもとに述べています。
2008/11/10
『建築家だって散歩する』山下昌彦著を読む
「私は良く散歩をする」という書き出しで始まるこの本は、タイトルは『建築家だって散歩する』ですが、建築家だから散歩が好きといった感じの内容です。
筆者は、UG都市建築の代表の方で、最近の作品では、麻布十番にできた高層集合住宅「アクシア麻布」がとても美しく、本の中でも紹介されています。
筆者は、
と書かれています。今では戦争があるなど危険な場所でもあり、当時すばらしい経験だったと思います。
また山下さんは、5年ほど設計事務所で勤務された後、ドイツに渡りやはり設計事務所で3年ほど働いたそうです。そのときのドイツ人の散歩好きにも影響を受けたようです。その後、世界中の都市を散歩しているとのこと。その中で、
と書かれています。何も目的がなく、ただぶらぶら歩くことは、日本人は後ろめたさを感じるとのこと。改めて考えてみると、以前に犬が我が家にいたときには、家の周りを毎朝犬の赴くままに散歩しました。今は、確かに散歩をすることは少なくなってしまいました。
しかし、浅草や明治神宮、江ノ島の神社など、はたまた金毘羅権現や熊野古道は混んでいます。今年オープンした芝居小屋永楽館のある出石町も江戸情緒の有る町並みのため観光客はたくさん歩いています。四国のお遍路さんもたくさんいるようです。目的をもって歩く人はたくさんいます。しかし無目的の散歩は少ないのではないかと思います。
私の家の近くには旧大山街道があり、そこには旧荏田宿からつづく古い荏田商店街がありますが、最寄りの江田駅やあざみ野駅から遠く、寂しい状態です。旧大山街道は道幅が狭いわりに車がたくさん通り、今は江戸情緒など何もないどころか、歩道もなく、塀と車に挟まれそうになって歩かなければなりません。しかし、街道筋から多少脇に入ると、里山が広がり、そこに剣神社という神社があります。この神社は、江戸時代から神奈川県を代表する神楽を舞う神社として有名でした。しかもその周辺は、美しい山や林や水田、畑が残っています。ただ、人が散歩できるような道がありません。都市と農村の接点のような場所のために、場合によっては、とても魅力のある場所になりそうな可能性を感じます。このあたりが、散歩のできるような場所になれればいいのではないかと、この本を読んで考えております。


都心部では、ドイツのような魅力が街になさ過ぎます。
と書かれています。たしかに現代の日本人には、そのような余裕がなさそうです。
しかし、山下さんに読んでほしい本があります。服部幸雄の「大いなる小屋」です。江戸、明治期には、日本人はヨーロッパ人に勝るとも劣らないほど、劇場通いをしていたようです。生活を楽しむということが日常的にあったようです。特に戦後は少なくなってしまったように思いますが、それでも戦後直ぐに、空襲で焼けた歌舞伎座は立て直されていますし(昭和25年12月建物完成、26年1月興行再開
)、身近なところでは、磯子では廃墟であった場所に昭和21年杉田劇場(木造芝居小屋)ができたようです。昭和21年4月に美空ひばりがデビューした場所です。山下さんがおっしゃるように、街を、散歩することが楽しい場所にしたいと思います。
著者:山下昌彦「建築家だって散歩する」 発行所:株式会社コム・ブレイイン \1200
筆者は、UG都市建築の代表の方で、最近の作品では、麻布十番にできた高層集合住宅「アクシア麻布」がとても美しく、本の中でも紹介されています。
筆者は、
1975年。簡単には海外旅行ができない時代だった。私は大学院修士の学生で、幸運にも東欧・中近東の集落調査に参加する機会を得た。それはすばらしい体験だった。西ドイツで購入したフォルクス・ワーゲンのミニバスに乗って現れる集落を手当たり次第に観察して回ったのだ。建築家・原広司に率いられて東欧諸国からトルコのイスタンブールを通ってイランの砂漠地帯まで、約3ヶ月間の彷徨をした。
と書かれています。今では戦争があるなど危険な場所でもあり、当時すばらしい経験だったと思います。
また山下さんは、5年ほど設計事務所で勤務された後、ドイツに渡りやはり設計事務所で3年ほど働いたそうです。そのときのドイツ人の散歩好きにも影響を受けたようです。その後、世界中の都市を散歩しているとのこと。その中で、
中国人や日本人の伝統ののなかでは、散歩はどうも否定されてきたらしい。目的がない散歩は、遊び人や隠居か特殊な人だけに許されていたのではないか。神詣でや寺詣でなら目的があるのでよいが、ぶらぶら歩きははしたないことで、してはならない行儀であったのではないか。
と書かれています。何も目的がなく、ただぶらぶら歩くことは、日本人は後ろめたさを感じるとのこと。改めて考えてみると、以前に犬が我が家にいたときには、家の周りを毎朝犬の赴くままに散歩しました。今は、確かに散歩をすることは少なくなってしまいました。
しかし、浅草や明治神宮、江ノ島の神社など、はたまた金毘羅権現や熊野古道は混んでいます。今年オープンした芝居小屋永楽館のある出石町も江戸情緒の有る町並みのため観光客はたくさん歩いています。四国のお遍路さんもたくさんいるようです。目的をもって歩く人はたくさんいます。しかし無目的の散歩は少ないのではないかと思います。
私の家の近くには旧大山街道があり、そこには旧荏田宿からつづく古い荏田商店街がありますが、最寄りの江田駅やあざみ野駅から遠く、寂しい状態です。旧大山街道は道幅が狭いわりに車がたくさん通り、今は江戸情緒など何もないどころか、歩道もなく、塀と車に挟まれそうになって歩かなければなりません。しかし、街道筋から多少脇に入ると、里山が広がり、そこに剣神社という神社があります。この神社は、江戸時代から神奈川県を代表する神楽を舞う神社として有名でした。しかもその周辺は、美しい山や林や水田、畑が残っています。ただ、人が散歩できるような道がありません。都市と農村の接点のような場所のために、場合によっては、とても魅力のある場所になりそうな可能性を感じます。このあたりが、散歩のできるような場所になれればいいのではないかと、この本を読んで考えております。


都心部では、ドイツのような魅力が街になさ過ぎます。
日本人は、歩いていける範囲に、すばらしいアーティストが演奏するホールがあるという生活をしたことがない。職場から4時ごろには帰宅して、シャワーを浴びて、簡単な食事をすませ、ドレスアップして、ちょっとそこまで室内楽でも、なんて生活をしたことがないでしょう?ヨーロッパ人たちはなんの苦もなく、そういう都市生活を楽しんでいるわけなのである。ちなみに、ハンブルク市は第二次世界大戦で壊滅的な破壊を受けた。中略、しかし、市民の要望でそれ(住宅)よりも前に整備されたのがオペラハウスだったのである。
と書かれています。たしかに現代の日本人には、そのような余裕がなさそうです。
しかし、山下さんに読んでほしい本があります。服部幸雄の「大いなる小屋」です。江戸、明治期には、日本人はヨーロッパ人に勝るとも劣らないほど、劇場通いをしていたようです。生活を楽しむということが日常的にあったようです。特に戦後は少なくなってしまったように思いますが、それでも戦後直ぐに、空襲で焼けた歌舞伎座は立て直されていますし(昭和25年12月建物完成、26年1月興行再開
)、身近なところでは、磯子では廃墟であった場所に昭和21年杉田劇場(木造芝居小屋)ができたようです。昭和21年4月に美空ひばりがデビューした場所です。山下さんがおっしゃるように、街を、散歩することが楽しい場所にしたいと思います。
著者:山下昌彦「建築家だって散歩する」 発行所:株式会社コム・ブレイイン \1200
川崎市立日本民家園の農村舞台(船越の舞台)で農村歌舞伎をみる
川崎市立民家園は主に古民家を移築して、里山のような雰囲気の中に展示されている施設です。しかも、囲炉裏には薪が実際にくべられていたり、白川郷の民家が御蕎麦屋さんになっていたり、また室内で昔話の朗読があるなど、単に展示されているのではなく、実際使われている雰囲気があり、温かみがあります。
その民家園の中でも、最も奥の山の頂上に農村舞台があります。この農村舞台は、安政4年(江戸時代末期)に三重県志摩半島の船越という漁村の神社の境内に立てられたもので、地元の『若者組』が、その運営に関わっていたようで、明治20年ごろまでこの地元の人々によって演じられていたようです。その後、昭和48年に、この民家園に移築され、昭和51年には、国指定の重要有形民俗文化財に登録されています。普段は、この民家園の中でも端っこで、また急な階段を上っていかなければならないので、ひっそりとしていますが、この歌舞伎公演が、先日11月3日文化の日にあり、そのときは満席の賑わいでした。
公演は、秋川歌舞伎 あきるの座によって行われました。農村舞台での農村歌舞伎はめったに見られないと思い、行ってきましたが、何年か前から毎年文化の日には、ここで公演があるようです。
あきる野座は、あきる野市二宮地区で継承されてきた二宮歌舞伎を継承する目的で行われています。まず子供歌舞伎が平成4年に結成され、平成9年に大人歌舞伎も含め、あきる野座という座名を採用して再スタートしたそうで、平成12年には東京都指定無形民俗文化財の認定を受けているそうです。
演目は『義経千本桜 二段目 伏見稲荷鳥居前の場』で、約1時間の公演でした。ちょっとゆったりとした、素人的なところもありましたが、話が面白く、また身近な感じがして、とても楽しみました。寒い日で、また座りにくい場所でしたが、それも感じさせませんでした。
江戸時代、また明治時代の人々は、このような歌舞伎を身近に楽しんでいたのだろうと昔の人々の思いに馳せていました。義経の都落ちの話ですが、静御前がもっている鼓の皮(狐の親の皮)を慕ってきた狐が、義経の家来に化けて、静御前を追手から助ける話です。子の親を慕う気持ちは、長い間受け継がれてきているものだと思います。

その民家園の中でも、最も奥の山の頂上に農村舞台があります。この農村舞台は、安政4年(江戸時代末期)に三重県志摩半島の船越という漁村の神社の境内に立てられたもので、地元の『若者組』が、その運営に関わっていたようで、明治20年ごろまでこの地元の人々によって演じられていたようです。その後、昭和48年に、この民家園に移築され、昭和51年には、国指定の重要有形民俗文化財に登録されています。普段は、この民家園の中でも端っこで、また急な階段を上っていかなければならないので、ひっそりとしていますが、この歌舞伎公演が、先日11月3日文化の日にあり、そのときは満席の賑わいでした。
公演は、秋川歌舞伎 あきるの座によって行われました。農村舞台での農村歌舞伎はめったに見られないと思い、行ってきましたが、何年か前から毎年文化の日には、ここで公演があるようです。
あきる野座は、あきる野市二宮地区で継承されてきた二宮歌舞伎を継承する目的で行われています。まず子供歌舞伎が平成4年に結成され、平成9年に大人歌舞伎も含め、あきる野座という座名を採用して再スタートしたそうで、平成12年には東京都指定無形民俗文化財の認定を受けているそうです。
演目は『義経千本桜 二段目 伏見稲荷鳥居前の場』で、約1時間の公演でした。ちょっとゆったりとした、素人的なところもありましたが、話が面白く、また身近な感じがして、とても楽しみました。寒い日で、また座りにくい場所でしたが、それも感じさせませんでした。
江戸時代、また明治時代の人々は、このような歌舞伎を身近に楽しんでいたのだろうと昔の人々の思いに馳せていました。義経の都落ちの話ですが、静御前がもっている鼓の皮(狐の親の皮)を慕ってきた狐が、義経の家来に化けて、静御前を追手から助ける話です。子の親を慕う気持ちは、長い間受け継がれてきているものだと思います。
