今年は横浜開港150年であり、タイトルの記事はそれを記念したシリーズ連載の7回目です。
その中で、「ペリーの滞在中、宴席や葬儀で、当時の流 行曲や鎮魂歌、賛美歌が演奏されていた。初めて接した西洋音楽に、平野は『当時の日本人は黒船が運んだメロディやリズムを案外抵抗なく受け入れたのではないか』と考える。西洋音楽は浜風に乗って、その後、日本中に広がった。」とありました。
この文章によれば、西洋音楽は瞬く間に日本中に広がったように読めます。実は私も、10数年前に、ドナルド・キーンの「音楽の出会いとよろこび 続 音盤風刺花伝 中矢 一義 訳1980年第1版発行」 の中の「音楽と国際性」の章を読むまでは、西洋音楽に馴染んだ者としては、そのように音楽には国境は無いと思っていました。
ドナルド・キーンによれば「略、複雑なクラシック音楽 の場合には、国境が厳然と存在していることがわかる。明治日本の西洋音楽史をみると、ヨーロッパの歌曲のいくつかは、しばしば5音音階に移されて、ほとんど抵抗もなしに日本人に吸収されている。たとえば、日本人の多くは《蛍の光》が外国産だとは少しも気付かなかった。また日清戦争には、それまでの日本人が 知らなかったような種類の軍楽が急速に広まった。だが、クラシック音楽には、はるかに大きな抵抗が示されたのである。」「渋民村にいた石川啄木は、中略 メンデルスゾーンの音楽を愛好すると書き、さらに欧羅巴3千年の歴史を罵って、退化の記録のみを激語したリヒヤード・ワクネルの心を忍ばるる。とも記して いる。だが、その啄木の音楽的関心も、上京後は大きく変化する。啄木が出掛けたと思われる音楽的催しといえば、娘義太夫の公演ぐらいのものであった。」「クラシック熱が広がり始めるのは1930年代に入ってからのことである。しかしながら、その後のクラシック音楽の人気は、西洋の他の芸術分野の劣らぬほどの勢いを示した。」とありました。このように明治の時代は、クラシック音楽は邦楽と音律が違うために感覚としてなじむことができず、素直に日本人に受け入れられてはいないようです。
ペリーが浦賀に来航したのが嘉永6年(1853)、横浜開港は1859年7月1日、それからクラシックが広がり 始めた1930年代までは70~80年間ほどかかっています。ドナルド・キーンの文章は、日本人のクラシック音楽への愛情を皮肉に見ながら、最後に「国際 性という枠組みの中で、はっきりと日本的特色をもった音楽を作り出すという、明治の音楽教育者たちのいだいた夢が実現する日も、おそらくそう遠くないかも しれない。」
と結んでいます。
1月12日(月)の朝日新聞のGLOBEという欄に、「大野和士 指揮者 日本人であること。彼はそこからタクトを振りはじめた」という見出しの記事がありました。
そこには「音楽に国境はある。~中略~ 紛争下のクロアチアで8年間、ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者と音楽監督を務めた。ある時、楽団が 奏でるチャイコフスキーから、スラブ民族の情念がふつふつとうねり出すのを感じた。~中略~「異邦人」のコンプレックスに苦しんでいた自分が、突如、クラ シックという大河へと解き放たれたように思えた。」と書かれていました。このようにクラシック音楽に対して、自分が「異邦人」と感じる音楽家は多いようです。しかし今や、邦楽に「異邦人」を感じる人はもっと多いかもしれません。しかしこういう現象もあります。クラシックコンサートに行くと、中年の観客が多く見受けられますが、歌舞伎や三味線・尺八の音楽会には若い人がかなり見られます。
ペリーのおかげで、私にとってはクラシック音楽は大変身近な存在です。現在では、そのクラシック音楽の音律から、JAZZやポップス、ロックや歌謡曲が生まれ、日本人にもあたりまえの存在になっています。しかし、日本にはもともと邦楽が存在し、また世界中に様々な民俗音楽があり、それらは言語と同じように、それぞれの音律から構成されていることもわかっています。それらの起源は古く、生活空間や文化や民族によって違い、さらに影響し合って現在に至っています。音楽から世界を感じ、また楽しんで見たいと思っています。