建築音響上の出来事は、音律まで含めると、1600年代は純正律など和音を美しく響かすことのできる多くの音律が出来、ハーモニーが出来てきた。多分それによって1700年代以降、建築音響の交流の歴史その3で示したように、クラシック音楽やオペラもはじまった。またシェークスピアやセルバンテスに続き、世界各地の各地域で芝居小屋が点在してきており、充実して発展してきている。
2024.214の朝日新聞朝刊の天声人語に17世紀の時代について書いてある。 『有田焼をはじめとする上質な日本の肥前磁器が云々、17世紀半ばには、長崎の出島から西回りでの輸出が始つたという。野上さんは東回りの太平洋ルートもあったのではないかと考えた。当時、フィリピンとメキシコをガレオン船がむすんでいたからだ。』 その証拠を20年ほど前にマニラの遺跡で有田焼の皿を初めて発見したとのこと。したがってヨーロッパから来るルートは17世紀後半には西回りも東回りもあることになる。この天声人語にはヴァレンタインデーに合わせてチョコレートカップについて書いてあるが、おそらく楽器もさらに演奏者も来たに違いがない。それが芝居小屋や歌舞伎や人形浄瑠璃などにどう影響があったかは分からないが、何かあるに違いがない。このことはあとで述べる。
まず江戸時代の芝居小屋はどの程度あるか調べた。ただ残念なことに江戸時代、17世紀、18世紀の芝居小屋に関する本・著作見つらず、YAB芝居小屋mapから調べた。次にイギリス、フランス、イタリア、ドイツ、スペインとしらべた。
江戸時代の芝居小屋
1615京都南座四条河原町で開場、7つの櫓を構えた芝居小屋ができた。江戸では、元禄時代(1688~1704年頃)、猿若座、市村座、森田座(のち守田座と改める)、山村座が櫓を構えた。
人形芝居・竹田近江一座 寛分年間(1660年頃)に竹田近江掾が大阪の道頓堀に人形芝居の櫓を上げ、竹田近江一座を開き、さらに竹本義太夫が貞享元年(1684)竹本座を創設し、近松門左衛門と組んだ。 以下は弊社芝居小屋MAPから江戸時代の分を抜き書きした。
長栄座 江戸時代、白市には広島藩内で3か所しか置かれなかった芝居小屋の一つ
大黒座 福山市1892年、芝居や演芸ができる劇場が開館
一心館 江戸時代 三次宿と吉舎宿の中間の宿場町に開館
鳳凰座(文政10年(1827年)明治16年(1883年)客席部分大改修)、
旧金毘羅大芝居金丸座(天保6年(1835年))
川上芝居 金沢市菊川町 文政2年(1819) 1700名収容
末広座 金沢市 元治元年(1864)ごろ
戎座 金沢市卯辰山開拓時には建っていた。
1791年 会津若松市七日町 歌舞伎人形座 人形浄瑠璃を中心に公演
千葉座 江戸時代末期に石巻市に建てられたが、その後、明治24年に「岡田座」となった。
京都周辺で、7座、江戸で4座が櫓を構えたようだが、その他の地方でも全国的に多くの芝居小屋があったと想像された。また人形浄瑠璃の芝居小屋もあったことが分かった。
その他、芝居小屋には、1716年花道が常設されるようになる。1758年には大阪の角座で回り舞台が開発され、1724年には火災の観点から一度瓦葺きの本建築が実施された。また江戸時代の芝居小屋は舞台だけ屋根がある農村舞台のような場合とシェークスピア劇場のように舞台と桟敷席だけ屋根があり、平土間席には屋根がない場合と、この平土間席にも屋根がある場合と様々な形がありそうである。
2012.02に発刊された日本建築学会の技術報告集に1 5座の芝居小屋と演奏会を行っているつくば古民家、歌舞伎座、杉田劇場のデータを比較し、2012.2発刊に以下のように報告した。
『木造芝居小屋の音響特性 藪下満、寺尾道仁、関根秀久、日本建築学会技術報告集第18巻第38号』 報告書のまとめでは、芝居小屋の音響特性は、響きのなさ、音声明瞭性および音の方向感があるとした。
また私の建築学会の論文を見たベルリン工科大学の研究者のClemensさんは、その後いくつかの芝居小屋を図面上で調査して、音響シミュレーションの結果を論文にまとめた。大会名『SEPTEMBER
2014 KRAKOW FORUM ACUSTICUM』、タイトル『Acoustical characteristics of preserved wooden style Kabuki theaters
in Japan 』 執筆者はClemens
Büttner, Stefan Weinzierl (Audio Communication Group, TU Berlin, Germany)、Mitsuru Yabushita( YAB Corporation)、Yosuke Yasuda (Faculty of Engineering,
Kanagawa University)
内容は、以前我々が音響調査をした金丸座、八千代座、村国座、嘉穂劇場、鳳凰座を選び、図面からCAD図を起こし、空席の場合の音響シミュレーションを行い、実測値と比較し、満席の状態を予測して音響シミュレーションを行い、その結果、ヨーロッパの考え方から言えば、芝居小屋の音響特性は音楽より話声に好ましく、さらに親近感や親密感が音の特徴と言えると結論付けている。
とうとう芝居小屋の音響の研究がヨーロッパに伝搬したことになった。さらにClemensさんはベルリン工科大学の音響研究の責任者のWeinzierlさんとともに来日して、東京大学の森下有先生と弊社にいたAntonioさんと私で新たな芝居小屋の音響の実態調査をおこなった。以下は調査メンバーです。
左から:Clemens・Buttner氏、藪下満、森下 有氏、Antonio・Sanchez・Parejo氏、明治座の館長 加藤周策 氏、Stefan・Weinzierl 氏 2017年9月25日ごろ かしも明治座前で撮影
発表論文は『ACTA ACUSTICA
UNITED WITH ACUSTICA Vol. 105 (2019) 1105 – 1113』
タイトルは『The Acoustics of Kabuki Theaters』です。芝居小屋の対象として以下の表の8つの芝居小屋について、伝統的な日本の公共劇場の形は器楽を伴った話声や歌が混ざった特徴があり、ヨーロッパのプロセニアム形式の舞台タイプの劇場と比較すると、歌舞伎劇場は相対的に1席当たりの容積も1~4m3と小さいために、歌舞伎劇場は比較的残響が短い。歌舞伎は器楽演奏を伴った歌や演技(パントマイム)ダンスを演じるにもかかわらず、音響条件は一貫して最適な音声明瞭性をデザインしているとしている。
表1 開館年、容積(幾何学的モデルから算出)、収容人員(文献から)、一人当たりの容積
Clemensさんの論文の最後は『西洋の音楽コンサートの室内音響の、残響時間が約2秒の標準は、日本人の観客にとって非常に珍しく、20世紀の後半に大変後れを取って確立することができた。』とまとめている。これで、Clemensさんの次のドクター論文『Symphony Concert Life and Concert Venues
in Tokyo1868-1945』につながることになる。ただクラシック音楽に対しては、日本は対応が遅れたが、歌舞伎や人形浄瑠璃のための芝居小屋に対しては、声や三味線や太鼓のためにちょうど良い残響空間となっている。結局ヨーロッパのハーモニーを追求する状況は、おそらく残響の長い教会での賛美歌がハーモニーを重視するように変化していって、クラシック音楽にも影響を与えたための結果だと思われる。Clemensさんが言うように、大きさや残響時間の条件ではBristolのロイヤル劇場(ミュージカルやオペラなど)やロンドンのWyndham劇場(ミュージカルなど)のような同時代のイギリスの劇場が最も比較できるようだ。芝居小屋は劇場やミュージカル劇場やオペラハウスと比較した方が好ましい。
イギリスの17世紀18世紀の劇場
シェークスピア劇場やスペインのアルマグロ(Almagro)の劇場(1628)ののちの主にヨーロッパの劇場はどうなっているかあまり知られていない。先ほど述べたClemensさんの論文に出てきたシアターロイヤル(1766 ブリストル)やロンドンのWyndham劇場(1899)のほか、ロンドンのウエスト・エンド地区にはWikipedia によると様々な劇場があったことになる。
イギリスのウェスト・エンド・シアターをWikipediaで調べて参考・引用した。『1576年、シアター座 その後カーテン座 いずれもシェークスピア劇団が使用した。また1599年、シアター座は解体されグローブ座が建築された。シアターロイヤルとして1663年に開館するが、焼失後、新たにドルリー・レーン王立劇場が開館、イズリントンにサドラーズウェルズ劇場が1683年に開館。演劇上演を行う許可が得られず、オペラの公演を行う「ミュージック・ハウス」として運営された。1720年ヘイマーケット・シアターが開館する。1732年コヴェント・ガーデンにロイヤル・オペラ・ハウス開館。この二つの劇場は、演劇上演を独占的に行う権限を19世紀まで保持した。ただし19世紀初頭までに、ミュージックホールのショーが人気となり、出演者たちは非勅許劇場にとってメロドラマのジャンルが規制の抜け穴になることに気付いた。たくさんの小規模な劇場やホールが開館するにつれ、ウェスト・エンドの劇場地区はその名を高めていった。1806年アデルフィ・シアターが、1818年オールド・ヴィック・シアターが開館する。さらに1870年ヴォードヴィル・シアターが開館し、1874年クライテリオン・シアターが開館、1881年には、さらにサヴォイ・シアターで、コミック・オペラを上演(より涼しく清潔な電気のライトが採用された初の劇場である)。その5日後パントン・ストリートにコメディ・シアター(現ハロルド・ピンター・シアター)がロイヤル・コメディ・シアターとして開館する。この劇場建設ブームは第一次世界大戦まで続く。』
<イタリア式>劇場の誕生試論 著 望月一史より一部の表を引用した。
『表1では1597/98パラツィオ・コルシで、ベーリ曲、リヌッチーニ台本のダフネが上演された。これがオペラ上演の最初の記録である。1637年上演年のサン・カッシアーノ劇場で、マネッリ曲、フェッラーリ台本のアンドロメダで、この劇場は記録された最も古い劇場である。現存する最も古いオペラハウスは付表の4ページ目の1737年のナポリのサン・カルロ劇場で、馬蹄形、1300名収容のものである。筆者は『半円形の客席を有する古典的な劇場の形態から、[表3]に見られるような長方形、U字型、楕円形、馬蹄形、釣鐘型とさまざまな形式を歩んできたが、視覚(どこからもよく見えること)と音響(どこからもよく聞こえること、エコーの問題がないことなど)をどのように解決するか、音響学がいまだ存在しない時代に、前例と経験を頼りに時代の要請を踏まえて到達したのが、基本的に馬蹄形の平土間席にそれを囲む壁沿いのボックス席という形態であった。』 建築音響の交流の歴史その2ではテアトロ・ファルネーゼのことを書いていて、1618年開設で観客席はU字型をしていて4500名収容と書いてある。この論文では3000名収容と書かれているが、主に出し物で変化するような気がする。U字形の平土間を演技に使えば、収容人員は減ってくる。1608年のテアトロ・ドッカーレは6000名と書かれている。今の常識で言えば、電気音響による拡声が必要な収容人員であるが、とにかく音楽や芸能は人を集めること、人が集まることが前提または目的のような気がする。付表では劇場の数は16世紀13、17世紀には45、18世紀38、19世紀は25と計121を計上している。この付表は素晴らしい。各地域でこの表があるともっと素晴らしい。
フランスの劇場
奥 香織 著『17-18世紀フランスにおける演劇と政治―新・旧イタリア人劇団の上演環境をめぐって―』の論文を引用しながら、フランスの演劇の状況について調べてみる。以下はこの論文のホームページである。chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/http://www.engekieizo.com/dramaturg/wp-content/uploads/2014/03/17-18%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%BC%94%E5%8A%87%E3%81%A8%E6%94%BF%E6%B2%BB.pdf
この論文から引用すると、『17世紀から18世紀のフランスでは、演劇は権力の問題と密接に結びついている。特に絶対王政の時代、演劇はカトリックの考え方とはそぐわないものでありながら王の権力を示す手段として利用され、「演劇政策」が行われた。』『17・18世紀のパリにおいて「公式」に認められた劇場/劇団は、フランス人劇団とイタリア人劇団、そしてオペラ座であった。』『このように権力に左右される中で、イタリア人劇団は、母国語での上演からも、コメディア・デッラルテの伝統からも次第に遠ざかっていく。』『1645年にマザラン枢機卿によって別の一座がパリを訪れ、プチ・ブルボンで上演を行っている。この一座に関しては、その存在を裏付けるものとして「偽の気違いじみたご夫人(LaFolleSupposee/LaFintaPazza)」が上演された記録が残っており、当時の舞台が朗誦と歌唱部分から成り立っていたことがわかる。イタリア人劇団は、1660年にはパリに定住し、モリエールの一座と交代で、パレ・ロワイヤルの劇場で上演するようになる。さらにコメディ=フランセーズが創設されるとフランス人俳優はゲネゴー座で、イタリア人俳優はオテル・ブルゴーニュ座で上演をはじめる。』『特に、中略、王妃がイタリアの名門メディチ家の出身であり、宮廷で母国語を話すことを好んだことが大きな原因である。中略、イタリア人俳優たちは伝統的な台本(カヌヴァ)を用い、イタリア語で上演することが可能であった。コンメディア・デッラルテの伝統的な舞台は、即興性、身体性、喜劇性によって特徴づけられているが、そこでは猥雑な場面も観客を笑わせる要素の一つであった。』とある。しかし17世紀後半になるとルイ14世は全ての場においてフランス語を話すことを強制する。フランス人の劇団より格下と見なされたイタリア人劇団にとって、舞台装置の改良は、フランス人劇団やオペラ座に対抗するためには必要不可欠のものであった。18世紀にはイタリア人の俳優たちはフランス人俳優にない演技の魅力によって、オペラ=コミック座との合併に至るまで、イタリア人俳優たちはパリの観客を魅了し続けた。
『【マニアックすぎる】パリオペラ座ヒストリー<第9回>ナポレオンとオペラ座~余の辞書にも「オペラ座」の文字はある 2022.02.05 永井玉藻』のHPより引用すると、この永井氏の文章によってもオペラは時に権力と直接結びついていることがわかる。ただこの権力が自由にさせていた時には劇場は雨後の筍のようにたくさんできていたようだ。
『1806年と1807年に発布された、パリ市内の劇場における上演ジャンルを規制する法律が出来た。』 『フランス革命後のパリでは、革命政府の方針によって劇場の開設が自由化されたため、まるで雨後の筍のごとく、新しい劇場が次々に生まれました。』 そこでナポレオンは『パリ市内の劇場の数を8つだけに絞り、それぞれの劇場を確実に監督できるようにした上で、各劇場が上演できるジャンルを細かく定め、劇場どうしの違いを明確にしました。』 これによって『オペラとバレエをパリ市内で上演できるのはパリ・オペラ座だけになります。』
ドイツの17世紀18世紀の劇場
『大塩量平著「社会経済史学」84-3(2018年11月) 論説 18世紀後半ドイツ語圏における舞台芸術家の「雇用市場」の生成―ウィーン宮廷劇場の俳優の社会的地位と雇用条件の事例分析からー』からはじめにを引用する。『18世紀ウィーンの劇場の分析は作品や上演がいわば「商品化」され、作品供給者(=作曲家や劇場)と需要者(=作品購入者や聴衆)との間の経済的関係が「パトロネージ指向から市場指向へ」と徐々に変化したことを実証的に論じながら、近代の舞台芸術の浸透を経済学的に考察した。』とある。ヨハン・セバスティアン・バッハもドイツ、モーツアルトもオーストリア、ベートーベンもドイツのボンであるが、いずれも18世紀でドイツ語圏である。
ドイツ演劇 大百科事典(ジャポニカ)より、参考:15~16世紀、キリスト教伝来から存在していた春祭りが謝肉祭と結びついて、茶番狂信的な「謝肉祭劇」が生まれた。『17世紀のバロック時代は、一方では感性的な要素に富む演劇を発展させた。文学的には過剰な修辞が好まれ、オペラの導入によって覗き見舞台を持つ遠近法を利用した舞台装置が発達した。この「バロック演劇」の舞台はいかに狭くとも全世界を表しうるという世界劇場の理念は、大規模な祝祭行列の催しとも関係している。』 18世紀、これを参考にすると、18世紀の啓蒙時代に入ると、レッシングは新しく台頭した市民劇の立場から古典演劇理論を批判して、同時代の市民を主人公とする「市民悲劇」を擁護して、様々な傑作を書いた。1770年代若い世代から啓蒙時代の理性中心主義に反発して感情の優位を説き、天才シェークスピアを賞賛して、規則ずくめのフランス古典劇を攻撃した。19世紀は、ゲーテ、シラ―の後を受けた技古典的な亜流作家の時代であり、劇場の隆盛と反比例して戯曲には見るべきものがない。1876年ワーグナーがバイロイトで開始した祝祭劇は、楽劇という総合芸術論の実現であり、大きな意義を持った。
スペインの17世紀18世紀の演劇など
以下はスペイン黄金世紀演劇Wikipedia より引用・参考、『スペイン黄金世紀演劇とは、1590年から1681年頃までのスペインの演劇を指す。1469年にアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ王イサベル1世の結婚により統合され、1492年のグラナダ包囲でグラナダ王国をキリスト教国の領域内へと奪還し、スペインはヨーロッパの強国として頭角を現すようになった。』『スペイン黄金世紀に作られた芝居の多様さを反映し、初期のスペイン国民演劇は様々なものから影響を受けている。ストーリーテリングはイタリアのコンメディア・デッラルテに起源を有する。また、西ヨーロッパで各地を旅してエンタテイメントを提供していたミンストレルからスペイン特有の表現方法が生まれ、初期スペイン演劇の語りと音楽それぞれに一般受けする要素を加えたと言える。』『ルネサンス期スペインの芝居は極めて多様であることで有名で、ヨーロッパでは唯一、世俗的な演劇と宗教的な演劇が同時に発展した。さらに、国がスポンサーをつとめる演劇が大衆向けの商業演劇と共存しており、多くの演劇人は両者に有意な貢献をしていた』『商業的な上演を行う公衆劇場は1570年代頃からスペインの主要都市に建設されるようになった。1579年、マドリード初の常設劇場としてコラール・デ・ラ・クルス※が建てられた。プリンシペ劇場は1583年にこけら落としした。1584年中頃には、マドリードには他にも劇場があった。しかしながら他の劇場が衰退したため、17世紀のマドリードではクルス劇場とプリンシペ劇場のふたつが主な常設劇場となった。』 ※コラール・デ・ラ・クルスはアルマグロにある。スペインの17世紀の演劇についてはこの文章ではセルバンテスのドン・キホーテなども話題になるべきで、まだ研究があまり進んでいないようだ。
以下は多分朝日新聞の昭和52年(1977)11月8日(火曜日)の47年前の切り抜きの記事で、「民謡のルーツはスペイン」と武智鉄二氏が小泉文夫著 「音楽の根源にあるもの」を紹介し書いている。
『たとえば日本民謡の「あんたがったどこさ」が、スペインのマドリードの石けり唄の童謡と同一であることを、氏(小泉文夫)の指摘によって知り、』 『「あんたがったどこさ」で代表される近世歌謡が、実はスペインからの直輸入だったと考えると、すべての疑問が解けてくる。近世音楽は、三味線と切り離しては考えられないが、三味線の渡来は永禄年間(1558~69)とされている。しかしスペイン人の渡来は、ザヴィエルの布教にはじまる。ザヴィエルがはじめて鹿児島湾に投錨したのは、永禄に先立つ天文年間(1549年8月15日)のことである。』『ザヴィエルは領主たちへの贈り物として様々な楽器やクラヴィコード(ピアノの先祖的楽器)まで持参している。その上、ポルトガルのイエズス教会系のグレゴリアン聖歌も用いられていたらしく、日本民謡の一部にも、その影響をとどめているように思える。』 『ポルトガル船の水夫たちはすべてスペイン人で、この下層階級たちと、薩摩の浜辺の漁夫たちや商人たちとの交流の中で、スペイン音楽は大きな影響を残したはずである。日本の民衆は聞いたこともない珍奇なメロディーに、はじめは反発しつつ、次第に耳を傾けやがて自分たちのものにしようと思うようになったに違いない。薩摩の民謡の「ハンヤ節」「オハラ節」は、みなスペインのフラメンコ音楽の形式を継承している。』 『小泉氏の所論で特徴的なのは、日本の民謡や三味線音楽をテトラコルド(四音音階)としてとらえることで、同時にその特徴はスペイン歌謡につながっていく。たとえば私は、地唄「残月」の冒頭のメロディーがデ・ファリアが採集したスペイン歌謡の「エル・ピニョ(松)」にきわめて類似していることに、深い興味を持つ。スペインの水夫は、鹿児島の浜辺の松にもたれ、望郷の歌を唄い、松の木を指して涙しつつ日本の漁夫に語りかけたことであろう。「磯辺の松に葉がくれて」という「残月」の歌詞に、スペインの「松の木の唄」のメロディーが用いられていることは、大変興味深い。これも私の想像であるが、そのとき、スペインの水夫が用いた楽器は、三絃ギターだったのではないか。当時三絃ギターはスペインで大流行していたし、演奏法も簡単で、水夫が持ち歩くのに手ごろだったように思う。琉球の三線(さんしん=蛇皮線)は、音階も典型的な五音音階だし、それに第一、糸の張り方の順序が、三味線とまったく逆である。三線が三味線に転化する可能性は非常に少ない。おそらく薩摩の農民たちは三線の楽器を利用して、糸を逆に張り、三絃ギターの代用として、テトラコルドの音楽を奏したものであろう。』 これは少し古い記事であるが、この文章の初めに書いた2024.2.14の朝日新聞朝刊の天声人語には、17世紀の時代は日本から太平洋を回り、メキシコ島を超えて、大西洋に渡る航路もできていたようなので、武智氏の日本の歌謡がもともとはスペインから到来したとの考え方も実際にあった可能性がある。 武智鉄二の文章は本論の建築音響の交流の歴史の流れの中に存在していて素晴らしい文章となっているが、果たして裏付けがあるか知りたくなった。ただし小泉文夫著 『音楽の根源にあるもの」には日本の童謡とスペインの歌謡と同一といった話は出てこない。日本の音階はよく5音階(ヨナ抜き音階)と言われている。1オクターブの中にドレミソラドの音階である。テトラコルド音階とはどういうものか小泉文夫の書いた本の中から調べる必要がある。また武智鉄二が書いた「三絃ギター」というものも気になって、できればスペインでは何と言っていたのか書かれていればよかったと思う。※近隣の東京芸大を出た大田さんの話では、まず小泉理論のテトラコルドとは、上村幸生氏の早わかり小泉理論によると「音階と言えばオクターブのサイズで出来ているものと考えますが、小泉理論ではオクターブより狭い完全4度を、基本的な単位と認めます。そしてこの完全4度を構成する二つの音を重要な音と見なします」https://www.geidai.ac.jp/labs/koizumi/results/lecture1_uemura.pdf)ということで、本文の「日本の音階は5音階」と言われている意味とは異なっている。たださらに大田さんは武智鉄二の本文の「あんたがったどこさ」に対しては五度枠に近い特徴があり、これは九州地方の唄(東北もらしい)は中国や韓国の影響らしいと。したがってこの話は武智鉄二の話とは異なってくる。
また以下の文章が見つかった。小泉文夫著 「音楽の根源にあるもの」のp.116には「日本の民族性についての比較音楽学的認識』で、『講式のような語りものの萌芽から、さらに平家琵琶などに発展して、中世から単なる文芸的意味よりも、演劇的型式への発展が見られて能楽が生まれ、さらに近世から浄瑠璃や歌舞伎といった傾向に進んでくる。この傾向はますます総合芸術的な色彩をそえ、歌舞伎における舞踊劇の出現にいたって、その極に達する。こうした変容の過程を見ると、ヨーロッパのオペラの発達と、ある面で共通しているように見えながら、実はヨーロッパの場合は、中世ポリオフォニーから器楽が生まれ、教会ソナタなどを経て近代の器楽形式の頂点であるソナタ形式の完成という、むしろ劇音楽と反対方向の絶対音楽の発達と平行して、こうした劇音楽があったことを思えば、やはり日本の場合には、声楽を主とし、その文芸的意味を重要視する傾向は、ヨーロッパと日本の大きな違いとみてよいだろう。』この中では小泉文夫は歌われている空間に言及していない。ヨーロッパのゴシック教会などは残響がものすごくあり、これは刺激になるはずである。これが、ハーモニーが発達してきた理由と思われる。日本のお寺には、このような残響はあまりない。そこでお経や声明などは発達してきて、あくまで声の明瞭性は存在し、話の内容はわかり、ここでいう文芸的意味が重視されていることがわかる。