イスラエルが2025年5月20日頃、ガザを制覇しようと戦争を開始している。国連のパレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は食糧援助を禁止した状態にされ、アメリカの民間団体が食料を援助するようにしたが、戦略的に、供給をほぼガザ地区の南方に偏らせて、餓死寸前のパレスチナの住民を南に移動させる手段にしているようだ。このことは戦争犯罪だと思う。どうすべきかわからないが、何万羽の鳩をガザ地区に飛んで行って貰い、ピース・ピースと戦争を止めることはできないかと思う。パブロ・カザルスの悲し気な曲「鳥の歌」を思い出す。以下のブログにカザルスのことを書いている。斎藤静&三又瑛子デュオ・リサイタルhttp://yab-onkyo.blogspot.com/2022/12/blog-post_25.html
年を取ってきたため、しだいに耳が遠くなってきて、我が家の近くにいる四十雀(しじゅうから)の声が聴きにくくなってきた。それで改めて補聴器を使うようになったことで、再度四十雀の声がよく聞こえるようになった。四十雀に興味を持ったので、「僕には鳥の言葉がわかる」(鈴木俊貴著)を最近読んでみた。この本ではシジュウカラの声を直感的に理解し、おなかがすいたとかを理解するのではなく、実際の森の場で実験により分析している。本の最初から、コガラがヒマワリの種を見つけて、「ディーディーディー」の2~3分鳴いて、コガラが2羽とシジュウカラが1羽飛んでくると、コガラは鳴くのをやめて、ヒマワリを食べ始めた。いくつかの実験によって、シジュウカラの「ジジジジ」、コガラの「ディーディー」、ヤマガラの「ニーニー」は同種だけでなく、他種の鳥名で寄ってくることに気が付いた。「やっぱり、仲間を呼ぶ声なんだ。」p.34「当時、シジュウウカラの「ヂヂヂヂ」を“警戒の声”として紹介している図鑑もあったが、その意味を科学的に確かめた研究は1つもなかった。その後これらの研究をして、国際的な学会に発表するようになり、p214 「人間も動物の1つであり、人間の言語も動物の言語の1つにすぎないのだが、まだこれに気が付いていない人が本当にたくさんいるんである。」一つのテーマを数年がかりで研究をして、その結果を国際的な論文にして発表し、注目を浴びるようになったとのこと。非常に興味深い話だ。ただ残念なことにシジュウカラは音楽を奏でるという話はこの本の中にはなかった。あるのかないのか、今後の研究を待つ必要がある。鳴くことに楽しさを感じるなどのことであるが、その検証も相当難しいように思う。人間にとって音楽は35000年も前に笛を持っていたようなので必要なものだと感じているが、シジュウカラにとってもそうあるのではないかと思う。
椋鳥(ムクドリ)の合唱、木の中でたくさんのムクドリがギャーギャーギャーとノイズのように定常音で鳴いているが、それは集団で防御的に鳴いているのか、単に歌っているのか気になるところである。これがわかれば対話が出来そうだ。早淵川では、春にはムクドリが数匹草藪の中にくちばしを突っついて何かを食べていることがよくあるが、この時には食事に夢中で鳴く所ではない。モーツアルトがムクドリから音楽のヒントを得たという話があるので、このムクドリをアメリカの作家が家で飼って、いろいろ調査をしたようだ。ムクドリは野鳥なので、本来は飼えないが、友人が公園で生まれたばかりのひなのいる巣を撤去する必要があり、その雛を一羽くれたので、飼うことが出来たようだ。ただし日本ではこのように野鳥を飼うことは禁止されている。
以下はその本のことである。ラインダ・リン・ハウプト著 宇丹貴代美訳 「モーツアルトのムクドリ」には、p.34モーツアルトは小鳥店で足を止め、「口笛の旋律に息をのんだ。明るく甘い調べで、美しくも聞き覚えのある断片だ。」「そこへ、ムクドリがまた繰り返した。マエストロから顔をむけて、くちばしを天に向けると、膨らませた喉の羽毛を震わせながら、モーツアルトの新しい協奏曲、1か月前に完成したばかりでまだ公の場で一度も演奏されていない曲の、アレグレットの主題をうたった。」「ムクドリはリズムに小さな変更を(最初の方の劇的なフェルマータ)を加え、ト音ふたつを半音上げて嬰ト音にしていた。」「ムクドリ科の鳥として、世界でも屈指の物まね上手な種に属し、鳥や楽器のほか、人間の声も含む様々な音を上手に真似る能力はオウムに引けをとらない。」
p.224「音楽も鳥の歌も、私たちの鼓膜を軽やかに通り抜け、能とつながって、気持ちを晴れやかにし、恍惚とさせてくれる。鳥の歌は、ほかの環境音以上に、音の高さ、リズム、軽快な抑揚、繰り返しなど、音楽的なことばで語っている。とはいえ、はたして鳥の歌を音楽と呼んでもいいのだろうか。比喩として、議論するまでもない。スズメ目の鳥が繁殖期に発する声に”歌“という単語を選んだのはほかならぬ人間だし、ごく専門的な鳥類学の教科書にさえ、この単語は使われている。だが、比喩の範疇を越えて、鳥の声は人間がつくったものと同じ意味で音楽だと提唱しようものなら、大半の人が存在すら知らない学問的論争に巻き込まれることになる。」
この著者が言いたいことは、モーツアルトの協奏曲第17番は、飼っていたムクドリから影響を受けて作曲したとのうわさがあったが、この協奏曲が出来た時よりずっと後にムクドリを購入したことが判明、また鳥の声を歌とよんでいるのは、様々な議論はあるが、結局人間の感覚によるのではないかという発想である。結局、鳥の歌の理論やピタゴラス音律の話まであるのに結論は肯定的ではない。前記した鈴木俊貴重の書いた本のように、シジュウカラの立場で声の意味を分析したように、ムクドリの立場で分析をしたらどうなるのか。自然の中で、様々な角度から分析しないと鳥の言語や歌を理解することは難しい。
歌を忘れたカナリア(西城八十、1918)も医学の研究者(※島根大学医学部大田総合医育成センターホームページ)は、カナリヤも発情期には、立派な声で歌うように、私に注目してほしい?と言って鳴くが、それ以外の時期では能がしぼんで、立派な声では鳴かなくなるようだ。これは医学的な立場でカナリアの歌を分析した結果のようだ。
数年前に、東大生産技術研究所の森下有先生が、森の中での音楽の体に対する効果を、医学・心理学・森の生態学・音響、これは私が参加したが、これらの立場の人たちが共同で分析したようなことがあった。いい結果になるといいと思っている。
最初に述べたパブロ・カザルスの「鳥の歌」も、「カナリヤの歌」も人間が考えた鳥の歌なのだと思う。しかしこれもシジュウカラを野生のまま、その声の意味を分析したように、鳥たちの言葉を人間が理解できるようになった場合には、鳥たちが、本当に楽しげに歌を唄っているのか、悲し気にうたっているのか、または単なるはな唄なのか、それはそれで興味深いことがありそうな気がする。