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2025/05/31

建築音響の交流の歴史 その15 鳥と音楽,さらに言葉

イスラエルが2025520日頃、ガザを制覇しようと戦争を開始している。国連のパレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は食糧援助を禁止した状態にされ、アメリカの民間団体が食料を援助するようにしたが、戦略的に、供給をほぼガザ地区の南方に偏らせて、餓死寸前のパレスチナの住民を南に移動させる手段にしているようだ。このことは戦争犯罪だと思う。どうすべきかわからないが、何万羽の鳩をガザ地区に飛んで行って貰い、ピース・ピースと戦争を止めることはできないかと思う。パブロ・カザルスの悲し気な曲「鳥の歌」を思い出す。以下のブログにカザルスのことを書いている。斎藤静&三又瑛子デュオ・リサイタルhttp://yab-onkyo.blogspot.com/2022/12/blog-post_25.html

年を取ってきたため、しだいに耳が遠くなってきて、我が家の近くにいる四十雀(しじゅうから)の声が聴きにくくなってきた。それで改めて補聴器を使うようになったことで、再度四十雀の声がよく聞こえるようになった。四十雀に興味を持ったので、「僕には鳥の言葉がわかる」(鈴木俊貴著)を最近読んでみた。この本ではシジュウカラの声を直感的に理解し、おなかがすいたとかを理解するのではなく、実際の森の場で実験により分析している。本の最初から、コガラがヒマワリの種を見つけて、「ディーディーディー」の23分鳴いて、コガラが2羽とシジュウカラが1羽飛んでくると、コガラは鳴くのをやめて、ヒマワリを食べ始めた。いくつかの実験によって、シジュウカラの「ジジジジ」、コガラの「ディーディー」、ヤマガラの「ニーニー」は同種だけでなく、他種の鳥名で寄ってくることに気が付いた。「やっぱり、仲間を呼ぶ声なんだ。」p.34「当時、シジュウウカラの「ヂヂヂヂ」を“警戒の声”として紹介している図鑑もあったが、その意味を科学的に確かめた研究は1つもなかった。その後これらの研究をして、国際的な学会に発表するようになり、p214 「人間も動物の1つであり、人間の言語も動物の言語の1つにすぎないのだが、まだこれに気が付いていない人が本当にたくさんいるんである。」一つのテーマを数年がかりで研究をして、その結果を国際的な論文にして発表し、注目を浴びるようになったとのこと。非常に興味深い話だ。ただ残念なことにシジュウカラは音楽を奏でるという話はこの本の中にはなかった。あるのかないのか、今後の研究を待つ必要がある。鳴くことに楽しさを感じるなどのことであるが、その検証も相当難しいように思う。人間にとって音楽は35000年も前に笛を持っていたようなので必要なものだと感じているが、シジュウカラにとってもそうあるのではないかと思う。

椋鳥(ムクドリ)の合唱、木の中でたくさんのムクドリがギャーギャーギャーとノイズのように定常音で鳴いているが、それは集団で防御的に鳴いているのか、単に歌っているのか気になるところである。これがわかれば対話が出来そうだ。早淵川では、春にはムクドリが数匹草藪の中にくちばしを突っついて何かを食べていることがよくあるが、この時には食事に夢中で鳴く所ではない。モーツアルトがムクドリから音楽のヒントを得たという話があるので、このムクドリをアメリカの作家が家で飼って、いろいろ調査をしたようだ。ムクドリは野鳥なので、本来は飼えないが、友人が公園で生まれたばかりのひなのいる巣を撤去する必要があり、その雛を一羽くれたので、飼うことが出来たようだ。ただし日本ではこのように野鳥を飼うことは禁止されている。

以下はその本のことである。ラインダ・リン・ハウプト著 宇丹貴代美訳 「モーツアルトのムクドリ」には、p.34モーツアルトは小鳥店で足を止め、「口笛の旋律に息をのんだ。明るく甘い調べで、美しくも聞き覚えのある断片だ。」「そこへ、ムクドリがまた繰り返した。マエストロから顔をむけて、くちばしを天に向けると、膨らませた喉の羽毛を震わせながら、モーツアルトの新しい協奏曲、1か月前に完成したばかりでまだ公の場で一度も演奏されていない曲の、アレグレットの主題をうたった。」「ムクドリはリズムに小さな変更を(最初の方の劇的なフェルマータ)を加え、ト音ふたつを半音上げて嬰ト音にしていた。」「ムクドリ科の鳥として、世界でも屈指の物まね上手な種に属し、鳥や楽器のほか、人間の声も含む様々な音を上手に真似る能力はオウムに引けをとらない。」

.224「音楽も鳥の歌も、私たちの鼓膜を軽やかに通り抜け、能とつながって、気持ちを晴れやかにし、恍惚とさせてくれる。鳥の歌は、ほかの環境音以上に、音の高さ、リズム、軽快な抑揚、繰り返しなど、音楽的なことばで語っている。とはいえ、はたして鳥の歌を音楽と呼んでもいいのだろうか。比喩として、議論するまでもない。スズメ目の鳥が繁殖期に発する声に”歌“という単語を選んだのはほかならぬ人間だし、ごく専門的な鳥類学の教科書にさえ、この単語は使われている。だが、比喩の範疇を越えて、鳥の声は人間がつくったものと同じ意味で音楽だと提唱しようものなら、大半の人が存在すら知らない学問的論争に巻き込まれることになる。」

この著者が言いたいことは、モーツアルトの協奏曲第17番は、飼っていたムクドリから影響を受けて作曲したとのうわさがあったが、この協奏曲が出来た時よりずっと後にムクドリを購入したことが判明、また鳥の声を歌とよんでいるのは、様々な議論はあるが、結局人間の感覚によるのではないかという発想である。結局、鳥の歌の理論やピタゴラス音律の話まであるのに結論は肯定的ではない。前記した鈴木俊貴重の書いた本のように、シジュウカラの立場で声の意味を分析したように、ムクドリの立場で分析をしたらどうなるのか。自然の中で、様々な角度から分析しないと鳥の言語や歌を理解することは難しい。

歌を忘れたカナリア(西城八十、1918)も医学の研究者(※島根大学医学部大田総合医育成センターホームページ)は、カナリヤも発情期には、立派な声で歌うように、私に注目してほしい?と言って鳴くが、それ以外の時期では能がしぼんで、立派な声では鳴かなくなるようだ。これは医学的な立場でカナリアの歌を分析した結果のようだ。  

数年前に、東大生産技術研究所の森下有先生が、森の中での音楽の体に対する効果を、医学・心理学・森の生態学・音響、これは私が参加したが、これらの立場の人たちが共同で分析したようなことがあった。いい結果になるといいと思っている。

最初に述べたパブロ・カザルスの「鳥の歌も、「カナリヤの歌も人間が考えた鳥の歌なのだと思う。しかしこれもシジュウカラを野生のまま、その声の意味を分析したように、鳥たちの言葉を人間が理解できるようになった場合には、鳥たちが、本当に楽しげに歌を唄っているのか、悲し気にうたっているのか、または単なるはな唄なのか、それはそれで興味深いことがありそうな気がする。


2025/05/27

ポーランド・スプリング・コンサート2025 ~ショパンとポーランドEU議長国就任への音楽のオマージュ~

 日時:2025524() 1015より

場所:大田区民プラザ小ホール 約100名(椅子席)、立って聞いている人もいた。

主催:ポーランド日本財団

演奏者:里美有香

このコンサートは私の高校時代からの友人の斎藤さんから紹介された。ポーランドはショパンの生まれた国で、ショパンコンクルールでも有名なところだが、タイトルにあるようにポーランドがEUの議長国になったことを記念して行われたようだ。

プログラムは、チラシで示すように、ベートベンの歓喜の歌から始まって、ショパンの7曲、パデレフスキ1曲、シマノフスキ1曲、アンコール曲

里美さんは、チラシによればショパン音楽大学修士課程卒で、第8回ザレンプスキ国際音楽コンクール二重奏部門で1位を受賞しているようだ。演奏はすばらしかった。特にショパンの曲は華麗で、華やかで明るい気持ちにさせてくれた。隣に座っている人も終了後に話しかけてくれて素晴らしかったと言っていた。

この小ホールは、体育館のような平土間で、舞台は床から持ち上げて舞台としていた。さらにそのほかの平らな部分には、椅子を並べて観客席にしていた。平面は長方形で、壁は、舞台後壁も、観客席の側壁も平担な板張りで、しかも側壁同士や後壁同士は平行の壁になっていて、フラッターエコーなどが生じやすい音響的には少し好ましい形でない。

ただこの施設は、大ホール、リハーサル室、展示室、体育室、音楽練習室などたくさんの音楽や演劇のための施設で、大規模のものであった。建物の周辺には楽器を持った人たちが、この建物に向かって歩いていた。町がいい雰囲気になっていた。

私が昔住んでいたところは久が原町というところで、池上線の千鳥町駅まで10分程度で歩き、それを越えてさらに10分ぐらいするとこの大田区民プラザのある旧目蒲線、現在は多摩川線に変わったがその下丸子に来ることが出来た。この近くにあるく多摩川によく遊びに来るときに歩いた道だ。大変懐かしい。



                             図 大田区民プラザのB1Fの案内図、大きな施設である。

2025/05/18

横浜船劇場で、シリーズつなぐ<艀> ②昭和の名画「泥の河」を見る・語る ~薄れゆく時代の記憶と、今をつなぐ<艀>~

 日時:2025516(金午後)630930

場所:横浜船劇場

最初に映画「泥の河」の上映があって、その後講演会があった。戦後間もない時代、1955年ごろ、人々が一生懸命に生きている状況が映し出される。場面は泥の河、大阪、堂島川、土佐堀川周辺を設定、実際には名古屋の河で撮影されたらしい。馬に木材を引かせる人が、車に驚いた馬が、飛び跳ねて、材木が崩れて死んでしまう。川に舟から落ちてなくなってしまう。戦争で死ぬより大変だったかもしれないとつぶやいていた。艀を使った水上ラブホテルもある。旦那が亡くなって、これしか生きる道がない状態になっている。主人公の少年の家は、河のほとりで食堂、そこの近くに、水上ラブホテルの艀が停留した。その中で、さらにそこの子供たちが、お互い知り合い、その状態の上で、子供たちが生き生きと生活している。

どうもその子供たちの当時の年代は、今の私の年代に重なっていて、戦後の雰囲気が残っている状態が共感でき、すぐ理解できた。泥の河の水がヘドロでよどんだ状態で、しかもその映画ではその水の中に大きなコイも泳いでいた。ただ私は小学校の前半の頃は、多摩川で泳いだ(多分水浴び!)経験があり、そのころ一緒に遊んだ人、原さんは、その後のヘドロの多摩川を見て、それが影響されたと思うが、北海道大学水産学部に進み、環境ホルモンの研究をしたようだ。またこの映画は1981年に映画化されたが、白黒映画だった。時代をイメージさせたかったのだと思う。

講演会は、元映画プロジューサーの古澤敏文、河北直治(横濱界隈研究家)、以前講演があった松本和樹(横浜都市発展記念館調査研究員)の講演があった。タイトルの「シリーズつなぐ<> ②」の②は松本さんの講演の2回目のような感じだ。古澤さんの話は、この原作は宮本輝で、映画監督は小栗康平で、共に処女作のようだ。

松本さんの話は、現在われわれがいるこの船劇場が、泥の河の舞台になっていると感じてくださいとのこと。とても現実感が出てきた。

実はこの映画はフィルム映画で総計110分とのこと、この間に2回フィルムの交換があつた。2回目の交換の時には、この劇場の最初の設計者である舞台美術家の堀尾幸男さんがトイレに行き、一緒になつた。私にとってはよく知っている人で、お会いしたことも何度もあるが、直接話したことは初めてだ。

また私が座った席の隣は横浜ボートシアターの劇団員増田さんでした。私にとっては公演の時にはよく知っている人でしたが、直接お話をしたことは初めてです。しかも帰るときには、私の足は遅いので先に行って下さいと言いましたら、なんとお話をしながら元町・中華街駅までお付き合いをしていただきました。この公演の中には「Spirit of YOKOHAMA」という映画のチラシがあり、その中に「この映画をきっかけに、新たな人の繋がりが生まれてくることを、、」と書かれているが、この泥の河もつながりを生んでくれたようだ。

昔、唐十郎の赤テントとか佐藤信の黒テントなどの公演は何度も行ったが、横浜ボートシアターの木造の艀の劇場については、気にはなっていたが、劇場が木造の舟・艀で、何となく閉鎖的な感じがして行けなかった。1997年前ごろに、遠藤さんに親しい元黒テントにいて、飛島建設では都市文化センターにいて、さらに銀座に文化科学高等研究院を開いた竹沢さんからお誘いがあって、「船劇場を作る会」に参加して、それが実って、ほぼ無事に鋼鉄製の船劇場が完成した。この何となく閉鎖的な感じは魅力的であると同時に、ある程度この閉鎖的な感じから脱却する必要がある。しかし現実には、係留場所が、やはり不特定多数の人々が公演に来ることはできない状態になっている。

一般的な場所に係留が出来き、一般の人が来場できたら、横浜ボートシアターの公演やそのほかの演劇、今回の様な映画会の開催や様々なコンサートも企画することが出来そうだ。多分競合しそうだが、唐十郎、今の劇団唐組のテント小屋より可能性?がありそうだ!!。


                    写真:船劇場の内部、映画が始まる前




2025/05/08

東京交響楽団  グリーンコンサート~東欧ボヘミアの風に乗って~   キンボー・イシイ(指揮)、笹沼樹(チェロ)

 日時:202556日(火振休)1500開演

場所:昭和音楽大学テアトロ・ジーリオ・ショウワ

出演:指揮者 キンボー・イシイ

   チェロ独奏 笹沼 樹

   管弦楽:東京交響楽団

曲目:スラブ舞曲第一番

   チェロ協奏曲 休憩

   交響曲第九番「新世界より」

チラシによれば、ドヴォルザーク(18411904)はチェコ共和国で生まれ、51歳でニューヨークに渡り、52歳で交響曲9「新世界より」を作曲したと。このほか弦楽四重奏曲「アメリカ」、「チェロ協奏曲」と、ボヘミアの音楽や黒人霊歌をクラッシクと見事に融合させ、後世に残る作曲をしたと。1曲目のスラブ舞曲も、2曲目のチェロ協奏曲もいずれもリズミカルで力強く、しかもボヘミアの雰囲気もあったとてもいい曲だった。   

後半の「新世界より」は、田園の雰囲気もあり、童謡の赤とんぼを思い出すような田園の景色を感じる部分もあった。クラッシク音楽もウイーンから次第に東に移動していく過程も示しているように思う。

このテアトロ・ジーリオ・ショウワというホールは、建築設計は松田平田設計で、ホームページによれば1367席、客席はオペラハウスのように3層に客席を取り囲むような形であった。客席は3階までほぼ満席であった。舞台・客席もオペラやバレエができるような形で出来ているような感じだが、演奏中から気になっていたのだが、舞台の周囲にある天井および側壁を囲む膜?が、どうも布製のような気がしていた。公演が終わった後に舞台に近づいてみると、布製の側方反射板および布製の天井反射板でまず取り囲み、さらに可動の衝立反射板が後壁部分に設置されている。しかも音が拡散しにくい平面で構成されている。布製の反射板は、音響的には吸音性であり、ほぼ視覚的なだけの反射板である。しかも側方の反射板は可動のプロセニアムのところまでなく、脇から見ると舞台後ろの設備などもよく見える状態になっている。したがって指揮者の位置では舞台の演奏者の音が側壁から反射してこないことになる。音響的に言えば舞台音響の設計はしていないと同じだ。したがって指揮者をはじめ、演奏者も演奏がしにくいと思われる。クラッシク音楽も公演内容に含めるならば、将来的にはこれらの布製の反射板を、音響性能の良い板製に変更すべきものと思われる。

本コンサートは、川崎・しんゆり芸術祭アルテリッカ4/65/11の一部になっている。この中にはクラッシク音楽だけでなく、オペラやフラメンコやジャズや落語や和太鼓や映画や演劇などもあり、場所も様々なところで行っている。クラッシク音楽に重点を置く東京フォーラムの内容よりこの方が、邦楽もあり、音楽的にバランスがとれているように思う。


                                   写真:公演が終了した後、撮影した。


                   写真:舞台の側方を撮影した。可動プロセニアムの間には舞台裏側が見える。



                                       写真:客席方向を見た。客席は3階席まである。


 


                           表:川崎・しんゆり芸術祭プログラム


2025/05/06

ラ・フォル・ジュルネTOKYO2025 Memoires 音楽の時空旅行 132 ハンソン四重奏団(弦楽四重奏)

日時:202553日(土祝)11301230

場所:東京フォーラムホールD7

曲目:モーツアルト:弦楽四重奏第17番「狩」

   ベートーベン:弦楽四重奏第9番「ラズモフスキー第3番」

ホールD7はチラシによれば221席と書かれている。元ヤマハの音響研究室、並びに東京工業大学の特任教授だった清水さんに紹介されていった。このホールD7の主の音響設計者であったとのこと。ホールD7の主なる考えは音楽用の録音スタジオのような考え方で設計したとのこと。また椅子は可動席となっていて平土間にも変換ができる。壁は6φの有孔板でできていた。中に吸音材は入っているかどうかは確認していない。またスピーカによる音量付加も考えてあるようだ(多分今回は使用していない。)。このホールは演奏音がはっきり聞こえ、録音もきれいに録音できるようだが、あまり響きがない。確実ではないが、後半の曲は演奏の音量を上げているように思った。しかも演奏はとてもしっかりしていた。清水さんの親戚と言うわけではなく、演奏のレベルが高いと感じた。このヴァイオリニストのアントン・ハンソンさんは、清水さんの妹さんの子供さんだと言っていた。妹さんはイギリス人と結婚したため、アントン・ハンソンという名前のようだ。現在はフランスに滞在して、この楽団を結成しているようだ。


ラ・フォール・ジュリネ2025のオフィシャルガイドブックの表紙には葛飾北斎の波の絵や着物を着た人たちの絵が飾られているが、もっている楽器は洋楽器である。先入観からはピアノと三味線や琵琶を持っているものと勘違いした。今回のテーマはMemoiresであるので、邦楽器やそのほかのシタールやガムランや古楽器などの楽器との合奏もあっていいように思った。この音楽祭は世界最大級のクラシック音楽祭と書かれている。たしかに東京フォーラムだけでもたくさんのホールがあり、さらに外部でもたくさん演奏が行われている。可能性がありそうだ。と思ってオフィシャルガイドを見ていたらホールEで、「歌って踊ろう!インドネシアの森に響くガムラン」や「ジャズの街ニューヨークで、Lets Swing」という公演もあった。



2025/05/01

建築音響の交流の歴史その14 宗教と音楽

 先日バッハ作曲によるマタイ受難曲を、オーケストラを伴った合唱を聴いたが、きれいなハーモミーが実現で来ていた。とにかくここでは美しいハーモニーが重要だ。このバッハ(16851750)が生活していたのがライプッチヒのトーマス教会で、そこで音楽監督をしていたようだ。このバッハが多分クラッシク音楽の元を作り出した人の一人ではないかと感じている。音律の最初はギリシャ時代のピタゴラス音律とされていて、唸らないことを目標につくったようだが、残念ながらその音律では、ドミソの美しい和音がつくれなかった。12世紀ごろ、そこに大きな教会が出来てきて、讃美歌が美しい和音を用いて作れるようになってきた。それが純正律で、バッハはそれを進化させたヴェルクマイスター音律を使っているだ。これらがクラシック音楽のもとになった可能性がある。要するに教会の讃美歌を経由して、クラシック音楽が成立し始めたと言える。さらにモーツアルトが中全音律を、ベートーベンがウエルテンペラメントを用いているとのこと。現在はこれら純正律のグループから、移調の便利さからか、更に平均律に変化している。この平均律では正確な和音はできていないので、美しいハーモニーはできていない。蛇足だが、バッハの平均律クラヴィーア曲の平均律という訳は、誤訳になる。(参考:窮理社のホームページhttps://kyuurisha.com/talkmusic-no23/)。

ところで教会の讃美歌は聖壇に向かって歌い、聴衆もやはり聖壇に向かって座るので、聴衆は、聖歌隊には背を向けることになる。音楽を聴く立場からは、少し矛盾しているような感じである。

 

神社の神楽の舞台となる神楽殿はどうなっているか?多くの場合には聴衆は立っているので、神楽があるときには神楽の方に向かって立っているような気がする。音響測定に行った各務原市にある芝居小屋の村国座は、村国神社に向かって立っている。舞台の向きは神社の方を向いているが、観客はあくまで舞台に向かって座ることになっている。村国座のホームページによれば、村国座は、年に一度の村国神社祭礼に氏子が奉納する地芝居のために建設された舞台で、こけら落としは明治15(1882)1026日であった。昭和40年代後半から現在のように子供歌舞伎が奉納されるようになったと。


                                                  写真:村国座のホームページから引用


                                       写真:村国座の正面(音響測定時)


                                     写真:村国座の舞台に向かってみた内部(音響測定時)

虚無僧は、宗教と尺八の音楽と関係がありそうなので、「虚霊山 明暗寺 普化明暗尺八」のホームページを見ると、「明治以前の虚無僧と現代の虚無僧」という項に、「尺八を吹いて托鉢行脚する禅的生活の最初の実践者は、虚竹禅師であり、また虚無僧の元祖は楠木正勝公と伝えられています。」「江戸時代には、幕府により普化宗が公認され虚無僧の全盛期を迎えます。」「虚無僧になるには武士に限られ、厳重な身元調査の上、確実は武家の保証人を要しました。」「寺での生活は、夜明け前に役僧が吹く、「覚醒鈴」の曲を合図に起床、仏殿に集まって朝の勧業として「朝課」の曲を奏し、そのあと朝の座禅をします。」「虚無僧の吹く曲はすべて禅の修行、つまり吹禅の曲と考えられていました。」 

楠木正勝は南北朝時代の1388年ごろの人虚無僧は、藁の天蓋を被って、尺八を吹いている禅宗の僧で、身分としては武士ではあるが、仏教としての修行で、自由に全国行脚もできるために、忍者が天蓋を被った虚無僧にも化けることができるといういかがわしい雰囲気もある。なんで武士から虚無僧が生まれたのか、またなぜ中国から伝来した尺八を使うようになったのか気になる。ただ江戸時代に入って戦国時代が終わり、武士が暇になったことも挙げられる可能性がある。歌舞伎:2025330日に放映された「古典芸能の招待」の歌舞伎 御所五郎蔵(ごしょのごろぞう)は尺八を背中に持っていて、相手が来ると尺八を振りかざすという場面がある。尺八は竹製で、かなり重く、こん棒のように武器にもよさそうであるが、歌口が一部刃物のように薄くなっていて、その部分はきゃしゃで本当は乱暴には扱えない!!歌舞伎の見世物にはいいかもしれないが?尺八はやはり楽器なので大事に扱わないといけない。現在では、普化宗の虚無僧の尺八だけでなく、様々な人が尺八を楽器として吹いている。かすれた音はTake the A trainのジャズにも使え、まるで蒸気機関車が蒸気を出して走っているような感じだ。

声明について、天台宗のホームページを見ると、「声明とは法要儀式に対し、経文や真言に旋律抑揚を付けて唱える仏教声楽曲です。伝教大師最澄が中国(唐)に渡り天台の伝えたおりに、声明も伝えられましたがこれを、体系的に伝えたのは慈覚大師円仁(794864)です。」「平安時代には声明と雅楽・舞楽との合奏曲も作られ浄土信仰とも重なり盛んに奏されたと言います。現在でも天台宗ではほとんどの法要に声明は使われ、また、舞楽法要などは伝統音楽として、公演公開されています。

新井弘順へのインタビュー記事が載っていたので、一部転載する。「千年の時空を越えて劇場で親しまれる仏教音楽「声明」の世界」聞き手:花光潤子(2007427日「寺院でしか聞けなかった僧侶の男性合唱である声明をコンサートとして劇場公開し、現代音楽の作曲家による新作声明にも挑戦している僧侶グループがある。「声明の会・千年の聲」の新井弘順師(真言宗豊山派宝玉院住職)がかたる声明の世界とは。」「「声明」は、お経に節がついたもので、仏教寺院で僧侶が儀式のときに唱える男性コーラスです。仏さまの教えを讃歓するする仏教の聖歌です。仏教とともにインドで生まれ、中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わりました。仏教が伝来したのは6世紀ですが、声明については、752年に東大寺大仏開眼供養の大法要が行われた際に、国中から約1万人のお坊さんが集まり、420人で、声明を披露したという記録が古文書に記されています。」「民族音楽の研究家であった小泉文夫先生は、日本語による声明「講式」(漢文訓読体)が書かれた物語を音楽的に表現した最初のものだろうと言われ、そこから平曲や謡曲、浪花節が発展していったと考えられています。」 「声明の大合唱のほか、中国の曲芸や仮面劇、ベトナムやインドなどのアジア各国の舞楽等、大陸から来たいろいろな芸能が催されました。大仏殿そのものが一つの大劇場、祝祭空間だったのです。」

先日2025427日の「古典芸能の招待」で、能 自然居士(古式)を放送していた。雲井寺の造営のため、僧、自然居士(じねんこじ)というものが、月が出る前に説教をしようとして始めた。その僧は半僧半俗の身でまだ前髪を有し、これから正式の僧になろうとするものである。そこに両親の追善供養に、お寺にお供えしようと、小袖を持って女の子が現れる。実はその小袖は、人買いに自分を売ったお金で買ったようだ。その子供を探しに東国の人商人が来て、連れて行ってしまう。僧はその小袖を首にかけて、その人商人が舟をこぎ出そうとするところに追いついて、小袖を渡して、子供を連れて帰るという。人商人は、それは冗談じゃないと思うが、相手は僧、そこで僧を困らせようとして、舞を舞わせ、次に小舟の由来を話させ、さらに次に簓(ささら)の由来を聞き、さらにさらに小鼓をたたかせとところで、僧は子供を助け出してつれて帰るという結構ドラマチックな話だ。今までの声明や自然居士のことは昔のはなしであるが、次は身近にあるお寺の話。

私の両親や弟が眠る墓のあるお寺、馬込の善照寺は、日常的な仏事のほかに、月に1回、檀家及びその他興味がある人と、雅楽の練習をしていて、何かの折に、その雅楽を披露するとのこと。声明は、現在では劇場でも公演するとのこと、残念ながら私はテレビでしか見たことは無いが、次第に仏教も世間に自らを溶け込ませ始めているようだ。今まで見てきたように宗教も音楽や演劇を介して、現在の世の中と繋がっているように思う。

カトリックのローマ法王フランシスが2025421日に亡くなった。復活祭で挨拶をした翌日になる。アルゼンチン生まれで、本名はホルヘ・マリオ・ベルゴリオという。ご遺体はサン・ピエトロ大聖堂に安置され、大空間の中でパイプオルガンが鳴って響いているのをニュースで見た。426日葬儀がサン・ピエトロ広場で行われ、世界各国の首脳たちが弔問に来て、その後、ローマ中心部のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に埋葬された。フランシスコ法王の葬式の間に、各国の首脳、特にトランプとゼレンスキーが会議をやり、トランプもゼレンスキーも前向きに会議が出来たと評価していた。法王は人と人の間に壁でなく、橋をつくることが重要だと言っていたが、死んでからも仕事をしていた。見上げたもんだ。

ウクライナとロシアはいずれもキリスト教系に属している。しかしガザでの戦争はパレスチナとイスラエルの戦いになっているが、これを宗派で言えば、イスラム教とキリスト教の間での戦いになっている。これを仏教が間に立って平和を作り上げることはできないのだろうか。たくさんの僧が声明を唱えながら停戦を求めて、ガザの検問所を通過していくような離れ業を。突然思い出した。今年2025年の2月、国立新美術館の東京書道展(選抜作家展2025)に出品した友人のリーさんの作品、「不生不滅」を思い出した。永遠のものはないという般若心経にある言葉だ。この心意気が必要だ。

                             写真:国立新美術館での書道展で、リーさんの作品「不生不滅」

民俗