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2023/12/31

建築音響の交流の歴史(その1)

 室内音響の歴史はセイビンの残響時間から始まっていると言われている。1895年(明治28年)残響理論を発表し、その技術でボストンシンフォニーホールの音響設計をした約1900年のことである。建築音響の歴史は、音律まで考えると、相当さかのぼることができ、約BC500のピュタゴラスは、ピュタゴラス音律(オクターブ、その分割、全全半全全全半と上行する配置)を開発した。ドとソの二つの音を合わせると唸りを生じない。この唸りを生じない音はヨーロッパの音楽ないし、教会の鐘の音の特徴となっている。このように考えると建築音響の歴史は一気に歴史をさかのぼることができる。さらにこの音律の適用について、笛の発見からみると、35000年前のものと思われる動物の骨でできた5穴のあいた笛が南ドイツのホーレ・フェルス洞窟から発見された(2009 5 14 日付の『ネイチャー』)。この良好なシロエリハゲワシの骨製のものは、長さ 21.8cm、直径 8mm で、口を当てる部分には V 字形の深い切れ込みが 2 か所、5 つの指穴を持っている。そのほかドイツ南西部のガイセンクレステルレ洞窟からも同時期の白鳥の橈骨ドウコツ(翼の骨)でできた穴が3か所の笛やマンモスの牙でできた笛(孔が3か所)が発見されている(日本音響学会誌VOL.62 NO.8 2006の笠原 潔 著 「楽器の考古学」)。また中国河南省舞陽県賈湖(Jiahu)遺跡から、紀元前7世紀のタンチョウヅルの尺骨(羽の骨)に孔を開けた笛が25点余り出土した。尺八のような吹き方をしたものと考えられている。この笛は完全な形があり、世界最古の吹奏可能な楽器に認定されている。指孔の開け方は何らかの音階に基づいてあけられているはずである。※35000年前のドイツで発見された骨の笛やBC7世紀の中国でできた骨の笛の発見の間には、3万年ほど間があるが、ただ発見されていないだけだと思う。さらに35000年前のドイツと紀元前7世紀の中国の間にも歴史の中に埋もれている骨の笛、さらに発見されにくいが竹の笛などもあるような気がする。

 BC4000年ころ中国では吹奏楽器としては,現存最古の陶製の(けん)で、内部は空洞1孔のが出土した。外形は底が平らな球形あるいは卵形で、以後,孔をふやして,殷代後期のBC14BC12世紀には5孔塤となり,すでに1オクターブ中の11半音が吹き出せた、息を当てる角度を変えグリッサンド(11音の音高を区切ることなく、隙間なく滑らせるように流れるように音高を上げ下げする演奏技法)させて演奏する。外形は底が平らな球形あるいは卵形で、内部は空洞である。上端に吹口、胴には58個の指孔がある。(そう)代と明(みん)代には朝鮮に伝わり、孔子廟(びょう)祭祀(さいし)楽に用いられた。 日本では弥生時代に入ると中国起源の土笛である「塤(けん)」で、卵形、内部は中空、上部に吹き口があり、前面に4孔、後面に2孔の合計6指孔タイプが出土している。弥生前期の日本海側の遺跡から100点近くが出土しているが、多くが、器形が崩れていまっており、吹いても音を発しないものが多く、政変が影響している可能性もある。

BC2500 箜篌(クゴ) 形はL字型で、斜めに23本の弦が張ってあり、高さは170cm以上ある。エジプトからシルクロードを通って正倉院にもある。

BC18001600  シュメール語の粘土板に楽譜 古代バビロニア時代に楔形文字により、記された楽譜。弦の長さと音の高さの対応、音律と音程と音階の比例関係も知られていたと思われ、リラの9弦の調律法が記されている。少なくともBC1000年には音楽理論が整備され、5度連鎖から7音音階に基づいていたと推測される。

BC500のピュタゴラスのピュタゴラス音律についてはすでに書いたが、その約140年後、BC340にエピダヴロス円形劇場がたてられた。設計は建築家ポリュクレイトスで、山の側に建てられ、アスクレピオスの聖域を見下ろす、起伏のある丘の周囲の風景に完全に溶け込んでいる。半円形の座席配置に配置された14,000人の観客全員が、54層の最高席からでも、演奏された音また会話を聞くことができる。

BC100にはヴィトルヴィウスの建築書がでた。エピダヴロス円形劇場が経ってから240年後のことである。声の明瞭性を確保するために、中央の中通路があっても、舞台から観客席まで、声の伝搬に障壁にならないように直線で結べることが重要とした。またHarmonicsを、アリストクセノスの著作からできる限り明確にそれを説明しSounding Vessels In the Theatre(劇場で響く壺)について書かれている。数学的原理に対応して、劇場の大きさに比例して青銅の壺を観客席に設置する。音に触れると互いに、4度や5度、やさらに2オクターブ上の音を奏でる。当時はギリシャやローマも含めてたくさんの劇場があり、これらの劇場にもそれぞれ劇場で響く壺が置かれているようだ。この壺の効果は声や音楽の明瞭性を高めるものと考えられる。

 718786 アルハリール・イブン・アハマッドによってペルシャ音楽の『アルーズィーの中核をなすバハル(bahr韻律-meter)が完成する。ペルシャ古典詩に用いられる韻律は2種類あり、一つはペルシャ古来の音数率で、もう一つは音節に長短を認め、その組み合わせを重視するアラブ古来の韻律、アルーズィーである。この中核をなすバハルはアルハリール・イブン・アハマッドによって体系付けられた。短短長短長の反復からなる。谷正人著 イラン音楽 声の文化と即興

810頃~866頃アル・キンディー:イスラム世界の最初の哲学者で、音楽に関する著作では『旋律の作曲法』はアラビア語で書かれた最古の音楽理論書、ウードを基盤とし、最初期のギリシャ文献が圧倒的に占星術に関するものが多く、天体の運行が及ぼす影響力を重視していた。

9801037 イブン・スイーナー、中央アジアのブハラの近郊で生まれたイスラム世界の代表する哲学者・医学者で『治癒の書』を著した。このなかに『音楽の学問とは楽音、調和、音程、ジンス、ジャム、旋律の展開、イーカーウ、作曲、楽器を扱う。』として、『音楽とは数学の学問である。それは楽音の研究である。』 また最後の節で 『韻律論について、中略イーカーウが音楽と詩の両方に当てはまる。中略ギリシャの医学者ガレノス(129頃~199年)の考えを引用しながら、脈拍と一定の規則性を持つイーカーウを関連づけている』

870頃~950アル・ファーラービーは中央アジアのイスラム哲学者で、音楽大全(定量音楽)を著すキンディーは音楽論を天文学とも関連付けて書き、イブン・スイーナーは、音楽は数学が必要と説いたが、アル・ファーラービーは音楽に属するすべてのものの存在をとその目的を探求するためには数学とは別物とした。いずれの3案は古代ギリシャの音楽論をそのまま引きうつしたのではなく、自分たちの哲学的思考を展開させた。(以上3名の参考 p.54アラブの音文化史グローバル・コミュニケーションへのいざない)

1294年没13世紀のバグダードで活躍した音楽理論家 サフィー・アッディーンは彼の主著『楽音と音楽の円環に関する知識の円環の書』において、イーカーとアラブ詩の類似性について指摘している。伝統的アラブのイーカーとは、低音と高音の組み合わせによる様々なリズムパターンである。

伝統的アラブ音楽における「協和音程」の概念の整理をし、その音楽理論書はアラブ音楽史上もっとも重要な論考のひとつとされ、中東各地の音楽理論に多大な影響を与えた。振動数比が(n+1)/nとなる協和音程の概念は、弦を均等2分割することによって得られる。協和音をオクターブの音程、完全4度(テトラ子ルドの枠組み)および完全5度、テトラ子ルド内部の音程という機能に分類される。それらは西洋の音程概念であるが、更にそれより微小な音程も協和音としてあげられている。アラブ音楽の調和的な音組織(マカーム)は、以上の多数の協和音程によって構成されており、ウードをはじめとするアラブの弦楽器演奏に適したものであった。』参考:東洋音楽大学 第64回大会プログラム(2013119日(土)~10())木村伸子 サフィー・アッディーンの音楽理論書におけるアラブの音程論

 5世紀以来:雅楽 (花伝舎ホームページより引用):雅楽はわが国に古くから伝わる「神楽(かぐら)」などの音楽と舞、5世紀から9世紀に主として中国大陸や朝鮮半島からもたらされた外来の音楽と舞が日本独自に変化し整理された管弦と舞楽、そして平安時代に外国渡来の楽器を伴奏としてつくられた「催馬楽(さいばら)」「朗詠(ろうえい)」と呼ばれる声楽曲の総称です。長く宮中を中心に伝承されており、現在も宮内庁式部職楽部によって、宮中の儀式、饗宴、園遊会などの行事において演奏されています。この雅楽の中の楽器は主に中国や朝鮮からもたらされたものであるが、日本古来の和琴(わごん)も含まれている。

観世音寺鐘 698年鋳造 京都・妙心寺の梵鐘と同じ工房で製作された「兄弟鐘」といわれ、ともに国内に現存する最古級の梵鐘として知られます。

韓国の鐘 聖徳大王神鐘 771年に鋳造されたは、「エミレの鐘」と言われている。ただ日本へは中国や商戦を経由して伝搬してきているので、より古い鐘はありそうである。

8世紀の中頃:奈良時代の天平勝宝八歳(756621日,聖武天皇の七七忌の忌日にあたり,光明皇后は天皇の御冥福を祈念して,御遺愛品など六百数十点と薬物六十種を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に奉献されました。これが正倉院の始まりです。

 正倉院の楽器

日本雅楽会のホームページより引用

正倉院の復元楽器:五絃琵琶、阮咸、瑟、箜篌、簫、竽、大篳篥、方響、塤

 五絃琵琶(ごげんびわ):現在使用されている琵琶は四本の絃ですが、これは五本の絃が張ってあり頸が真直ぐなのが特徴です。インドの棒状直頸の五絃リュートが亀茲を経て中国に渡ったと言われています。

 阮咸(げんかん):胴は円形で平たく、中央には円く革が張ってあります。この胴に棹がたてられ、絃は四本、柱は14個あります。阮咸は「秦琵琶《とも呼ばれ、中国固有の楽器です。伝説によると、秦始皇帝のとき万里の長城を造る人夫の苦労を慰めるために作られたもの、と言われています。後の晋のとき、竹林七賢人の一人の阮咸がこの楽器を好んで演奏したことから、阮咸と呼ぶようになったそうです。

瑟(ひつ):瑟の形は筝に似ていますが、絃は25絃あります。「琴瑟相和す《という言葉があるように、中国では古代から琴と共に使用されていました。2400年前の「曾候乙の墓《から25絃の瑟が出土していることから、その頃から使用されていたことが解ります。

 箜篌(くご):箜篌は五絃琵琶と共に当時の胡楽器に代表的なものであったようです。古代のアッシリアを起源として、ペルシャ・イランを経て蒙古・中国に入り箜篌と呼ばれるようになり、日本に伝来してきたと言われています。大きさは四尺余りで、絃は23本あります。

 簫(しょう):竹の管を横に並べ両側を木の枠で止めたものです。伝説によれば、舜のときに鳳凰が翼を広げた形に造られたと言われています。これは笙が鳳凰の翼を休めた形を象ったといわれているのと対応します。簫はパンパイプに属し、南米・太平洋・ヨーロッパにもある楽器で、箜篌同様、曾候乙の墓からも出土しています。

 竽(う):竽は笙と同じくらい古くから使われていた楽器で、笙より一回り大きくオクターブ低い音がでます。 春秋時代中期(紀元前600年頃)には用いられていたと言います。

 大篳篥(おおひちりき):現在雅楽で使用している篳篥と同じ形ですが、管が太くかつ長く、舌も大きいのが特徴です。

 方響(ほうきょう):木の枠の中に上下二段に16枚の長方形の鉄片を吊り下げたものです。 起源は南朝の梁の時代ではないかと言われています。

塤(けん):小さい陶土製の卵形の土笛で、上部の吹孔をのぞいて六つの孔があります。これを両手で押さえて音律を出します。』

 この中にはさらに雅楽でよく使われる笙や和琴や尺八、横笛、金銀平文琴(7)などが入っている。

東大寺御朱印のホームページからその一部を抜き書きした。『螺鈿紫檀五弦琵琶:この琵琶がつくられた当時の唐の皇帝は玄宗皇帝、妻は楊貴妃とのこと。この螺鈿紫檀五弦琵琶は、製作された中国にも現存しておらず、世界で唯一正倉院だけに存在している。琵琶の撥面にはラクダに乗るペルシャ人が描かれている。西の彼方の国から伝来した技法とインドの南の海の珍種と言える貝が中国・西安で結びつき、世にも美しい形となって、日本の都奈良へもたらされた。』

 東大寺の正倉院にある楽器は中国や朝鮮さらにアラブから来ているようだ。

1000年程度、平安時代中期、源氏物語に出てくる楽器について

源氏物語に出てくる楽器には和琴(わごん)、琴(きん)(琴の琴)、箏(そう)(箏の箏)、横笛、笙(しょう)、笏拍子(しゃくびょうし)、琵琶、どうも和琴は埴輪にも出てくる日本本来の楽器のようだが、あとは中国から来ているものが多いようだ。

『源氏物語』の音楽思想― 琴と和琴について 上 正帝京大学文学部教育学科紀要3653-59

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以下一部引用

 『『源氏』において。和琴は琴と共に重視された楽器であることは、物語の中で琴が61回、和琴が51回現われてくることからも、琴同様、和琴が重視されていたことが分かる。』

他の著者を引用いて、『旋法》の基準であり、それ故、絃楽器の中心的存在であると指摘する。さらに続けて、「琴の琴は中国の楽器の中で第一の楽器、常に君主の傍らにあるべき楽器とされている。」と述べ、琴の尊貴性をも主張しているのである。』 これに対し『和琴の掻き鳴らす律の調子の音の流れが、秋の澄んだ月とぴったり合っているとの叙述は、秋の月の美しさが音楽によっていっそう輝きが増してくるのである。』と和琴に対する音楽が自然に対する美意識を表現しているようだ。さらに『音楽論と歌論との相違は、歌論はあくまで自国の思想性を固持しているのに対し、音楽論は中国の礼楽思想と日本の情感的思想とが共存していることである。『源氏』はまさにこの二つの思想が共存していることを示している。」』 『そこには中国伝来の礼楽思想と共に、日本古来の天詔琴思想、つまり『古事記』に記された和琴の神秘性(42)等に音楽の徳性が示されている。いうなれば、音楽には他の芸能に比して、倫理性が重視されていたのである。』

 ヨーロッパ中世音楽

 一般に中世時代とは、紀元400年から500年頃の古代ローマ時代末期から、15世紀ルネサンス期前の時代を指します。この時代区分に誕生した音楽を「中世音楽」と言い、さらに年代ごとに6つの時期に分けられています。それぞれの特徴は以下の通りです。(1)紀元400年から600年 古代ローマ時代末期。キリスト教が広まり、各地で固有の方言的聖歌が誕生する。(2600年から900年 キリスト教的ゲルマン文化、ローマ・カトリック教会の精力が増し、聖歌の統一が勧められる。(3900年から1150年 神聖ローマ帝国が完成し、本格的な中世時代へ。理論的にも実践的にもグレゴリオ聖歌が完成し、集大成が行われる。また、多声音楽が登場したのもこの時代。(41150年から1300年 フランスやスペインなどの修道院において、その国独自の多声音楽が生まれる。12世紀末から13世紀にかけて、パリ・ノートルダム大聖堂が聖歌の中心となり、記譜法や器楽曲が発達する。(51300年から1400 中世時代の封建制度が終わりを迎え、音楽に人間的な感情が取り入れられる。また、世俗音楽のミサが登場し、カノンなどの音楽的技法の追求が本格化する。この頃から、宗教性よりも音楽性を重視した作品も試みられ、代表作にマショーの『ノートルダム・ミサ曲』がある。(61400年から1450 イギリス人作曲家ダンスタンブルが3和音を中心とする新しい技法を生み出し、大陸へ伝わる。イギリスの技法と大陸の技法が結びつき、ギヨーム・デュファイといったブルゴーニュ楽派が生まれ、ルネサンス期へ。

「グレゴリオ聖歌」 キリスト教ローマ・カトリック教会で用いられる無伴奏・単旋律による典礼聖歌です。おもにラテン語で歌われますが、一部にギリシャ語やヘブライ語も用いられます。中世ヨーロッパ各地で盛んになり、それらをグレゴリウス1世が編纂したことから「グレゴリオ聖歌」と名付けられました。しかしその編纂の歴史的な根拠はわかっていません。一説には、精霊の象徴である「鳩」に霊感を受け、グレゴリウスが聖歌を書き取ったという説もありますが、こちらも真偽は不明のままです。それでも、グレゴリウス1世が聖歌学校を育成させたことや、その後の西洋音楽の発展に大きな貢献をしたことは間違いない事実と言えるでしょう。また、カール大帝742 - 814が神聖ローマ帝国皇帝に即位したことも、グレゴリオ聖歌がヨーロッパ全土に拡大する重要な要因となりました。グレゴリオ聖歌は、記譜法が発達するまでの数百年の間、各地の修道院で口伝により受け継がれてきました。9世紀頃からはネウマと呼ばれる記号を用いた「ネウマ譜」が登場し、13世紀頃には「楽譜」として定着します。また、10世紀後半にはイタリア人修道士グイード・ダレッツォによって「グイードの手」と呼ばれる伝達法も開発されています。これは「手の関節に音名を記して、音の部分を指しながら音名を教える」伝達法で、聖歌を伝える手法として広く取り入れられました。ネウマ譜の登場 「ネウマ」とはギリシャ語で「合図」や「身振り」を意味し、グレゴリオ聖歌の記譜法として重要な役割を果たしました。記号としてのネウマは、大きく分けて旋律の動きのみを示す「通常ネウマ」と、スタッカートやトレモロといった特殊な演奏方法を示す「特殊ネウマ」の2種類があります。これらは、正確な音高を示す点において優れていますが、音の長さについては示されていないため、その音楽的解釈については現在もなお研究が続けられています。また、現在の譜面とは異なり、譜線が4本であるのもネウマ譜の大きな特徴です。やがて時代とともに音楽が複雑化すると、4本では不十分となり現在の5線へと進化します。グレゴリオ聖歌の代表曲を3曲紹介します。モーツァルトやヴェルディのレクイエムにも出てきますので、ご存知の方も多いかもしれません。彼らのレクイエムもグレゴリオ聖歌が源流です。キリスト教の礼拝において「キリエ」は重要な祈りの一つです。ローマ・カトリック教会のミサやルター派の典礼でも用いられ、ラテン語で「主よ」を意味します。日本のカトリック教会においては「憐れみの賛歌」とも呼ばれています。キリエの伝統として「主よ、憐れみたまえ。キリスト、憐れみたまえ。主よ、憐れみたまえ」の聖句が3度唱えられます。「アヴェ・マリア」という言葉を聞いたことがある方も多いと思います。フランツ・シューベルトやシャルル・グノーなどの「アヴェ・マリア」が有名ですね。これらの作品も、グレゴリオ聖歌に由来します。ラテン語で「こんにちは、マリア」や「おめでとう、マリア」を意味し、聖母マリアを讃える聖歌として親しまれています。「怒りの日」とは、キリスト教における終末思想「最後の審判」が行われる日のことです。これにより人間は、天国へ行く者と地獄に落ちる者に分けられます。『新約聖書』の最後に書かれた聖典『ヨハネの黙示録』に詳細が描かれており、その衝撃的な内容により「死を象徴するイメージ」として定着しました。また、「怒りの日」が持つ重厚な旋律は、多くの作曲家により転用されています。

1020楽譜の発明 グイード・ダレッツォ北イタリア生まれ、グレゴリオ聖歌において、はじめて楽譜の原型を発明した。最初の作曲家はフランス人のペンタロン(ぺロティヌス(11701236)でハーモニー(和声)の最初、グイード時代の教会音楽で「オルガヌム」と言われた。

 ゴシック教会の建設:1099年第一回十字軍がエルサレム奪還に成功し、12世紀において教会は王をもしのぐ絶大な力を手にした。最初期のゴシック教会といわれるパリのサン・ドニ教会(11941220)、シャルトル(11941220)、アミアン(1220~1270)、ノートルダム大聖堂完成が1250年。ここを中心に展開したノートルダム楽派は、12世紀後半に活動したレオナンで、教会儀式(ミサ等)のためのオルガヌムを体系的にまとめ「オルガヌム大全」、12世紀末から13世紀初頭にかけて活動したペタロンはこれらのオルガヌムを大規模に改編した。これらのオルガヌムは、ドイツ、イタリア、スペインにまで写本が残っていて、13世紀末まで歌われていた。レオナンの曲は、二声のごく繊細なもので、引き延ばされたグレゴリオ聖歌のうえに、宙を漂うようなオルガヌム声部が細かく飾られるメリスマ・オルガヌム、ペタロンの曲は四声へ拡張、低音で轟く石柱を思わせる音とリズミカルなオルガヌム声部で、「中世のシンフォニー」。ペタロンの舞い踊るようなリズムは、この時代に、音高だけでなく、音の長さ(リズム面)も表記できる楽譜システムが考案されたこととも関係している。モード・リズムと呼ばれる。「岡田暁生著 西洋音楽史 クラシックの黄昏」

 1436サンタ=マリア大聖堂 フィレンツェにあり ルネッサンス様式で建築された。巨大なドームが特徴の大聖堂は、イタリアにおける晩期ゴシック建築および初期ルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。この部分にはミケロッツォ設計が採用され、ブルネレスキが死去する数か月前の1446313日に建設が始まり、1461年に完成した。

  「西洋では、教会音楽、つまり聖歌が主流、神に捧げる美しい音楽を表現するために、ピタゴラス音階を使用してきました。聖歌は、単旋律で歌われていたのですが、11世紀ころから多声音楽(ハモリパート)が教会を中心に進展していきます。さらに15世紀以降、多声音楽が複雑化していき完全5度や完全4度以外の和声も使われるようになってきました。そんな中、パルトロメ・ラモスによって「純正律」が発表。純正律の導入により、3度や6度の和声も美しく響くようになりました。」 引用:ギタリストマッスルのホームページ

バッハは対位法に適合したベルクマイスター調律だったが、後のモーツァルトに 影響を与えたヘンデルはモノフォニーに適した中全音律(ミーントーン)を愛用し た。モーツァルト時代に平均律の調律法が確立したが、モーツァルトは大変平均律 をきらった。また、ショパンもミーントーンで作曲し、転調の範囲が限られるため、一晩のコンサートでステージに34台のピアノを置いたと伝えられている。引用:純正律音楽研究会代表/作曲家・ヴァイオリニスト 玉木宏樹のホームページ

純正律によるドミソの和音1482年:ピタゴラス音律は、ドを1とすると、ミは81/64、ソは3/2となり、ド-ミを合わせてならすと音がにごる。純正律ではド:ミ:ソは15/43/2となり、ある2つの音の振動数が整数比で表される特別な音程を協和的音程(consonant interval)といい、ドとミを合わせても唸りを生じず、きれいな音になる。1482年バルトロメ・ラモスが定めたとされ、15世紀のルネッサンス音楽の時代から用いられた。平均律は1617世紀から始まり、ショパン、メンデルスゾーン等により良く用いられた。しかし、平均律の3和音はほぼ合うけれども、完全ではない。平均律は純正律に比べて、少し和音がにごる。 ただし平均律では自由に転調が出来る。ピアノを平均律の均等な12音で作れば、ドレミファソラシドの音階はどの音からでも始められる。参考:建築構造研究者の柴田 明徳の『2016123日 第18回耐震工学研究会 青葉山  J. W. S. レーリー -古典動力学の最後の博学者-』    

 ヨーロッパ中世の音楽の発展とアラブ系の音楽の発展は時代が重なっており、距離も近いので、何らかの交流があったに違いない。