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2023/05/31

キルヒャーの普遍音楽と純正律

 清水さんが「室内音響の歴史と変遷」の論文で、Sabine以前の室内音響の変遷の中で、Trochinという研究者が書いたAthanasius Kirchers Phonurgia Nova: The marvelous world of sound during 17th century.” Acoust.Today, Jan.2009, pp.9-15 (2009)を紹介していた

Kircherとは、Athanasius Kircher(アタナシウス・キルヒャー)、ドイツ出身の学者、イエズス会司祭、で、1601年から1680に生きた人である。

Trochinが引用した部分はKircherの「普遍音楽」という本の多分第五巻 魔術という章の第四部 音響の魔術という項になると思われる。主に木霊の音響論について書いてあるが、本の全体としては、ハルモニアがテーマになっているような気がする。ハルモニアとはギリシャ語で「調和」を意味するが、英語では「ハーモニー」で、本文の中では音楽だけではなく、星も含めて、生きている実際の空間での様々な調和という感じがする。

内容は第一巻 解剖学で、耳の構造など、その他動物の耳について、第二巻は文献学で、古代ヘブライ人やギリシャ人の音楽で、ピュータゴラースは弦を様々な形で分割し、ハルモニアの比率を探求し、ついには極めて完全な規則によって音楽を記述した。第三巻は楽器で、弦楽器や気鳴楽器で、ラッパやオルガン、第三部は打楽器、第四巻は比較-新旧の音楽二種で、その第一部で問題提起という項目があり、ギリシャ人の音楽は優れているとあり、ピュータゴラースは音楽を実によく理解していた。彼は人間と神々の哲学的学習の全てをハルモニアの原則のもとに置いていた。第五巻は魔術という章で、前記の中のL.Trochinの中にある論文の内容でもある。その第一部は自然科学、第二部は協和音と不協和音の魔術、第三部は劇場の音楽、第四部は音響の魔術、第五部は奇跡論の学習、第六部は音楽の隠遁術、秘密の記譜法、次は第六巻 類比で、第一部は十管の楽器  主にオルガンと世界を比較、世界オルガンの6個の大レジスター、レジスター一は四元素の調和、レジスター二は天井のシンフォニー、レジスター三は石、草木、動物の天のシンフォニー、レジスター四は人間の音楽、あるいは大・小世界の順応、レジスター五は脈のハルモニアと人体の脈の動き、レジスター六は感情の調和、あるいは様々な感情が織り成すハルモニア、レジスター七は統治界の調和性、統治の世界音楽、レジスター八はハルモニア的形而上学、レジスター九は天使の音楽とハルモニア、レジスター十は神の音楽、あるいは神と地上世界との調和、

最後の結論は天使や神に選ばれし者の、千の千倍の合唱が一体となっている。一時の喜びと快楽のためにこの天の音楽を聴き流すのは愚か者である。

第五巻 魔術という章の第四部 音響の魔術という項には、エコーの実験や推論などがあり、声などで人形の口が動くような仕組みを考えたりしている。したがって音の実験として、ニュートンのような科学的な実証も行っているが、やはり本書の主題は、声のハルモニアではないかと思う。普通の言葉で言えば合唱のハーモニーを焦点に据えているように思う。結局は、中世に発生した純正律のことについては言及されていない。ただし最後の結論のところで、神父という立場もあるかもしれないが、教会で歌われている賛美歌・合唱が素晴らしいと言っているように思う。より正確に言えば、教会とは、例えば1250年に完成したゴシック様式のノートルダム大聖堂、さらに1436年のルネッサンス様式のサンタ=マリア大聖堂などができはじめ、そこでの賛美歌が多分素晴らしいと思っているのではないかと想像する。このように考えると当時の考え方を思ってわくわくする。

第四巻 比較-新旧の音楽二種の第一部で問題提起という項目があり、ギリシャ人の音楽は優れているとあり、ピュータゴラースは音楽を実によく理解していた。彼は人間と神々の哲学的学習の全てをハルモニアの原則のもとに置いていた。彼は鍛冶屋の傍を通りかかって、調和するハンマーの音を聞いて、この音の差異はハンマーの大きさから来ると結論を付け、多分実験して、耳がよく理解できるようにハンマーを弦に変えて分析し、協和音と不協和音を習得して、分割した下図がいくつかの原因であることを見抜いたと。そしてピュータゴラース派のテトラクチュスが人間の魂の永遠の源泉でそれには以下の四つの数字がある、すなわち、一、二、三、四で、それらを加えると十になる。

テトラクチュスをインターネットで調べると、「万物は数の存在分節機能によって秩序立てられ,存在の各層には同一の数の類比関係が働いているということを意味した。このことを象徴的に表しているのが図に示すような〈四元数(テトラクテュス)〉である。」と書いてある。

普通の言葉で言えば合唱音楽における主要な音階は、オクターブ(完全八度)ならば12、完全五度ならば23、完全四度ならば34というように、弦の長さのきれいな比例関係によって構成されている。さらに具体的な音階で言えば、完全4度とはドとファ、ミとラ、完全5度とはドとソ、ファとドの関係に相当する。

Wikipediaによれば「純正律(じゅんせいりつ)、英語Just intonation)は、周波数の比が整数比である純正音程のみを用いて規定される音律である。例えば純正律による長調の全音階は、純正完全5度 (3/2) と純正長3度 (5/4) を用いて各音が決定される。 すなわち、Cを基準とした場合、C3度上がE5度上がG、次にG3度上がB5度上がD、さらにC5度下がFF3度上がAとなり、これらを1 オクターブ内に配列することでハ長調の全音階が得られる。上述の音階を以下に示す。大文字のTは大全音 (9/8)、小文字のtは小全音 (10/9)sは半音 (16/15) の音程を表す。「純正律の長所は、倍音のうなりを伴わない、単純な整数比による純正な和音が得られることである。」 「短所は、音の組によっては、純正音程から著しく外れることである。」「旋律の演奏に際しては、純正律では大全音 (9/8) と小全音 (10/9) 2種類の全音が存在するため、音階が不均等な印象を与え、また演奏が難しい」

 ♯ギタリストマッスルのホームページから引用すると 「西洋では、教会音楽、つまり聖歌が主流、神に捧げる美しい音楽を表現するために、ピタゴラス音階を使用してきました。聖歌は、単旋律で歌われていたのですが、11世紀ころから多声音楽(ハモリパート)が教会を中心に進展していきます。さらに15世紀以降、多声音楽が複雑化していき完全5度や完全4度以外の和声も使われるようになってきました。そんな中、パルトロメ・ラモスによって「純正律」が発表。純正律の導入により、3度や6度の和声も美しく響くようになりました。」 純正律が必要になったと考える理由は、私が考えることと同じである。しかも1250年にはノートルダム寺院のような大空間がたくさんできてきてるのだから、そのような空間でよく響く賛美歌が好まれるようになったのではないか。

結局、その後クラッシク音楽は、純正律音楽研究会代表/作曲家・ヴァイオリニスト 玉木宏樹のホームページによれば、バッハは対位法に適合したベルクマイスター調律だったが、後のモーツァルトに 影響を与えたヘンデルはモノフォニーに適した中全音律(ミーントーン)を愛用し た。モーツァルト時代に平均律の調律法が確立したが、モーツァルトは大変平均律 をきらった。また、ショパンもミーントーンで作曲し、転調の範囲が限られるため、一晩のコンサートでステージに34台のピアノを置いたと伝えられている。

さらにWikipediaによるとヴェルクマイスター音律とは、ヴェルクマイスターⅠ(Ⅲ)とは「モノコードラベルはⅢから始まる(純正律がⅠ、1/4コンマ中全音律がⅡとラベリングされているため)。」「この音律はピタゴラス音律と同様におおむね純正(完全)五度を用いているが、C-GG-DD-AB-F♯のそれぞれの五度は小さくされている、すなわち1/4コンマだけ狭められている。ヴェルクマイスターは半音階音楽("ficte")を演奏するのに特に適したものとしてこの音律を指定した。そのため近年はJ.S.バッハの音楽のための音律として人気が出ているのかもしれない。

余談であるが、バッハは日本語では平均律クラビーア曲集と訳されているが、英語ではWell temperdとなっていて、正確にはヴェルクマイスターⅢのようだ。

この本の主題であるキルヒャーの普遍音楽には、純正律についての言及はないが、キルヒャーの生きた1601年から1680年には、15世紀以降、多声音楽が複雑化していき完全5度や完全4度以外の和声も使われるようになってきたようで、キルヒャーが結論で、「天使や神に選ばれし者の、千の千倍の合唱が一体となっている。一時の喜びと快楽のためにこの点の音楽を聴き流すのは愚か者である。」とは賛美歌が美しいと言っているが、さらに単に美しいのではなく、ハーモニーが美しいと言っているように思う。

音響技術者にとっても、この音律について学ぶべきで、この先には合唱やコンサートがあり、オーケストラがあり、コンサートホールもある。また別の次元で劇場の音響についても研究が必要である。日本の芝居小屋については、ある程度音楽やせりふが聞き取れる状態にあるが、能楽堂につぃてはところによっては残響が長い場所もある。寺院についてもお経を読んだり、声明をはっするすることから、音響性能について研究が必要である。また各地区にある集会室や音楽室についても、もう少し検討が必要と思う。平均律の音律についても今後どのような内容がよいかはいろいろ考える必要がありそうであるが、室内音響的にもまだまだやることはありそうである。



2023/05/26

エラールという楽器のコンサート

 520()に「エラールという楽器」のコンサートがサントリーホールの小ホール ブルーローズでありました。エラールという楽器はチェンバロの後に生まれた楽器で、ピアノの前進になります。ピアニストは飯野明日香さんという人で、このエラールが生まれたのは、1777年ぐらい、モーツアルトが活躍していた年代、ベートーベンの少し前の時代だったようです。ただしこの演奏したエラールは1867年製のもので、故福沢進太朗氏が1939年にパリで購入し、戦後日本に奥さんとともに来日し、奥さんの福澤アクリヴィに愛用されたのち、2004年にサントリーホール所有となった。ナビゲーターは青島広志。

曲目はリストのラ・カンパネラ、ベートーベンのワルトシュタイン、ラヴェルのほか、鷹羽弘晁、糀場富美子、西村朗、一柳慧、など現代の作曲家で、一柳慧は最近亡くなったばかり、あとの3名はそれぞれ舞台に上がって青島広志のインタビューを受けていた。現代の作曲家を直に舞台に登場させるなど面白い手法で、さらにこれらの作曲家の曲は、非常に生き生きした曲で、飯野明日香の力を感じた。また一柳慧の曲は「左手のためのファンタジア」という左手だけしか動けなくなった館野泉氏の委嘱作品で、一柳慧への追悼の意を表したものだそうだ。いろいろ感激した。




2023/05/25

うたごえ喫茶 ゴンドラの唄コンサート

 513日土曜日、ゴールデンウイークがあけた次の土曜日、歌のコンサートがあり、ピアノと篠笛の曲で参加してきました。場所は井の頭線の永福町にある永福和泉地域区民センターで、私は篠笛、ピアノは後藤さんで、我が家の設計をしていただいた建築家です。実は大学の卒業時の同級生です。

会の趣旨は若い頃、流行ったうたごえ喫茶で歌ったことを会のタイトルにしています。主催者のお一人でリーダーの大橋さんはちょうど私と似たような年代です。ただこの会は今回11周年で、コロナ禍でも続けてこられ、多分会が始まったのも11年前のようです。

会は13時から始まっていて、第一部は「みかんの花咲く丘、ハナミズキ、夏の思い出」などをうたったあと、我々が参加したのは第二部からで、ピアノ伴奏による5月の歌、例えば鯉のぼりやせいくらべなどで、そのあと篠笛も参加して、「知床旅情、荒城の月、宵待草、月の沙漠」で、参加者の歌も交えての演奏です。第二部はピアノのある音楽室に移動しましたが、この音楽室は天井および壁をすべて有孔板で覆っています。言い訳になりますが、音を出した途端、全く響かず、一瞬たじろぎました。それ以外にはこの会に対して緊張するようなことは無く、親しげに接していただけました。その後第三部ではお祝いの歌や、ギター伴奏によるフォークソングやウクレレ演奏などもあったようですが、およそ4時になりましたので、ここで早退することにしました。参加者は70歳前後が多いようで、多分このような集まりがあると、いろいろ楽しく話ができます。しかも若い人も参加しています。次回もこのような会が開かれれば参加して、篠笛を演奏してみたいと思います。

私が普段参加しているお囃子の会も、お囃子が地域古来の特殊なものではなく、最近この地域に引っ越してきた人たちも多いので、お祭りの音楽として、気楽に集まる会と考えればより多くの人を集めることができるかもしれません。ただなかなかお囃子の音楽はむつかしいと感じることもあります。

後藤さんとは大学の同じクラスで、考えてみればもう古い付き合いになります。以前ブログでも登場もしていただきました。http://yab-onkyo.blogspot.com/2023/03/blog-post.html

また音響技術者から見ると、今回利用した音楽室は、的確な音響設計がなされておらず、音響技術者のところまで、予算が回ってこないことを感じます。また建築設計から見れば、この地域区民センターは1階が半地下になっていて、多分高さ10m制限をクリアするために苦労したものと思われますが、1階の入り口に入るのに、階段を10段ほど降りる必要があり、身障者は斜路を遠回りして入る必要があります。1階は地盤と同じ面にすべきと思いました。

※本文は後藤さん、大橋さんのチェック済。



2023/05/24

フィリアホールでの澤田智恵とデニス・ヤヴォールスキーのリサイタル

 2023516日(火)にフィリアホールでコンサートがありました。一番の興味は、天井を改修した後で、どうなったか気になっていました。またコンサートの趣旨は、ウクライナ・トルコ・シリアの支援コンサートになっているということです。出演者はピアニストのデニス・ヤヴォールスキーとヴァイオリニストの澤田智恵です。今回のコンサートにはウクライナの関係者が何人か来ていました。また以前はファッションカメラマンで、今は報道カメラマンとして活躍しているヴェラ・ブランシェさんも舞台の上であいさつされました。ロシアがウクライナを侵略した様子の作品がロービーに飾られていました。

フィリアホールは500席のコンサート専用のホールで、1階の間口はステージと同じ幅で、2階のバルコニー席まで入れると17.5mですが、客席は1階の側壁の反射音が重視され、主に側方反射音を大事に作られているようで、音の拡がり感や音に包まれた感じを大事にした音響設計のようです。しかしステージ面積 104 13.7m(幅)× 6.47.3m(奥行)× 13.5m(天井高)とあり、舞台の幅と天井高さはほぼ等しくなっています。したがって音速が340m/sとすると、床面にある音源から側壁からの反射音は13.7/3400.04秒=40ms、天井からの反射音は13.5*2/3400.079秒=79msとなってしまうので、天井からの音は50msを超えてしまい、単独であればエコーになる遅れ時間となり、直接音を補強する音にはなりません。舞台音響の視点からは、もう少し短い間隔で、初期反射音が来るといいように思います。例えばサントリーホールのような浮雲や舞台正面の壁に舞台に返すことができる凹凸面などです。しかしない方が音に包まれた感じで、よいという場合もあるかもしれません。なかなかむつかしいところです。




2023/05/09

ラ・フォル・ジュルネ東京2023 コンサート

 56日土曜日に、清水さんと東京フォーラムのAホールでラ・フォル・ジュルネ東京のコンサートに行ってきました。清水さんは元東京工業大学の連繋教授で、元ヤマハの技術研究所で、前回のブログの「室内音響の歴史と変遷 ―ホールにおける「残響」の歴史―」というテーマに登場してきた方です。ここ東京フォーラムのホールAの音響設計も担当されていました。

ラ・フォル・ジュルネの今回のテーマの「ベートーヴェンは、実は2020年に企画していたが、新型コロナ禍のために、2020年から2021年、2022年と3年間も断念せざるを得ず、やっと4年ぶりに開催ができたようです。


音楽のテーマはについて、パンフレットの中に、べートーヴェンの作品は「ヒューマニズムにあふれ、人間愛と思いやりを今もなお人々の心に届けるという意味においても音楽史上唯一無二の存在です。」とパンフレットに書かれています。

 待ち合わせの約束の時間にはまだ早かったので、東京フォーラムの中庭でサックスのカルテットが演奏をしていたのを聞いてみました。中庭で、しかも音の大きなサックスのために電気音響はひょっとして不要かとも思いましたが、電気音響も使って演奏していました。この場所で結局清水さんと会って、ホールAに行きましたが、ホールA5000名も入るホールなので、お客さんが入場するだけでも時間がかかるようです。日本のホールとしては最大のホールです。舞台間口は30mほど、その他にさらに横に広がっていて、多分客席間口は60mほど、我々の席は舞台からやはり60mほど、2階席後ろは100mほどになりそうです。したがって間口の側壁から反射音があるとしたら、100ms以上は遅れてきそうで、そのままではエコーになってしまいます。したがってプロセニアムや側壁の様々なところにスピーカが設置してあり、残響音を付加しているようです。



演奏の音楽は、やはり舞台の楽器を音源に拡がってきている感じがよくわかりました。側方の反射音による音に包まれた感じは得られていない。ただエコーなどの音は多分スピーカが補助をしている関係から不自然な感じではなく、規模の大きなホールで聴いている感じです。ひょっとしてギリシャの野外劇場もこんな音かもしれないと想像してみました。私もホラインと東京フォーラムの設計コンペに参加して、この5000名のAホールはギリシャ劇場の扇型のほぼ1階席でできている形にしました。この形は、側方反射音はありませんが、天井からと、ところどころから反射音が来るような感じにできるかもしれないと思っていました。この設計コンペには元NHKの浅野さんも参加していました。できていたらどんな音になっていたか気になるところです。いろいろ思い出しました。

ラ・フォル・ジュルネとは熱狂の日というような意味だそうですが、東京フォーラムの中庭でも、またその外の場所でも演奏があったようだし、東京フォーラムの建物の多くの場所で演奏があるようです。たしかに熱狂の日にふさわしい趣向です。テレビの番組でブラジルのサンバの特集があり、サンバの女王がサンバは抵抗(の象徴)だというようなことを言っていた。もともとは黒人が奴隷で生活していた時に、1年に一回サンバを踊れる習慣ができたようです。そういうような熱狂的なものが日本にあるかは正確にはわかりませんが、収穫後の秋のお祭りもちょっとそれに相当しているように思いました。熱狂の日と呼べるように、我々が演奏するお囃子もクラシック音楽で言えばベートーヴェンのような音楽を代表するようなものと思うようになった。