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2021/02/01

横浜市歴史博物館の特別展 『横浜の仏像 しられざるみほとけたち』

横浜市歴史博物館にて特別展 『横浜の仏像 しられざるみほとけたち』(1/23~3/21)が開催されています。

「横浜市域に伝わる仏像を総合的・体系的に紹介するはじめての展覧会です。横浜市が本格的に仏教彫刻の調査をはじめてから半世紀におよぶ文化財調査の成果にもとづき、平安・鎌倉時代の仏像を中心に、新発見・初公開の“しられざるみほとけたち”を紹介し、横浜の仏教文化の実像にせまろうとするものです。」




 ということで興味を持っていました。

また、この展覧会のメインビジュアルに使用されいてる木造の釈迦如来立像は事務所の近くの真福寺にあるものです。1年に一回、4月8日の花祭の時にだけ開帳され、拝むことができます。この仏像については2010年5月6日のブログで紹介しています

上記ブログにも書いていますが、我が家が30余年前にこちらに引っ越ししてきた時の住所は荏田町字釈迦堂谷というものでした。釈迦堂というものは当時から無く、どこにあったものかずっと気になっていました。

ずいぶん前に、やはり横浜歴史博物館で企画展旧大山街道(矢倉沢往還)というものがあり、その中の展示物から、当時我が家周辺に釈迦堂があったことは江戸時代の地図で確認ができました。しかし現在は釈迦堂の痕跡がありません。

荏田の交差点からのびる道路の名前は釈迦道(しゃかんどう)と言い、わが家の南隣に釈迦堂公園というのがあります。周辺にあったのは間違いありません。

昨年ふと我が家の北隣にある戦没者慰霊碑の「忠魂碑」が、もと釈迦堂ではなかったかと考えてみました。それ以外にここぞという場所が見当たらなかったからです。

そこで忠魂碑の由来がわかる資料がないか横浜歴史博物館にお伺いしたところ、都築・橘樹研究会の『都築・橘樹地域史研究2』という本を紹介していただきました。

その中に林浩一著『都築郡山内村忠魂碑について』という文書(p. 112~118)がありました。林浩一さんはお囃子の会のメンバーでよく存じ上げている方です。

そこには、

「大山街道荏田宿・旅籠「柏屋」の青木正一家文書に<中略>『1点目は大正八年(1919)10月5日に山内村在郷軍人分会長 椿徳次郎より柏屋の主人であり、山内村の村長・青木清左衛門[明治37年(1904)~同44年(1911)在職]宛てに出されている。9月5日に山内村在郷軍人分会の総会が行われ、その席で異議なく賛成された「忠魂碑建設ニ関スル件」として「一、位置 荏田石川境釈迦堂(横溝與須[ママ]氏寄附) 二、経費 会員寄附 三、工事 十二月初旬着手」の決定事項を報告している。』」

とあり、忠魂碑が元釈迦堂で、お釈迦様は我が家の隣にあったことがわかりました。

この横溝與須之助は当時山内村の村長をしていて、石川・荏田両村の村境で、両村の融和を願い自身の土地280坪を提供したとのこと。当時の石川村宮元お囃子連も、この除幕式でお祝いのお囃子を演奏したようです。100年たった現在も横溝村長のおかげで石川地区と荏田地区とは仲が良く、もう4年もお囃子を教えていただいている関係でもあります。周辺とはいい関係を築いていく必要がありますね。

このお釈迦様は国指定重要文化財で、展示でも一番目立つところに置かれています。ポスターにあるお釈迦様には光背がありませんが実際には光背があり、より大きく見えて存在感があります。