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2011/07/26

キンボー・イシイ=エト―指揮、新日本フィルのコンサート

 6月11日、すみだトリフォニーホールで、友人であるキンボー指揮による新日本フィルのコンサートがありました。
 曲目は、ドヴォルジャークのチェロ協奏曲ロ短調op.104、モートン・グールドのシンフォネット第2番、バーンスタインの「ウエストサイドストーリー」のシンフォニック・ダンスです。チェロ独奏は向山佳絵子です。
 パンフレットには、坂本竜馬はブラームスより3歳年下でドヴォルジャークより5歳年上とありました。ドヴォルジャークが、ボヘミアからニューヨークに渡ったのは1892年9月、51歳の時だそうです。日本もアメリカも近代が始まって、産業が発展していくまっただ中でした。
その前年1891年にカーネギーホールが、また1900年にはボストンシンフォニーホールが建設されています。ドヴォルジャークはニューヨークのナショナル音楽院の院長として2年半を過ごし、アメリカにクラシック音楽の芽を育みました。その芽から花開いたグールドとバーンスタイン曲のコンサートで、華やかさがあります。

 キンボーは昨年(2010年)第9回斎藤秀雄メモリアル基金賞(指揮部門)(財団法人ソニー音楽芸術振興会)を小澤征爾に推薦され、故大賀さんから受賞している成長株です。
とにかくキンボー指揮の音楽は、リズムが華やかで威勢がよく、音楽は楽しまなくっちゃ、という感じが伝わってきます。

 コンサート終了後に楽屋に挨拶行きました。楽屋ロビーにいらした楽団員の方々に楽しませていただきましたと感謝を述べましたら、シンフォネット、ウエストサイドストーリーはジャズなので、クラシックの音楽家には結構難しいと言われながらも、皆さん満足そうでした。楽屋のキンボーも満足感があふれていました。

 コンサート当日は、ちょうど震災から3カ月目の日でした。キンボーは冗談で、日本に命がけで来ましたと言っていました。震災の後、来日を中止した音楽家は多数いらしたからです。よく来てくれたと嬉しく思います。
 震災の当日は、この新日フィルを指揮するために、ダニエル・ハーディングが会場(すみだトリフォニーホール)に向かっている途中で地震に遭遇、交通機関がすべて止まる中、会場にいらっしゃった150名程度のお客様のために演奏し、歴史的なコンサートになったと新聞にでていました。そして、6月20日に再度、同じすみだトリフォニーホールにて、チャリティコンサートを行っています。ダニエル・ハーディングのインタビューが新日本フィルのサイトに掲載されています。

2011/07/25

京都会館の改修計画案

 京都市右京区岡崎地区にある京都会館の改修計画が話題になっている。開館して約50年、確かに大規模改修時期ではあるが、改修の内容が世界水準のオペラハウスにしようというものだからその賛否が話題になっている。当初はコンサート専用ホールとして設計され、工事途中で多目的ホールに変更をしたため、舞台の上にはフライズ空間はない。したがってそのままではフライズを必要とするオペラハウスはできない。フライズを改修して作ろうとすると周辺地域の都市計画法の高さ制限を撤廃しなければならず、街づくりに大きな変更を伴うことになる。しかも隣の町、大津にはびわ湖ホールがオペラハウスとして存在している。本当に京都にオペラハウスが必要なのであろうか。

 実は京都会館と東京文化会館は同じ1958年(昭和33年)の着工で、竣工は、京都会館は1960年(昭和35年)3月、東京文化会館は1961年(昭和36年)3月である。設計期間は同時期で、設計者は前川國男、外観も相当似た感じの建物である。しかしその後の運命は大分違う。1995年にはコンサート専用の京都コンサートホールができて、京都交響楽団の根拠地が京都会館からコンサートホールに移動してしまい、会館の主目的がなくなってしまった。京都会館側からみれば、京都コンサートホールをつくらず、京都会館をコンサートホール用に改修すべきだったかもしれない。東京文化会館は、東京都芸術劇場やサントリーホールができてからはコンサートが少なくなったとはいえ、オペラの上演も盛んだ。また1998年の大改修では、音響反射板の格納方法を除き、新築時の状態に復原され、ますます公演が盛んにおこなわれ、施設の評価も高い。

 京都会館を、もし世界最高水準のオペラを上演するホールとするためには、フライズも含め大規模に改修しないとオペラハウスは成立せず、原型が無くなってしまう。またオペラハウスに改築できたところで、びわ湖ホールと競合し、しかも維持費がかかるために、どの程度上演できるか心配も残る。

 京都コンサートホールが存在する今となっては、京都会館の存在意義が少なくなってしまっている。それであるならば、歌舞伎の発祥の地である京都の京都会館を、日本の芸能を目的とする劇場としたらどうであろうか?桟敷席や花道を作り、歌舞伎が上演できるような舞台・客席空間としたらどうだろうか。大きなフライズも必要がない。南座と補完しながら、日本の伝統芸能を発展させる場所となるであろう。桟敷席の作り方は、弊社が関わった清瀬けやきホールの様な桟敷席の方法も提案できる。現在のような6角形の平面プランの場合には、壁から得られる初期反射音が客席に反射して来ないために、舞台からの直接音を補強することが難しいが、一段高い桟敷席をつくることで、側壁ができ、初期の側方反射音をもたらすことができると考える。

2011/07/22

海の中の音

 6月2日(木)の朝日新聞に「「音→エサ」サケに訓練」という記事があった。岩手県山田町で、サケの稚魚に対して「音」に反応して餌を食べる全国初の「学習」を開始していた。震災の9日前にスタートしていたそうだ。養殖池で水中スピーカから100~200Hzの音で合図を出し、それと同時に餌を与える試みで「音が鳴れば食事」と覚えさえる訓練である。放流した後も大きく育てられるよう、湾内で音を出して1個所に集めて餌をあげると効率的だと考えられた。しかし震災の停電により、2日目後には稚魚は学習の途中で放流することになったそうだ。とても興味深い試みであり、残念である。実験に使用されていたものが、どんな音であったか分からないが、魚にとってきっと心地よい音だったに違いない。
しかし、魚にとって心地よくない音もあるようだ。鯨類学者 Norris らが1983年に発表した論文によれば、イルカやクジラなどの鯨類は、餌となる魚やイカなどの獲物を、まともに追いかけて捕るのではなく、大きな音を出して殺した後に食べているのではないかという仮説をたてた。これは、マッコウクジラの胃の中からでてきたイカには、まれにしか歯形がみあたらないことから想定したものだ。

 さらに「ダイオウイカを殺すソナーの騒音」として、ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト( 5月4日(水)18時20分配信)に掲載された記事が興味深い。

 2003年ころスペイン沖でダイオウイカの死骸が多数見つかった。その原因は船舶が発する低周波パルス音(石油・天然ガスの探査のため)ではなかったかと推測されたが、当時は証明できなかった。今回、カタルーニャ工科大学のアンドレ氏の研究チームが実験を行い、頭足類4種(イカ・タコなど)計87匹に対して、50~400ヘルツの低周波音(海軍のソナーや石油・天然ガス探査時など海洋で発生する標準的なレベルを想定)を、157~175デシベルの強さで2時間暴露させ、暴露終了直後と最大96時間後に被験動物を絶命させたとある。騒音で魚を殺害してしまうというのは驚きだ。海にも人間の活動による騒音公害が存在し、それが地上以上に深刻な可能性もあることが分かる。

 ちなみにダイオウイカとは、体長16mにもなる深海にすむ巨大イカで、海底2万マイルの映画に出てきた化け物イカを思い出させる。

2011/07/08

劇団ひまわりの「アンネ」公演

4月頃、上野駅で横浜ボートシアターの仮面など小道具を作成している関野さんにばったり会い、その時に、劇団ひまわりの「アンネ」のチラシをいただきました。関野さんはこのアンネ公演の衣装を担当されており、浅草に衣装を買いに行かれた帰りとのことでした。

しばらく前の話になりますが、この公演を5月12日に観に行ってきました。ちょうど大震災から2カ月の頃です。
会場は、劇団所有の稽古場兼ホールのシアター代官山、劇団ひまわり60周年記念公演です。演出は山下晃彦で、元横浜ボートシアターの小栗などを演じた俳優であり、今は演出家として活躍されています。

舞台の始まりでは、劇場が暗くなり、どこからともなく明るい笑い声が聞こえてきます。次第に大きな声になって何人かの妖精が明るい笑い声を発しながら客席後方から登場します。これから始まる悲劇をより浮き立たせるかのように。

物語は、ユダヤ人であるアンネの家族がナチスから逃れ、街の中の事務所の屋根裏に隠れるところから始まります。外部の暴力的な状態とは対照的に、隠れ家では同居者との日常的な小さないさかいや、15歳の若いアンネがスターになる夢を描く場面、そして自分が死んでも命が続くようにと日記を書きつづる日々が描かれ、その日常と悲劇とのギャップが身につまされます。

アンネは1945年第二次世界大戦がまさに終わろうとしている3月に強制収容所の中でチフスにより亡くなってしまいましたが、その翌月の4月にヒトラーは自殺、ドイツは5月無条件降伏をしています。

この公演では、最初の妖精の登場の仕方、コロス(古代ギリシャ劇の合唱団)が出てきたり、また人々の心の模様をガムランの音楽で表現するなど、横浜ボートシアターのDNAを感じます。妖精は、アンネの心を表現する役割を果たしており、最後にも登場して彼女の夢や希望が今も我々の心に残っていることを感じさせました。