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2024/10/30

建築音響の交流の歴史 その10

 建築音響の交流の歴史その9では、劇場の形態と、演技者と観客さらに観客同士の交流が必要と書いた。今回は日本の伝統的な空間の響きについて述べる。

 以下の表には、いくつかの芝居小屋や、多目的ホールの音響反射板状態の杉田劇場、ふね劇場、歌舞伎座(旧)、神奈川大学のセレスとホール、多目的劇場の鹿角市交流プラーザに加え、つくば古民家(つくば酒井泉邸)の残響時間測定結果をあわせてグラフに示した。500Hz帯域で考えると、音響反射板を設置した杉田劇場が一番長く、次は歌舞伎座、その後は芝居小屋やふね劇場があり、この中ではつくば古民家は0.4/500Hz程度と一番残響時間が短く、響きが少ない。

このつくば古民家の残響時間が0.4/500Hzと短い状態からクラシック音楽ができるように改修してみたいというのがつくば市の酒井泉さんの希望であった。


古民家からクラシックホールへの改修案:

パターン1:板襖(ベニア厚15mm)、屏風折れ音響反射板(設置90cm、縦180cmの音響反射板を10枚、内訳は、舞台の後に4枚、客席の後ろにある障子用に2枚、ガラス戸を隠すために4枚)を用いた。床は畳、木製ベンチ(194人掛)

パターン2:板襖、屏風折れ音響反射板設置、床は8畳間のみ板に変更、10畳間は畳のまま

パターン3:側面の屏風を連結し設置。後はパターン2と同じ

パターン4.舞台正面の屏風折れ音響反射板をガラス戸(共振と思われる160200Hz帯域の残響時間のディップ)に密着した。後はパターン3と同じ

パターン5:パターン4に加え、ベンチに座布団を置く。





                 図 残響時間測定結果

残響時間の測定結果は、和室の対策前と比較して、襖を板襖とし、8畳の畳を板とすることによって、残響時間が0.41秒から0.56秒にまで変化した。しかし座布団を置いたことで、0.44秒まで、短く変化してしまっている。また変化の仕方は1000Hz帯域のほうが大きく、対策前では、0.42秒であったが、パターン2では0.61秒まで変化している。したがって紙の襖を板襖とし、8畳分であるが、畳を上げて板床とすることで、残響時間は0.14秒長くなり、響きも感じられるようになった。

 

中高音域では、対策効果が得られているが、低音域(100200Hz)では、大きな効果が得られていない。しかし屏風折れ音響反射板が設置されている近くでは、拡散効果のためか、またガラスに直接音が当たらないためか、残響時間が長くなっている。しかし低音の吸音は、ガラス戸以外に、天井の杉板の板振動によるものも考えられる。

また10畳の畳も上に長尺塩ビシートを設置して、残響をさらに長くする。このことで、残響時間は500Hz以上の周波数帯域で、座布団が無い状態で、0.7秒ほどとなることが想定できる。その場合には人が在席しても残響時間は0.5秒ほど、平均吸音率は0.2程度で、一般のコンサートホール並みの値となり、残響感が感じられるようになると考えている。

これらのことで、ある程度クラシック音楽に対しては演奏しやすい、また聴きやすい空間ができると思う。ただし屏風が増えると圧迫感が生じ、美しい庭の景色が望めなくなることもある。また長尺塩ビシートが材質的に和室の雰囲気と合わないことも予想され、すべての床を8畳と同じような板材が好ましいとも考えた。

 ひるがえって、音楽はクラシック音楽だけではなく、箏や三味線や篠笛や尺八や琵琶などの日本の楽器による音楽は、和室、そのままでもいいかもしれない。さらにトルコのサズやカザフスタンのドンブラ、コヴィズやキルギスタンのコムズやタジキスタンのドゥタール、インドネシアのガムランや中国の二胡、横笛バウ、韓国の横笛デグム、インドのシタール、イタリアのマンドリン、スペインのフラメンコギター、、、、、数えきれないほどたくさんの音楽がある。ただ演奏者は多分圧倒的にクラシック音楽に関係している人が多く、観客も聞きなれている人が多い。ただ様々な音楽を聴く人は確実に増えてきている。

そういえばつくば市の北部の北条(ほうじょう)という街に宮本家の住宅があり、その穀物倉庫で、コメのなくなった季節にクラシック音楽会をおこなっているとのこと。なかまで見せてもらったことがあるが、実際のコンサートは聞けなかった。また栃木県の宇都宮市近く、東北自動車道脇の西方町に、西方音楽館『木漏れ陽ホール』がある。たしか倉庫を改装して作ったクラシック用のホールがあり、永田先生の音響設計で、永田先生に誘われていったことがある。一応主に反射材を用いて完成してから、吸音材などで音響調整をしているとのこと。このことをテイラーメイドと言っていた。また隣には土蔵造りを改装して、『馬酔木(あしび)の蔵』という名前で、オルガン用のホールに変わっていた。ただいずれもクラシック音楽が対象となっている。

クラシック音楽は、多分ゴシック教会などキリスト教会の空間と関係があるように思う。またこの響きと音律の純正率も関係があるように思う。BC500年、ギリシャ時代のピタゴラス音律は、いかに唸らないかを追求してできた音律であるが、それをドとミとソをあわせた和音として成立したのが純正律で、教会の中で賛美歌がきれいなハーモニーとなるように作られたのだと思う。このきれいなハーモニーをつかって曲を作り出したのが、クラシック音楽ではないかと思う。ただ正確には、純正律を進化させて、ヴェルクマイスター音律、キルンベルガ―音律、つぎに中全音律をモーツアルトが、ウエルテンペラメントはベートーベンが用いているようで、強いて言えば歴史的産物ともいえる(参考:窮理社のホームページhttps://kyuurisha.com/talkmusic-no23/)。そういう関係からかキリスト教会の鐘は、唸ることがなく、ここに神がいると伝えているような気がする。これに反してお寺の梵鐘は、音が唸ることによって、人々の願いが天国に伝わるような感じになっている。キリスト教会の内部と比較して、お寺の本堂は、残響時間が短い。日本の芝居小屋も歌舞伎や人形浄瑠璃を対象としているせいか、音楽や音声が含まれており、残響時間が短い。また日本の古民家の和室も上記に示したように残響時間が短い。日本の伝統的な空間は、ヨーロパのクラシック音楽の空間と比較すると残響時間が短い。したがってザ・シンフォニーホールやサントリーホールが出来るまでには時間がかかった。クラシックコンサートホールは、従来の日本の空間とは音響的には別の考え方が必要である。ただ多くの人が今はピアノやヴァイオリンなどのクラシック音楽に向いているが、音楽はそれだけではないということを思い出してほしい。お祭りのお囃子もかつては身近なものだったと思う。だんだんこのような音楽もまた必要になってくるような気がする。そういえば私がときどき行く東京都大田区馬込の善照寺では、1か月に一回雅楽を練習していて、催事があるときにそれを披露するとのこと。そういえば、1020日に書いた建築音響の交流の歴史その9のブログには、山口県の楽桟敷で、雅楽の公演があると書かれていた。次第に身近になってくるような気がする。

 

2024/10/26

三渓園 鶴翔閣での『手仕事に学ぶ錦秋Vol.8』という展示会

 三渓園は、外苑と内苑と旧矢箆原家住宅(合掌造り)とこの鶴翔閣(かくしょうかく)からなる。ほとんどの建物は重要文化財であるが、この鶴翔閣は横浜市指定有形文化財である。外苑は明治39年に一般に向けて開放されてたエリア、内苑は原家が私庭として使用していたエリアである。有名な臨春閣はこの内苑にある。今回展示会が行われる鶴翔閣は明治35年(1902)に原家の住まいとして建てたとのことだが、現在、様々な利用に対応可能な貸出施設となっている。

この展示会は1024日(木)から26日(土)の3日日となっていて、私が見学したのは1024()である。初日で、また平日であったのに、お客さんはたくさんいらしていた。写真:外が見える廊下の部分には、外はガラス戸が入っているが、平安時代の源氏物語の世界は、このガラス戸がない状態が普通だったように思う。月や外の庭園はよく見えるが、冬は雪もよく見えるし、寒いだろうと思う。十二単が必要だ。たくさん着ないと冬は寒いに違いない。しかし明治時代になってガラス戸が入って、冬でもかなり寒さは防げると思う。このようにすれば庭も冬でも楽しめると思う。

ところで、中央にある大池には、コイや鴨、さらにアオサギもいた。写真を撮ろうとしたら、飛んで行ってしまったが、これは多分、遠くで人がコイに餌をあげたのをついでにわけてもらおうという魂胆だ。生きているアオサギだ。アオサギの像のある目白庭園と大違いだ。

                   写真:鶴翔閣

            写真:建物入り口脇に置いてあった絨毯の一部

       写真:外をみれる廊下が広い、当時はここで楽しんでいたものと感じる。ガラス戸が現在はあるが、平安時代は、そのまま外部だったのかもしれない。空間は広く、和風のため、静だ。

         写真:畳の上に敷物が敷かれている。この部屋も外がよく見える場所だ。

 







2024/10/22

自由学園明日館および講堂の見学

 日時:20241019日(土) おおよそ11時から 曇り

場所:自由学園明日館および講堂、池袋駅近く、

施主:羽仁もと子・吉一夫妻、設計:フランク・ロイド・ライト+遠藤新、ライトが帝国ホテルを設計中に、同時にこの自由学園の設計を依頼することが出来たようだ。

元飛島建設 設計部の松本聖一郎さんの提案で、自由学園明日館および講堂と、さらに目白庭園にも行ってみた。自由学園は、池袋駅の東京芸術劇場近くを出てから、少し迷路のような細道を10分程度で歩いて行ける、主に平屋建ての校舎である。パンフレットによれば、大正11年(1922)に中央棟、西教室棟が、大正14年(1925)に東教室棟が、昭和2年(1927)に講堂が完成したと。現在は、自由学園そのものは東久留米市に移転した様で、この建物は、関東大震災や第二次世界大戦の時の大空襲でも焼かれず、無事残ることが出来き、さらに東久留米市に移動した後は、この建物は明日館として卒業生の活動の拠点として残したようだ。現在は重要文化財となっているが、生きた文化財として結婚式などにも貸し出されて活躍しているようだ。今日は、一般に開かれた見学日とされている。

敷地の入り口を入ると、まず中央のホールの外観が目に付く。ステンドグラス風の窓は、コストのために、実は木製で出来ている。女学校当時には、毎朝礼拝をしていたとのこと、またこの北側に半階上がって食堂となっていて、更に半階のぼると展示室がある。南の光はこの展示室から食堂に流れるようになっている。

講堂は道を隔てて、反対側にある。写真は、松本さんが声を出したり、手をたたいたりして、響き具合を調べた。実は建物には吸音材風の材料が見当たらず、長椅子に椅子に合わせた座布団が設置されていて、これが吸音材の役割をしているようだ。したがって声は大きな響きもなく、声はよくとおっていた。

 また各室に暖炉があるようだが、各室床に長細い大きなガラリがあり、床吹き出しの空調もついていた。大正時代の建物だが、この様な設備は一般的な学校にはなく、私の経験でも、70年前の小学校では、各教室にダルマストーブがあるだけだった。このように様々なところが、手が込んでいて、サッシもステンドグラスのような木製の桟があり、壁にも模様があった。またホールには生徒が書いた壁画があった。光の取り扱いも食堂を見るとよくわかる。講堂も響きの調整をよくしていると感じた。やはり重要文化財と感じた。


                   写真:中央のホール外観

            写真:中央ホール内観、人物は松本さん、この反対側には暖炉がある。

         写真:半2階の食堂 部屋中央に暖炉があり、更に半階のぼると展示室がある

             写真:食堂の照明、ライトらしいデザイン

            写真:講堂、声が通るか実験をしているところ




ここを出て目白駅に向かう途中に和風の目白庭園があった。かつて武家屋敷だったのではなく、赤い鳥という雑誌を記念して作ったようだが、その後豊島区の施設となったようだ。自由学園を見た後なので、一息入れた。池に向かってあずま屋があり、そこから池の錦鯉が見れた。さらにアオサギの像が池の縁にあった。この風景は、毎朝早淵川を散歩しているときの風景に重なる。コイは同じような大きさのコイが20数匹、川の中で泳いでいる。またアオサギやシロサギや鵜や鴨はその時々でいて、もちろん生きているものだ。何となく比較してしまう。早淵川の方が自然、生きた世界で、しかも美しい。この庭園は美しいが、アオサギの像は不要な気がする。

2024/10/20

建築音響の交流の歴史 その9

 日本の芝居小屋いくつかの音響測定時に、計測した舞台間口、開口高さ等の実測値を表に示す。また旧歌舞伎座の実測した舞台間口も示した。この表では、芝居小屋の舞台間口は、呉羽座が一番小さく9.89m、一番大きいのは嘉穂劇場で16.5mである。歌舞伎座は27.5mであるので、意味は違うとおもわれるが大歌舞伎といわれるゆえんだ!

表 舞台間口、高さ等

 

舞台開口間口

舞台開口高さ

舞台奥行

鳳凰座

舞台間口13.81

軒高3.78

奥行8.13

八千代座   

舞台間口13.23m、

高さ4.26

舞台奥行10.21

嘉穂劇場

舞台間口16.50

高さ5.85

奥行17.37

金丸座

舞台間口14.44

簀の子まで6.11

舞台奥行8.96

村國座

舞台開口10.59m 

桟敷席まで5.63

奥行9.998

康楽館

舞台間口10.63+αm

 

舞台奥行12.7

ながめ余興場

舞台間口12.74

 

舞台奥行9.1

呉服座

舞台間口9.89

簀の子まで5.33

舞台奥行16.43

相生座

舞台間口12.58

舞台高さ3.6

舞台奥行 8.04

旧広瀬座

舞台間口11.56

舞台高さ5.14

舞台奥行7.28

歌舞伎座

舞台間口27.5

 

 

旧共楽館※

舞台間口は12.1

 

 

※共楽館のホームページより

たとえばギリシャ劇場の舞台間口と比較する。たとえばヘロディス・アッティコス劇場の観光案内の写真から推測すると、観客席の間隔を0.9mとすると約21.7m、1mとすると約24.1mとなる。観光案内には、『ローマ時代に入った後の紀元後161年に建造されたこの劇場は、ローマ式の音響が非常に優れた構造で、現在でもアテネフェスティバル芸術祭の主会場として活躍しています。』 

清水裕之著 劇場の構図のp.17には、『ギリシャ・ローマ劇場をはじめとして、能舞台や歌舞伎劇場のように完成度が高い、固有の劇場という型を持つ空間の考察では、観る側と演じる側は、明らかに異質な存在として扱うことを前提とされてきた。、、、この傾向はプロセニアムステージ形式の劇場が発達し、技術的に舞台を客席から切り離して論じることができるようになったことで、益々強められた。、、、、、、舞台と観客は、さまざまなかかわりにより互いに影響を及ぼしあうもので、決して一方だけで完結した空間ではありえない。』 この本では劇場の視軸がテーマになっている。私はプロセニアムステージによる舞台は、プロセニアムの額縁と舞台と客席に間の段差が大きいことから、舞台と観客が分断されていることは感じることがあるが、歌舞伎の芝居小屋や能舞台からそのようなことを感じることは少ない。ギリシャ劇場は公演を見たことがないのでわからないが、ギリシャ悲劇を主の公演とすると、日本の神楽のような話とかなり近く、観客と舞台は一体化していて、プロセニアム型の劇場とは大きく異なるような気がする。観客は舞台に向かって集中してるが、観客同士も見合うことができる。能舞台も芝居小屋もそうだ。特に芝居小屋は、花道、仮花道やそれらを横に結ぶ通路や桟敷席などが観客と一体化させる要素になっている。


ヘロディス・アッティコス劇場(撮影:ユーラシア旅行社)

 

日本建築学会編 建築設計資料集成2の劇場の舞台の項目(p.185)で、プロセニアム比較図というのがあった。この図に八千代座と金丸座とギリシャのヘロディアス・アッティコス劇場のプロセニアムの大きさを比較した(図示)。

八千代座(舞台開口の高さ4.26m)や金丸座(舞台の簀の子まで6.11m)は、ウイーンオペラハウスの舞台の高さは12mと大きく違うが、八千代座、金丸座は1314mで、ウイーンオペラは14mと舞台間口に近く、ヘロディアス・アッティコ劇場の円形の舞台は約22mとすると、リンカーンセンターのオペラハウスの舞台間口の近くに存在していた。旧歌舞伎座は舞台間口が27mもあるため、この図では最も大きい舞台となっている。ギリシャ劇場のほぼ円形の舞台とほぼ半円形の客席は舞台の間口は20m強なので、まあまあの大きさだが、客席の収容人員は1万人ほどいて、この形態は現代のポップスのコンサートで1万人ぐらい観客を集める装置として客席が舞台にいずれも近く、好ましい形だ。ただしその場合でも電気音響は必要と思われる


音響的にも、芝居小屋の残響時間は1秒以下で、音声と音楽が適度に好ましい響きとなっている。壁は障子や土壁でできていて、適度に吸音や反射が出来ている。

初代歌舞伎座は明治22年(1889)に、洋風の外観、内部は日本風でつくられた。芝居小屋の伝統から来たものではなかった。芝居小屋は同時期には、相当な数で作られていたが、現在は、文化財として残っているだけで、現在ある多目的劇場には伝承していない。最も伝承しているのは、平成中村座かもしれない。この劇場は中村勘三郎が、多分赤テントや黒テントに刺激されて、移動できるテントで芝居小屋の形のものを2000年に作ったようだ。浅草に仮設芝居小屋として設営されたが、その後、最近は姫路などでも公演したらしく、NHKEテレで放映されていた。最後に舞台後部のテントをあけると姫路城がくっきりと背景になっているのは、以前、相当前に赤テントが新宿で公演したときに、最期に幕を上げるとブルドーザーのシャベルの部分に人が載って、超高層を背景にその時の状況を表して、くるくる回っていることを思い出した。この平成中村座は、観客席にもその周辺に桟敷席があり、舞台の上手・下手にも2階部分が桟敷席になっていて、プロセニアム型の1方向の視軸とは大きく異なる。

この視軸の観点からは、芝居小屋に似た形式の劇場、すなわち舞台と平土間の立ち見の客席とその周辺に3層の桟敷席がある劇場がある。ロンドンにある現代再生されたシェークスピアのグローブ座(木造)やスペイン アンダルシアにある世界最古(1628)の木造のアルマグロの劇場(Corral de comedias de Almagro)は芝居小屋と似た形状となっている。

  


引用:只木良也 森林雑学研究室ブログ2020.01 イギリス訪問記かららグローブ座の写真

http://shinrinzatsugaku.web.fc2.com/150zatsugakulogo.jpg



               写真引用:YABブログ:スペイン アルマグロの劇場

          http://yab-onkyo.blogspot.com/2018/11/almagro.html

これらの劇場は、現在は演劇などに使われているようだ。日本の芝居小屋は、現在は歌舞伎や人形浄瑠璃などに使われているが、現在の多目的劇場でも、私が関係した横浜の横浜市の杉田劇場は、舞台の近くには上手下手側に桟敷席を設け、花道もせりあがって設置できるようになっている。今後、多目的ホールもプロセニアム劇場ではない形も検討すべきだと思う。

また川越市にあった芝居小屋の鶴川座は、老朽化が激しく、再建運動も盛んだったが、結局、インバウンド用の旅館に変わってしまった。川越市は伝統絵的建造物保存地区として認定され、歴史的な建物の保存で成功しているところだったのに残念だ。

今から考えると、オペラハウスの最終の形は、バイロイト祝祭劇場のような気がする。平土間席を囲む桟敷席はなくなり、オーケストラピットは舞台の下に、半地下に埋まり、音もこもった感じになって、観客にはオーケストラは見えず、プロセニアムのなかの舞台に1方向で集中するような形になっている。しかしこの形はバイロイトだけに価値があるが、多分この形を日本の多目的ホールが踏襲するような形になっているような気がする。さらに清水裕之の「劇場の構図」ではその関係を批判的に書いているような気がする。

ギリシャ劇場の場合には、すり鉢状の客席床や舞台背後の建物、スケーネなどによって、初期反射音が得られているので、多分残響は大きくはないが、声や歌や楽器などの演奏などに好まし響きとなっている。Beranekの著、「Music, Acoustics & Architecture」『音楽と音響と建築』の本のp.11のギリシャの劇場の項で、「最期に、ギリシャ劇場は、その時代や場所とその目的のみのために大成功であった。今日の音楽の演奏項目、特に19世紀に作曲された音楽の演奏に対してはすぐれているということは、音楽についての神話の一つとされている。」 この言葉は、以下のブログに示している。 

http://yab-onkyo.blogspot.com/2024/09/7.html

これはサントリーホールのような残響2秒の響きのあるホールを指している。

ギリシャ劇場の公演内容については、以下のCommedia 音楽と建築、そのデザイン2011417日日曜日 ギリシャ・ローマの古代劇場という加藤宏之氏のブログにあった。

https://sadohara.blogspot.com/2011/04/blog-post_17.html そこから引用させていただいた。

『(聖地に建つ劇場) ギリシャ悲劇はディオニュソスの祭礼が始まり、そのための劇場は神と合一の祝祭空間から始まった。ギリシャ劇場は満天の空の下、オルケストラという演技の場を、神である自然と、観客である人間が半円ずつを正円として囲むことで、デザインされる。、、、アテネのディオニュソス劇場、デルフィーのアポロン劇場、アッティカのエピダウロス劇場、ギリシャでは劇場のあるところはどこも聖地だ。』

『(ディオニュソス劇場) 豊壤の神ディオニュソスの大祭では悲劇の上演がメインイベントとなっている。、、、競演は十人の審判員によって審査され、瓶の中に投じられた十票から任意の五票が抜き出され、順位が決定された。判定そのものは偶然性によるのだから、審査そのものもゲームを楽しむお遊びのような雰囲気。しかし、選ばれた作品の数々、そのリストは現在でも残されていて、アイスキュロス、ソポクレース、エウリピデス、アリストパーネスの幾多の作品が記録されている。野外劇場は朝はやくから詰めかけた二万人近い観衆で一杯。普段はあまり外に出ない若い女性たちにとって、劇場は公に男性たちと同席できる格好の機会。隣邦からの外交使節や観光客はもちろん、子供たちや奴隷たちまで、アテネ中の人々は葡萄酒や無花果、オリーブの実をかじりながら、春の陽や風と共に演技の進行を楽しんだ。、、ディオニュソス劇場は紀元前六世紀 アゴラ(広場)でのお祭りをアクロポリスの中腹に移したのが始まりと考えられている。』 『(エピダウロス劇場)、、紀元前四世紀の建設とされるこの劇場、、、彼はアスクレピオスの神殿の直ぐ脇に円形の建築トロス(円形建築)を作った。、、、、、その建築の直径はほぼ20m、エピダウロス劇場のオルケストラの直径と全く同じだ。』  

『(オルケストラとスケーネ)、、、ギリシャ劇場ではオルケストラこそ見られることの中心、しかし、ここは平坦ではあるが舞台ではない。オルケストラの周囲は白い石灰岩、円形の中央の小石は祭壇の位置を示している。劇場は古代の宗教建築の一つ、アテネのディオニュソス劇場ではオルケストラに神体が置かれていた。ディオニュソス祭は農耕における豊穣の祝祭がその発端。祝祭では仮に旋律はなくとも、農作業で必要となる歩調を合わすかけ声、ある種の唱和は日常的であったに違いない。従って祝祭から演劇が形成される過程では単純なリズムを持つ斉唱的歌曲が中心となったと考えられている。こうした中、ギリシャ劇では合唱隊が組織され、祝祭の場であるオルケストラは音響効果がもっとも重視されていたとことが理解できる。』

小谷喬之助著 「現代の劇空間」のp.5に『現在残っている、アテネ、アクロポリスのディオニソス劇場、エピダロウス劇場は、紀元前4世紀後半に建てられたものといわれている。すなわち、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの三大悲劇詩人や、アリストパーネスなどの作品を次々に上演されていた時代は、今に残る石造の劇場ではなく、粗末な木造の劇場であったのである。』 昭和501月発行とある。1975年のことである。小谷喬乃介氏の本の内容と加藤宏之氏のブログの内容と大きく異なる。加藤宏之氏のブログでは、ディオニソス劇場は紀元前6世紀、エピダブロス劇場は紀元前四世紀の建設とあるが、小谷喬乃介氏の本では、ギリシャ悲劇の作者が生きていた時代とディオニソス劇場やエピダブロス劇場が建てられた時とは時代が違っているというのが根拠である。

ユーラシア旅行会社のHPでも、『古代演劇の中心であったアテナイ(アテネ)。アクロポリスの丘の南側には紀元前6世紀頃に建造された最も古い古代劇場の一つ、ディオニソス劇場が佇んでいます。残念ながら保存状態はあまり良くなく、その西側にあるヘロディス・アッティコス劇場の方が目に留まるでしょう。』とあり、ディオニソス劇場は紀元前6世紀ころと書かれている。

Beranekは本の中で、『ギリシャ劇場は、その時代や場所とその目的のみのために大成功であった。』 この目的のために大成功とは、『豊壤の神ディオニュソスの大祭では悲劇の上演がメインイベントとなっている。』 この歌や踊りや演技をほぼ半円形の1万とか2万の客席から生音できいたりすることができることが、Beranekの言いたいことのようだ。

 ただ先日(2024.10.6)、ドイツのワルトビューネコンサートWald(ヴァルト=森)+Bühne(ビューネ=舞台)」というベルリンフィルをキリル・ペテレンコが指揮するコンサートがNHKEテレのクラシック音楽館という番組で、放映された。ワルトビューネはギリシャ劇場の形状をしていて、半円形の客席に2万人が入っていた。オーケストラ(半円の平らな部分)には各自シートを敷いてその上に座って聞いていた。舞台は観客席最前列から2mほど高くなっていて、下部にはスピーカがたくさん並んでいた。大きなスクリーンも上手下手にあった。曲目はムソルグスキーの禿山の一夜やプロコフィエフのピアノ協奏曲1番、ラベルのボレロなどで、アンコールはベルリンの風というので、その時には観客は拍手をしながら立ち上がって、聞いていた。最近の軽音楽のコンサートのようだ。これは電気音響を併用する形ではあるが、Beranekの意見とは大きく違っている。ただここでのピアノの音は、マイクを通した音ではあるが、ホールで録音した音と違い、ちょっとかたい音になっていた。

                    写真:ドイツ旅行会社 GERMAN EXPRESSのホームページから引用

しかも来年(2025)の夏には、このベルリンフィルのコンサートは河口湖ステラシアターで公演すると宣伝されていた。

 このことはギリシャ劇場がBeranekのいう話から大きく展開していることがわかる。もちろんベルリンフィルなのでクラシックコンサートである。先日のNHKEテレのクラッシク音楽館でも、ウイーンフィルがシェーンブルン宮殿で、夏の宮殿との間の庭園で、野外コンサートをしていた。これも観客は1万人とか2万人がいて、もちろんスピーカによる拡声を行っていた。

このギリシャ劇場よりかなり規模は小さいが山口県長門市の赤崎神社楽桟敷を調べたら、読売新聞オンラインで、楽桟敷で雅楽の演奏会(2024.10.16)を計画しているというニュースがあった。ここで今後コンサートやファッションショーなどに利用するきっかけにしたいとのこと。ここで言っている内容に合致する話だと思う。

                   写真:楽桟敷(読売新聞オンライン)

 先日のウクライナ支援のコンサート(http://yab-onkyo.blogspot.com/2024/10/2024-vol5.html)で、最期の曲「ヘイ・ハヤブサよ!」を観客は手を横に振って、曲に合わせていたが、まるでポップスのコンサートの様だった。これも演奏者と観客の相互の交流のかたちだ。劇場は、演技者と観客または観客同士の交流があり、演技者と観客が一体となることが劇場に求められる姿のような気がする。

  2024.10.23 一時 雨が降ったので、センター南駅前のすきっぷ広場は濡れていて人が座っていなかった。普段は多くの人が座っている。ただここで最近では里山まつりが計画されていると掲示板に出ていた。この楽桟敷を書いた後に、そういえば家の近くにもこのような広場があることに気が付いた。身近な存在だった。この隣には都築公会堂があり、クラッシクコンサートが計画されているともあった。

           写真:センター南駅前のすきっぷ広場(雨上がり)

       写真:11/5(火)センター北駅の前にも同じような形態の場所があった。



2024/10/15

日本ウクライナ国際芸術祭2024 日宇ア-ティスト達の饗宴vol.5

 日時:20241014日(月祝) 14時より1630

場所:藤原洋記念ホール(日吉 慶応義塾大学)

主催:日本ウクライナ芸術協会

出演:ピアノ:デニス・ヤヴォールスキー、ヴァイオリン:澤田智恵・芸術監督、朗読:武松洋子、

アルトサキソフォン:五十嵐健太、バレエ:ワディム・ソロマハ、同:依藤由紀、シチェドリク合唱団、男声合唱団「羅漢」、ウクライナ日本芸術合唱団(ウクライナから避難してきている横浜在住の女性たちからなる)

曲目:1.アメイジング・グレイス、ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲 ピアノリダクション版(1948)伊福部昭作曲、バラード第2番 リスト、4.ポーギーとベスのテーマによる幻想曲 ガーシュウイン、休憩、5.サクスフォン、-オレナさんの青空スピーチ-、ヴァイオリン、ピアノのための三重奏 ペーターソン作曲、6.赤とんぼ、7.バレエ パドドウ 月の光、ドッビュシー、-オレナさんの青空スピーチ-8.バレエ パドドウ メロディ M.スコリク、9. 詩「珊瑚のネックレス」作詞 ナタリア・パラモノーヴァ、10.マリーゴールド、11.ヘイ、ハヤブサよ!

いままでこのコンサートは3回ほど行っている。過去の2回は次のものである。

ウクライナへの祈り 日宇ア-ティスト達の饗宴since2018のコンサート

(ブログ http://yab-onkyo.blogspot.com/2024/06/since-2018.html

2024611() 1900 青葉台のフィリアホールで、

ウクライナへの祈り 日宇ア-ティスト達の饗宴vol.3のコンサート は2023101日で、今回と同じ藤原洋記念ホール(ブログ:http://yab-onkyo.blogspot.com/2023/10/vol3.html) 

前前回の藤原洋記念ホールから、ほぼ1年経てしまったが、ロシアとの戦争はまだ終わっていない。ウクライナから避難をしてきた女性たちで、横浜に住んでいる人たちが結成したウクライナ日本芸術合唱団は、総勢20名近くになる。この人たちの唄が、会場を盛り上げていた。またバレエも素敵で、素晴らしく感じた。最後の曲は出演者全員総勢40名ほどが、11番のヘイ・ハヤブサよ!をうたって、会場の皆が手をたたいて拍子をとった。さらにアンコールでも同じ曲を歌って、会場の皆さんは手を挙げて横に振って盛り上がった。私の通路隔てた横には、ウクライナの駐日大使夫妻が、その横には日本のウクライナ駐在大使夫妻がいた。私の隣の席には、澤田さんのお父さんとジムでの知り合いがいて、親しくお話が出来た。澤田さんのお父さんからの紹介でこのコンサートに来たとのこと。どうも会場は知り合いが多そうで、和気あいあいの盛り上がりだ。芸術監督・ヴァイオリニストの澤田さんの力だ。ロシアとウクライナの戦争がきっかけで、このようなコンサートが開けていると感じるが、この戦争が早く終わって平和な世界が来るとことを望むが、一方で、このような和気あいあいのコンサートは続けられるといいと思う。これも澤田さんに期待するところだ。

※バレエの時には軽々と踊ったりしていたが、着地の時の音が少し大きい。多分床が薄いのかもしれない。その他音響的には素晴らしいホールと感じた。

※音楽はマイク無し、拡声なしであったが、朗読はマイクを用いていた。先日書いた横浜ボートシアターの講演で、講演はマイクを使用して、その中の朗読はマイク無しの肉声で話をしていたが、このことによって現実感が出来ていた。ただ声は生の声なので、大きな声を自然な形で出していたので、少し技術が必要と感じたが、そんなことは可能だろうか!その時に書いたブログ。

http://yab-onkyo.blogspot.com/2024/10/blog-post.html



          写真:コンサートが終わった後で、ある一団が記念撮影していた。

2024/10/07

横浜船劇場主催 艀の劇場で聞く「艀」の文化・歴史の話 シリーズ テーマ 艀で暮らし働く人々~子供たちが残した港の記憶~

 日時2024106日(日)14時 横浜人形の家集合、街を歩きながら、船劇場へ

場所:船劇場 満席であった。

講師:河北直治氏(横濱界隈研究家)、松本和樹氏(横浜都市発展記念館調査研究員)、

朗読:横浜ボート―シアターの奥本聡、松本利洋、岡谷幸子、桐山日登美、増田美穂、

演出・司会:吉岡紗矢、主催:横浜ボートシアター

講師の松本和樹さんの話は、戦後 艀は荷物を運ぶだけでなく、艀の中で生活をしている人々がいて、その子供たちは、毎日学校に通うことはできず、水上学校というものがあった。そこには寄宿舎があって、毎週土曜日になると艀の家に帰れるようで、その生活が子供たちの学校の作文に残っていた。艀は、東京や横浜や千葉などに、荷物を運ぶことをしていて、土曜日にはたまたま艀が横浜にいるような場合には、東京の学校で電車賃をだしてくれたようだ。そのような話を劇団の人が生徒の作文を朗読してくれる。話の半分の時間は朗読だった。講師はマイクを通して拡声しているが、朗読は生の声だ。私は音響技術者だったので、今回の講演で、一番感じたことは、マイクを通して拡声された音を聞く場合と、朗読を生で聞く場合と感じ方が大きく違うということだ。マイクを通して聴く音は客観的に聞こえるが、生の声はそこに生徒がいて朗読しているような感じになる。劇団の人が朗読したので、余計に現実感が出てきたのかもしれない。しかも奥本さんと松本さんの声は、はっきりして大きい声で訓練されていた声だ。また船劇場は側方の壁が矢板のように凸凹波打っていて、側方反射音を強く拡散しながら反射するようになっていて、響きをある程度もたらすとともに、声・音像を明瞭にする働きがある。艀の素晴らしいところだ。今日の話は艀の約50年前の具体的な生活を示したものだが、今後50年後には船劇場が公海のところに実現して、この艀の使われ方を描いた物語ができるような気がした。艀は横浜市の発展の重要な要素だ。これらの気持ちが横浜市に通じるといいと思っている。