コンサート専用ホールないし演劇専用劇場という言葉がはやったことがある。ザ・シンフォニーホールが出来た(1982年)ころである。建築音響の交流の歴史その7ではBeranekやCremerの音響設計によるクラシック音楽用のホールについて書いたが、1970年当時は演劇には向かないが、クラシック音楽用の残響が2秒ほどのホールが必要とされていた。今はクラシック用の残響の長いホールがサントリーホールやミューザ川崎、紀尾井ホールなど、いくつもできている。しかし今はクラシック音楽以外にも様々な音楽がある。歌舞伎や人形浄瑠璃、組踊、雅楽、オペラなど音楽と演劇が重なっている。さらに例えば横浜ボートシアターが演じる演劇にはガムランに使う楽器などを演技と共に音楽を演劇に沿って奏でていく。これを聴いているだけでも大方の筋がわかる。また演じるものと演奏するものが同一で、立ち代わり入れ替わり演じたり演奏をしたりする。このような演技をする人と音楽を演奏する人が同一というのは珍しい形態であるが、演技と音楽があるのはオペラや組踊、人形浄瑠璃と似た感じである。演じる場所は横浜ボートシアターの場合には、鋼鉄製の艀を劇場に改装した横浜船劇場がメインである。さらにここだけではない。最近はお寺の本堂でも公演をしている。このことは公共の劇場設計を扱う技術者としては悩ましいところである。しかし現実に実在する様々な施設で公演ができるということは、演劇が現実に近くに存在することを感じるようになる。今この船劇場を特定の施設ではなく、公海に係留して誰でもが来れるようにする運動をしているが、これも劇場としての施設と艀という空間の境目のような空間が出来て、新たな現実の空間ができるような気がする。
横浜船劇場は、2008年10月に屋根を70㎝持ち上げ、40mmの断熱材を敷き、その上に防水シートを敷く工事を行った。その翌年、神奈川大学と共に音響調査を行った。側壁の矢板型鋼板には多分吸音のために幕が張られていた。
残響時間測定結果を表に示したが、500Hz以下の残響時間が長く、それ以上の周波数では短くなっている。 この傾向は、座席に敷いた座布団と側壁にある幕による吸音のためと思われる。壁の幕については、演劇の公演の場合には、あるほうが、明瞭度のためには好ましいが、室内楽などの場合には、幕は無いほうが、残響時間周波数特性が平坦になり、残響もより感じられるようになると思われる。ただし63Hzは近くを走る道路騒音の影響で、計測できなかった。
表 残響時間測定結果
|
63Hz |
125Hz |
250Hz |
500Hz |
1kHz |
2kHz |
横浜船劇場 |
― |
0.81 |
0.87 |
0.77 |
0.61 |
0.59 |
この横浜ボートシアターの演劇は、音楽が伴っている。いつ頃になるのかわからないが、インドネシアのガムランに近い音楽を、主にガムランに用いる楽器を用いて演奏している。以前はガムランに近いテンポであったような気がするが、現在(2024年)の「小栗判官照手姫」の音楽は、楽器はかなりそのままだが、テンポはJAZZのような速さで、しかも大きな力強い音で、さらに演技者と演奏者が入れ替わり立ち代わり演奏する。この音楽を聴いているだけでも大方の筋が理解できる。したがって音楽にも演劇にも好ましい音響状態がいいことになる。そのためかわからないが、鋼鉄の側壁にあった幕は、今は撤去されている。幕の後ろ側は矢板のように凹凸があり、フラッターエコーなどが起こりにくく、側方反射音もある程度拡散するので好ましい状態となっている。
このグラフは、旧歌舞伎座や杉田劇場などの現在の劇場とさまざまな芝居小屋と船劇場の残響時間と容積をグラフにしたものである。杉田劇場を別にすると、講堂に好ましい残響時間にほぼまとめることができる。船劇場(約室容積600m3)は、幕が撤去されたことにより、現在このデータより、会議室やオペラハウスの曲線に近いところにあると思われる。
また能・狂言や人形浄瑠璃、組踊やJAZZやトルコのサズ(近じか公演がある)なども好ましいかもしれない。
このような空間で、残響のより長い空間を得るためには、この形状で屋根をできる限り持ち上げて室容積を大きくすることが必要となる。たとえば10m以上、現在の倍以上にすれば艀の空間をクラシック音楽にもより好ましい空間にすることができると思われる。
もうひとつ一見すると音楽にこのましくない空間を紹介する。富岡製糸場の西置繭所の多目的ホールである。大きさは約9.3m×26.7 m×CH2.65 m、矩形で、室容積658m3で、しかも壁・天井はガラスとなる。ホールの壁・天井をガラスとする理由は、建物本体のレンガ壁の表面、天井の漆喰などをガラスのホール内から見学できるようにするためである。さらに鉄骨フレームとガラスの強度で耐震補強も行っている。この多目的ホールはガラスのホールともいわれている。ただし一辺の壁は人の出入り口、空気の取入れ入口、ならびに音を上方向、天井方向に反射させるガラリが内側にあり、長軸方向でフラッターエコーとならないように音を拡散させている。新鮮空気は床下空間を給気ダクトと考え、ところどころでガラリを設け給気している。
天井はガラス、床はフローリングでほぼ音の反射材で来ているため、人が入っていない場合には、当然残響が過多である。ただし講演会も演奏会も人が在籍することが前提である。人が吸音材の役目もしている。これはガラスの天井が2.65m程度しかなく、吸音材としての人の効果が大きいことから実現できた。竣工時に音響実験を行った。ポリエステル繊維吸音板(商品名:シンセファイバ―)1m×1mのものを10枚および20枚で残響時間の測定を行い、グラフに示す。シンセファイバー10枚(10m2)で42名、20枚で84名在席に相当する。2023年10月8日の講演・コンサートの時には100名ぐらい、ほぼ満席であった。
図 富岡製糸場西置繭所の竣工時の残響時間測定結果
2023年10月に富岡製糸場行啓150周年記念イベントとして、塚原康子さん(東京芸術大学)の講演と下山静香さんによるピアノのコンサートがあった。竣工時のデータから推測すると、ピアノコンサートの時には、人間の吸音力でほぼ満足できるものだった。ピアノコンサート時にはスピーカは用いていない。ただし講演時には、スピーカを部屋の両端に設置した為に、それぞれから出る音が聞く位置によって大きくずれ、明瞭度を阻害するレベルとなっているようであった。したがって、スピーカはなるべく中央位置に(エコーにならないためには最長でも演者から8.5mづつ離して)設置して明瞭度を上げるとともに、ハウリングを生じないような位置にした方法が好ましい。
富岡製糸場は、日本初の生糸の機械製糸工場で、1872年(明治5年)に設立された。これにさきだってフランスのポール・ブリュナが官営製糸場建設のために、明治政府に雇用され、富岡製糸場開業後は1876年まで総責任者として活動をした。上記の講演・コンサートは明治6年(1873年)に行われた皇后・皇太后の行啓の意図および二人のピアノ演奏や音楽のかかわり方などブリュナ夫婦を通して行われたことなどを話された。したがってこのガラスのホールでの講演会・ピアノコンサートを、この富岡製糸場で行われたことは適切な催物であった。
このガラスのホールはクラシック音楽にとっては、ちょうどよい響きであるが、講演などや、または三味線・尺八などのような場合には、適度にロールスクリーンを用いることがよさそうである。