4月1日(土)、神代神楽公演会が横浜市歴史博物館でありました。
また神楽師たちの近世・近代と題して、企画展も開かれています。こちらは3月3日から4月15日までとなっています。
公演は午前11時より、港北神代神楽 佐相秀行社中による「稲荷山」、13:00より子安神代神楽 横越政義社中による「神逐蓑笠」、14:30より市場神代郷神楽 萩原諄夫社中による「八雲神詠」です。
今はあまり神楽を見ることがなくなりましたが、横浜の神楽は江戸時代までさかのぼることが出来るようです。市場村萩原家文書「御神用控帳」の文政5年(1822年)の記録では、神楽奉納場所と神楽師の出所が書かれており、神楽師の出所は、わが事務所の所在する荏田村(現在は荏田町)、上小田中村、下小田中村(武蔵小杉あたり)、川崎宿が載っています。現在残っている神楽師は、先ほど公演した3社中と、先代まで続いた荏田の斉藤家だったようです。斉藤家は代々、剣神社の宮司を勤めていた家系です。剣神社はYABの事務所のすぐ近くにあります。斉藤家の奉納範囲は相当広く、横浜市の都築区、青葉区、緑区、港北区だけでなく、南多摩、町田、川崎にも及んだそうです。文政2年の記録によれば、萩原氏の奉納のスケジュールはほぼ毎日、また多い日には1日2箇所以上の奉納があったようです。江戸時代の祭礼の活発な様子がうかがい知れます。神楽は収穫を神様に祈ることが主の目的のために、飢饉のときはいつも以上に神楽が豊作祈願として行われたようです。
江 戸時代には神楽師が自由に演目を選べたようですが、明治政府は神道を国の宗教と定め、神代神楽は国民教化の手段となり、神道独特の歴史観のみの公演が許さ れるようになり、楽しい部分や批判的な内容は禁じられてしまったそうです。明治の終わり、また大正時代には神楽師たちは神楽だけでなく、歌舞伎芝居も演じ るようになり、芝居も盛んに行われるようになったとのことです。この辺のところは芝居小屋の歴史と重なるところです。
企画展示には衣装や面、大太 鼓、小太鼓、締太鼓、能管や、昨晩ボートシアターの花見で聞いた篠笛が展示されていました。それを覗き込んだところ、ガラスに頭をぶつけてしまいまし た…。それをきっかけに、隣にいた年配の女性が話かけて来られ、ショーケースの中の篠笛を吹いている男性の写真を指して、「私の孫です」とのこと。さきほ ど見た舞台で篠笛を吹いていた人でした。ちょうどボートシアターの人から、篠笛は毎日練習が必要だと昨日聞いたばかりだったこともあり、練習が大変だそう ですねといった話をしました。彼は音大を卒業したばかりだそうで、今後この神楽を展開できるよう彼に期待したいと思います。
公 演が行われた講堂は、響きが強すぎるために物語を説明する声がよく伝わってきませんでした。昔、実際に神楽が行われた場所は、神社の神楽殿(能舞台のよう な格好)であり、舞台だけ屋根があるか、仮設の掛け舞台に、やはり舞台だけ屋根があるもので、半屋外空間です。声はほとんど響くことがなく、能管や篠笛の 甲高い音には響かない空間のほうがきれいな音になるのではと思います。残念ながら、そのような場所が今はほとんどなくなりました。