上記は、朝日新聞2025年6月30日の片山杜秀の蛙鳴梟聴(あめいきょうちょう)の記事の表題である。芥川也寸志は作曲家で生誕100年。誕生日は7月12日だそうだ。「シンフォニーから映画音楽まで。狭い音域での足繁き往来が芥川の真骨頂。NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」のテーマ曲が真骨頂。そういう型の旋律は世界の子守歌や童歌に多い。狭い音域は原初的。幼児にも歌いやすい。」 NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」は1964年に放映されたものだ。本文中に、「芥川が日本と国交の途絶えていたソ連を初訪問し、中国にも行ったのは、1954年の10月から翌年2月にかけて。」
今でも大河ドラマ「赤穂浪士」のテーマ曲はよく覚えていて、口ずさむことができるほどだ。目指したのは「みんなの音楽」と言うことがよくわかる。それで思い出したのは、小泉文夫の日本の音楽のトラコルド理論である。オクターブに至らない音程で、あらゆる民謡の中で強固な単位をなすのがテトラコルドである。この二人の間に、このテトラコルドに関する共通点があるかもしれない。
芥川也寸志 生誕100年の私の文章は、以下のブログの「建築音響の交流の歴史その16 童謡、さらにテトラコルドに関連して」 http://yab-onkyo.blogspot.com/2025/07/16.htmlの続きに当たるようだ。小泉文夫が、日本伝統音楽の研究1 <民謡研究の方法と音階の基本構造> を音楽の友社で昭和33年に出版している。昭和33年は1958年で、小泉のこの年代は芥川の活動年代と似た位置にある。小泉文夫は、クラシック音楽に対して、世界の音楽と相対化させてみた。芥川也寸志は「「カチュウシャ」や「ともしび」を歌い、ショスタコーヴィッチの交響曲を聴く。違和感がない。ソ連の大衆音楽と芸術音楽には何か横串が通っている。中略、、、見本はどうか。浪曲とジャズ歌謡と山田耕筰。串が通らない。一個人の中でさえ趣味が分裂。おかしい。」「親ソ、親中、新アジア。新米国家たる日本の戦後史で、常に芥川は逆張りだった。芸術音楽と大衆音楽を高い理想のもとに織りあわせて「みんなの音楽」を結実させる試みも幻のまま。しかし童心を喚起してユートピアへの旅に誘う彼の作品は、今なお「みんなの音楽」を待望してやまない。」 しかしソ連だけではないかもしれない。ウイーンではオペラやヨハン・シュトラウスもまじえて、ひとびとが音楽を楽しんでいることがよくわかる。当時NHKの建築部にいて、NHKホールやスタジオを施主側で設計した浅野さんとさらにホラインと東京フォーラムの共同設計をしていた人たちとウイーンの森のレストランに言ったら、ワインが出てきたらヴァイオリン弾きも来て、多分ウイーンワルツを引いてくれた。これらについてウイーンも一本串が通っていると感じられる。多分串が通っているのはソ連やウイーンだけではない。浅野さんは多分1933年ごろの生まれである。芥川より少し若い。芥川の先生だった伊福部昭の曲を私に紹介してくれたのも浅野さんだった。
多分日本のクラシック音楽は、明治維新の時に、日本にもともとあった音楽を否定しながら鹿鳴館文化のように、輸入したこと、また第二次世界大戦によってわが国は敗戦になって、さらにこの傾向が強くなったことがあげられるように思う。戦後すぐ歌舞伎座で赤穂浪士の上演が禁じられたのは進駐軍が仕返しを恐れたからだと言われている。今ではたいへん人気の演目なのに、戦後すぐにはいろいろ制限があったに違いない。
そういえば、服部幸雄が書いた「大いなる小屋」(1986年平凡社刊)は、江戸時代から続く芝居小屋に焦点を当てたものである。最初のページには、享和三年(1803)刊『戯場訓蒙図彙(しばいきんもうづ)』を紹介している。戯作者式亭三馬が著したもので、劇場を一つの国と見なし、「戯作者流の一趣向と承知のうえで、劇場と観客と演劇そのもの、その三つを一つに統一する観念上の総体として「戯場国」となづける一宇宙を設定、、、」 本の最後のページには「国なり東京都なりの公共施設として、江戸様式の「大いなる小屋」の復元することはできまいか。私は、そこで江戸歌舞伎が復活する日を夢見ているのである。」 この本は私にも大いに影響を与え、私の芝居小屋の音響調査のきっかけを作ってくれた。残念ながら新たな芝居小屋が復元するというような話はいまだなく、最近は川越で芝居小屋の鶴川座だったところが、私も参加していたが、住民の復原活動にもかかわらず、解体され、ホテルに立て直されてしまったこともある。服部幸雄は1932年生まれ、小泉文夫は1927年生まれ、芥川也寸志は1925年生まれで、ほぼ同時代の活動年代である。明治維新および第二次世界大戦の敗戦後の日本の音楽や演劇の動きに反発して正常化しようとする動きといえる。
芥川也寸志の「みんなの音楽」の続きになるような気がするが、最近和楽器と洋楽器の合奏が時々テレビに出てくる。三味線とピアノなどや尺八とヴァイオリンや箏などである。曲はポップスやジャズなどである。実は私は脳梗塞の後遺症で、アルトサックスは、首の筋肉に力が無くなり吹けなくなったけれど、その代わりに2年前に尺八を買って練習をしている。曲は「赤とんぼ」、「あんたがったどこさ」などの日本的な曲ばかりでなく、坂本龍一作曲の「Merry Christmas Mr. Laurence 」や「Take the “A” train」 などのジャズの曲も吹いている。このA trainを吹いていると、あきらかにこのtrainは蒸気機関車だと言うことがわかる。尺八だと蒸気の息を感じられる。Imaginは機関銃が不連続に発射されている様子が見えてくる。しかし尺八では歯切れが悪く、乾いた音にならない。そういうのも感じられて楽しい。
このように明らかに芥川也寸志の心意気を継いで新たな音楽の時代にはいりつつある。ただ芝居小屋についてはいまだ問題である。いまある国立劇場は、開館は1966年で、多目的劇場を追及して設計された劇場のために、歌舞伎劇場とは花道周辺が大きく違い、花道の後ろの壁は単なる灰色の壁である。そういうディーテールだけでなく、2023年10月に建て替えのため閉館したが、立て直すPFIの主体が建設費の件などで決まらず、しかも内容もきまらず、もうじき閉館して2年になってしまう。国が国立劇場に対して好意的になっていない気がする。服部幸雄が大いなる小屋を書いた1986年には、この国立劇場もできていて、もちろん歌舞伎座もできていた。この歌舞伎座は舞台間口が27mもあり、単に大人数の観客を収容するためとしか考えられない。国立劇場は役者やその卵たち、更に、舞台技術を担当する人たちにも早く再開が望まれるところであるが、それだけでなく服部さんが復活することを夢見ていた芝居小屋はいまだ実現できていない。劇場と演劇と観客を一体とする劇場の復活が望まれる。ちょっとだけ付け加えると、常設小屋ではないが、故中村勘三郎がたてたテントの平成中村座がある。そこには芝居小屋の雰囲気がある。服部さんの希望が少しかなえられたかもしれない。もう一つ、横浜ボートシアターの船劇場は現在一般の人がいけない場所にある。これを公共の場所に係留できたら、この船劇場も芝居小屋の範疇に入るような気がする。山下埠頭再開発の中に船劇場を組み入れられたら良いように思って、現在市民運動中である。