建築と音楽の集いPartⅣ
日時:2025年 4月19日(土) 11:00~13:00
見学建物:旧園田高弘邸 建築設計は吉村順三、木造
主催:公益社団法人日本建築家協会関東甲信越支部城南地域会
出演:吉見千晶(一般社団法人住宅遺産トラスト)、
大沢悟郎(JIA)
金沢恵理子(ピアノとお話)
私の見学目的:ピアニストの練習室の音響空間を知りたい。
私は案内に、近隣に迷惑がかからないように、11時より前に来てほしくないとあったので、わざわざ11時10分ごろに訪問したら、既に音楽サロンに40~50名の方が着席して、吉見さんのお話を聞いていた。吉見さんのお話はこの旧園田邸についてでした。その後、建築家の大沢さんの話があって、ピアノの演奏が始まった。ピアノの演奏は建築の見学の間の付け足しと思っていたが、とんでもない、前半があり、中休みがあって後半まで、よくあるまともなコンサートだった。曲目は、1.シューベルト:小さなソナタ、2.ブラームス:間奏曲、3.リスト:愛の夢第三番、幕間、4.リャードフ:舟歌、5.エルガー:朝の歌、6.クライスラー=ラフマニノフ:愛の悲しみ、7.バッハ=ケンプ:シチリアーノ 演奏したピアノは園田高弘が使っていたハンブルグ製のスタインウエイとのこと。
この音楽サロンは増築部分で、コンサートもできる広さがある。図面では横9席が6列あるので、54席になる。満席であった。室内は、絨毯やカーテン等吸音性の高いものはなかった。絵の額がいくつかあるが、かなり額にはガラスがはまっていて、吸音しにくい。したがって吸音は聴衆がほぼ吸音材の役割をしている。したがって、広さや容積に対して人間の割合が大きいため、ピアノの音は鮮明に聞こえる。多分弾きにくいのではないかと感じ、演奏が終了後にピアニストに、人が多いので、ピアノの音は鮮明に聞こえたけれどどうでしたかと聞いたら、本人は気にせず、また聴衆の入っていないこのような空間は響きが少なく練習には好ましいと言っていた。
音響技術的に言えば、この音楽サロンは、2層吹き抜けで、空間は大きいが、特別に吸音材はなく、強いて言えば障子ぐらいが、多少吸音する。しかしプラスターボードなどの一般的な住宅の反射性の材料でできており、残響はあるが相当短い。ピアニストの金沢さんが言いたいことは、ホールのように残響が長くなく、演奏の練習がしやすいと言うことだと思う。しかし多分練習には好ましいかもしれないが、聴衆が多いため、ピアノの音が大変クリアに聞こえ、聴衆にとってはピアノの音は、近くで聞くピアノそのものの音のようで、大変刺激的で、ホールのような残響のある、ほんのりとした柔らかな感じにはなっていない。ただこのような場合もあってもいいかもしれない。
写真:旧園田邸の外観の写真、左手が増築部分、右手は主屋、
「篠原一男と篠原研究室の1960年代-「日本伝統」へのまなざし-」という講演会
旧園田邸の見学会の後、大岡山の商店街の蕎麦屋で昼食を取り、近くの旧東工大の講堂で、「篠原一男と篠原研究室の1960年代-「日本伝統」へのまなざし-」という講演会に参加してきた。篠原一男は今年2025年で、生誕100年と言うことで、この講演会が出来たようだ。私がこの旧東工大、現東京科学大学に入学したのは1967年、この講堂の前の桜は幹の太さが直径20cmぐらいのものだったが、それでも立派に花が咲いていたように記憶していたが、今や幹の太さが直径、多分1m以上にもなっていて、素晴らしい巨木に成長していた。また講演会のあったこの講堂は建築設計:谷口吉郎、音響設計は私の恩師 松井昌幸。内部を見ると舞台の周りの湾曲した壁や、側壁や天井の板仕上げが次第にスリット壁に変化しているなど、意気込んで作ったことがよくわかる。1954年神奈川県立音楽堂が石井聖光によって、わが国でほぼ初めて音響設計され、この講堂はそれに続く1956年になる。私は10年ほど前にこの建物の耐震を伴う改修の音響設計に携わることが出来き、さらに再び講堂の中に入ることが出てて大変感謝だ。パンフレットによれば、篠原一男は1947年に東京物理学校卒業、1950年東工大建築学科学士入学、1967年に「日本建築の空間構成の研究」で、工学博士号を取得、私はこの年に入学した。私が卒業する1972年には「未完の家以降の一連の住宅」に関して日本建築学会賞を受賞していて、私が学生の時には、一世を風靡した感じであった。講演の中で、木津さんが篠原一男の「から傘の家」を文化財としてドイツのヴィトラキャンパスで陳列したことを話していた。この「から傘の家」は、持ち手にあたる心棒のない傘の形だけが垂木を見せて存在しているが、この垂木の線ある空間がとてもきれいだ。しかし単に展示されるのではなく、その空間に人が住んで、評価ができる方がより好ましいのだが。
写真:講演会のパンフレットの表紙 、篠原一男は「から傘の家」の中にいる。