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2022/12/15

音律を含む音に関する歴史年表

 音律や音の理論、室内音響や劇場など音の技術的テーマを歴史的に並べてみた。また歴史的にもまた日本を含む全世界的な事柄を併存させている。いままで音響技術者は、室内音響はSabineの残響時間の理論から始まったと教わったが、ギリシャ時代から室内音響の考え方はあったようだし、Sabineの少し前の時代にはHelmholtzLayleighもいた。また劇場の歴史も連綿と続いている。また音律はピタゴラス音律ができたのはBC500であるが、純正を基にした音律が15世紀ごろ発生したのは多分宗教的な影響、多分教会などの影響によるのではないかと想像できる。また17世紀にフェルメールが描いた演奏している絵「音楽の稽古」に絨毯がテーブルにかかっているのは、響きを調整した室内音響に影響したものではないかと想像している。そのように室内音響に影響を受けていると思われる出来事もあったと思われる。

 

35000年前 ドイツで、骨で出来た35000年前の5穴の笛が発見された。(2009年発見)、

BC2697年ごろ黄帝族の首相の黄帝が伶倫に命じて黄鐘という基準の音高とした:戦国時代末期の紀元前3世紀頃編集された「呂氏春秋」より、黄帝族の首相の黄帝は天下を平定した後、国家的な事業に乗り出す。・暦を制定、・文字の作成、・音律の決定
→伶倫という楽人に音律をつくるように命じる。伶倫は音高を決める笛をつくるため西方へ向かった。
大夏の西の崑崙山の北にある谷間ですばらしい竹を発見。節の均等な竹を選び三寸九分(11.7cm)の長さに切った。それを吹き鳴らし黄鐘という基準の音高とした。黄鍾という基音から12の異なる音律を導いているが、この過程はピタゴラス音律と全く同じで、3/2の純正五度を積み上げていく方法である。この方法を古代中国では三分損益法とよんでいる(前四世紀の管子)。この中で宮・徴・商・羽・角(ド・レ・ミ・ソ・ラ)の五音で五音音階が構成される。

BC18001600 シュメール語の粘土板に楽譜。古代バビロニア時代に楔形文字により、記された楽譜。弦の長さと音の高さの対応、音律と音程と音階の比例関係も知られていたと思われ、リラの9弦の調律法が記されている。少なくともBC1000年には音楽理論が整備され、5度連鎖から7音音階に基づいていたと推測される。

BC500 ピュタゴラス 周波数を3/2という関係(例えばドとソの関係)で設定すると、二つの音は唸りのない完全に調和した状態となり、純正と呼ばれる。この値に更に3/2をかけて、音程を作り、2をこえたら、2で割り更に繰り返す。この様にしてできた音程をピタゴラス音律と呼ぶ。

BC340 エピダブロス円形劇場 建築家ポリュクレイトス

BC100 ヴィトルヴィウス 建築書 エコーについての劇場音響論を含む

BC40ごろ:京房(前77~37)、漢代の易学者、音楽理論家。「準」を用いて音律を測定、三分損益法を拡張し六十律を考案。易と暦を結びつけ、当時の政治的な動向にも影響を与えた。

600年ごろ 教皇グレゴリウス1世(540604)によるグレゴリオ聖歌、ピタゴラス音律によって唱えられる。定量音楽への道

750年ごろ アルハリール・イブン・アハマッド ペルシャ音楽のアルーズィーの中核をなすバハル(bahr韻律ーmeter)は八世紀のバスラの学者、アルハリール・イブン・アハマッド(718786)によって体系づけられた。

900年ごろアル・ファーラビー(870頃~950中央アジアのイスラム哲学)、「ギリシャの哲学や数学に精通したファーラビーは、ギリシャ文化を西欧に伝える橋渡し的な役割を演じたと言われている。つまり、アラブ経由でギリシャ文化は西欧に通じたのである。ウードの名手でのあったファーラビーは、音楽大全を著しているが、その内容は、音響学や楽器、作曲法など多岐にわたり、アラブ音楽の中でももっとも重要なものとされている。」、音楽大全(定量音楽)

1000年ごろ 清少納言 枕草子 横笛の繊細な音色を描写した部分「遠うより聞ゆるが、やうやう近うなりゆくもをかし。近かりつるがはるかになりて、いとほのかに聞ゆるもいとをかし」(天声人声2022.11.5

11世紀初め源氏物語 「『琴と詩と酒は三つの友と、白楽天が言っているが、』『姫君の琴の音をぜひ聞かせてほしいね。父君は、音楽にかけてはたいそう優れていらっしゃったから、さぞ姫君も並々のお点前ではないと思うよ』」「一つ車に相乗りして、月が情緒深く雲に隠れている道中を、横笛を合奏しながら左大臣邸へお越しになりました。」 末摘花の巻 瀬戸内寂聴訳

1020 楽譜の発明 グイード・ダレッツォ:北イタリア生まれ、グレゴリオ聖歌において、はじめて楽譜の原型を発明した。最初の作曲家はフランス人のペンタロン(ぺロティヌス(11701236)でハーモニー(和声)最初、グイード時代の教会音楽で「オルガヌム」と言われた。

1000年ころパリのノートルダム寺院はピタゴラス音律に基づいて、建築物の平面や構造や装飾すべてが調和した世界を作っていた。キリスト教が求めたこの調和という理念を視覚化し、音響化するために、中世の建築と音楽は、共に数比の秩序に従った。その後オルガヌムの手法は複雑なポリフォニーのスタイルへ変化し、ゴシック様式の大聖堂の中で鳴り響いた。

13世紀、歌謡および舞して拍子のついた白拍子・乱拍子が流行した。乱拍子という言葉は能では道成寺のシテの白拍子が舞う踊り方で、足の使い方に特徴があるが、実は祭りのお囃子の中にも乱拍子という笛の吹き方に残っている。時代は保元・平治の乱に始まる源平合戦や南北朝の内乱、応仁の乱、そして戦国時代と戦乱つづきの時代だった、

1252サフィー・アッ・ディーン(アラブの楽理家)の旋法の書(オクターブを16音程に分割) 

1448 現存する最古最古のオーケストラであるデンマーク王立管弦楽団が創立、当初は、宮廷直轄のブラスバンドであった、

1309年」以前、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。」平家物語、この題名は後年の呼称、この「祇園精舎」の北西の一角に無常堂(無常院)があり、そこで終末期を迎えた僧たちが、臨終を迎えると、建物の四隅に配されていた鐘が鳴った。

15世紀ごろ、イギリス・アイルランド地方で生まれたケルト人の音感覚では純正に協和する状態(5/4の比率)を三度とした。ピタゴラス音律の三度は81/64という比率となり、不協和音程と扱われていた。中世ではピタゴラス音律は、八度、五度、四度の三つだけが協和音程とされていた。この新たな音程の三度で、豊かな甘美な響きが生み出された。

15世紀、スペインのバルイトロメー・ラモスは純正三度の5/4の比率を含む純正調という名の音律を考案した。この音階ではピタゴラスの音階もいくつか含まれているが、第三度音(5/4)、第六度音(5/3)、第七度音(15/8)が決定的な違いがある。ルネッサンスの気運。十字軍がトレドにあるアラブの図書館を奪還して、作曲家のツァルリーノは中からプトレマイオスの「和声論」のテトラコードに出会い、ラモスの音律と同じあることを発見した。また和声的な分割方法はモノコードの操作を通じて、倍音の存在が予見されていた。

1523、ピエトロ・アーロン(14801545)、イタリアの作曲家、ミーントーン(中全音律ともいう)を発表。ミーントーンでは三度をいかに純正な音程(5/4)に保つために純正五度の音程をすこしだけ狭くしたもので、唸りのない純正音程を微妙にずらすことをテンペラメント「Temperament」という。ミーントーンでは適用できる調の範囲も広がり、協和と不協和の際立った関係の中に置くと、「感情過多様式」と呼ばれるバロック末期の独特のスタイルが生み出される一因となった。ヘンデルをはじめ、バロック時代の多くの作曲家たちに愛用された。

1564ガリレオ・ガリレイ生まれる(15641642

1584 テアトロ・オリンピコ 建築設計:パラディオとスカモッツィ 観客席は半楕円形で、構造はローマ劇場に倣っている。古代劇場におけるオーケストラはそのまま残されている。このオーケストラの場所は楽団が居たのではなく、特別席だったとのこと。楽団は舞台両袖にいたのではないかとのこと。

1587最古のオペラ「ダフネ」が上演されたギリシャ神話を題材とした最初のオペラとされている。ダフネの楽譜は失われているが、1600年に上演されたエウリディーチェは楽譜が現在まで伝えられており、現存する最古のオペラとされている。作曲者はいずれも宮廷付作曲者のペリ。

1598 シェークスピアのグローブ座開設:エリザベス朝演劇とは、エリザベス・チューダー(エリザベス1世)即位の1558年から1642年の清教徒の共和政府による劇場閉鎖までの間に書かれた上演を目的とした全文学作品。エリザベスは1603年に無くなったが、当時シェークスピアは完全な円熟期、エリザベス死後もエリザベス朝演劇の分類に含めた。164249年ピューリタン革命。1660年の王政復古以降、劇場は再び扉を開いたが、いったん打ち砕かれた魅力は元に戻らず退廃した。

1600年ごろ:朱戴堉(15731619)、明代の暦学者、音楽理論家。音律の研究に没頭し、「楽律全書」を著した。中国数学を用いて十二平均律を考案した。

17世紀初め、フランスの音響学者、ソヴェールは倍音が音色を決定することを発見、音響学という分野の基礎を作った。

1603阿国歌舞伎 出雲の阿国が京都の北野天満宮で、歌舞伎の上演を行ったとの記録がある。

1605ドン・キホーテ セルバンテスによる世界で最初の近代小説ともいわれている。

1615京都南座:四条河原町で開場、7つの櫓の1つ、江戸では、中村座(当初は猿若勘三郎芝居)が寛永元年(1624年)2月に、中橋南地で櫓を上げた。

17世紀、天文学者のケプラー(15711630)は惑星間の運行の関係を協和する音程比を、モノコードを用いて算出した。ロバート・フラット(15741637)は「宇宙のかたちをモノコードによって神秘的に描いた挿絵がある。2オクターブにおよぶモノコードでは、音階によって区分される領域に、火、空気、水、土といった四元素や惑星が振り分けられ天の神によって今にも調弦され様としている。」

1618テアトロ・ファルネーゼ 建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ プロセニアムアーチのはじめとしているが、使われ方の主は馬蹄形の平土間で公演があって、観客はそれを取り囲む形となっていいて臨場感がある。

●1628 Almagroの劇場 Taberna del Toroという宿屋に劇場が併設された。現在残存している世界最古の木造の芝居小屋ともいわれている。

1636-37メルセンヌの音楽総論:ヨーロッパにおいてリュートのようなフレットを持つ楽器に対し、12平均律の算出法で調律する方法を確立。Marin Mersenne15881648)科学的音響学の草分け、1640年ころ音の反響と振り子時計を使って初めて音速を316/sと測定。

1637サン・カシアーノ歌劇場最初のオペラハウス開場。現在使用されている最古のオペラハウスはナポリのサンカルロ劇場である。オペラがローマから、宮廷や個人の邸宅で音楽が行われる伝統のなかったヴェネツアに輸出されて初めて、それは大衆にも手の届くものになった。世界最初のオペラ専用劇場がつくられたのもヴェネツアである。オペラのスペクタクル的な効果を出すのに必要な舞台設備が整っていた。金持ちのトロン家が、1629年に焼失した劇場に替わるものとして建てられたのである。営利を目的としていたので、壁沿いにグルッと席が段状に設けられ、できるだけ多くの観客を収容するようになっていた。オーケストラは、以前は舞台の両脇、桟敷席、書割りのうしろなどに座っていたのが、この時初めてステージの前に置かれるようになった。

1642ニュートン生まれる(16421727

1642関孝和生まれる(1640(または16421708) 行列式の解法(解伏題之法1683)、方程式の解法(解隠題之法1685)、暦について(二十四気昼夜刻数1699

1654テアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ 馬蹄形のオペラハウスの最初

17世紀:オペラ劇場の建築形式が成立するとともに、劇場音響について論文・研究がいくつか発表されるが、おおむね感覚的な主観に基づくもので、科学的な知見・直感によるものではないが、Algarottiの劇場構造論、P Patteの劇場音響学、G Saundersの劇場計画などもあった。

16641665フェルメール「水差しを持つ女」、16651666「合奏」 いずれの絵もテーブルの上に絨毯が置かれている。以下私見:多分残響を調整しているのではないか?

1689松尾芭蕉 閑さや岩にしみ入る蝉の声(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)奥の細道、出羽国(現在の山形市)の立石寺に参詣した際に詠んだ発句

1692中根元圭著「律原発揮」1オクターブを12乗根に開き12平均律を作る方法を発表

1714、ヴァイオリニストで作曲家のタルテイーニ(16921770)、二つの音が同時になったときに、その振動数の差にあたる「第三の音」、すなわち差音が発見され、音楽論のなかで言及した。唸りと同じものである。

1710頃ハンマーのピアノの発明:フィレンツエの楽器製作家のクリストフォリが、ハンマーのピアノを発明したが、これはすでに現在の楽器の本質的な機械装置上の特徴をもつものだった。この発明を探求してピアノ・フォルテの使用を一般化したのはフライブルグのゴットフリート・ジルバーマンの功績である。

17161736歌舞伎用の劇場に花道が常設されるようになる

1722ヨハン・セバスチャン・バッハ(16851750、ドイツ)平均律クラヴィーア曲集(1722)、正確にはThe Well-Tempered Clavierで、平均律ではない。ミーントーンのもつ機能上の側面を改善するためにウエル・テンペラメントと呼ばれるさまざまの音律がドイツを中心に考案された。ミーントーンとしばらくは共存していた。また純正調の流れをくむ純正三度を基盤としたミーントーンと、純正五度を基盤としたピタゴラス音律の二つを併せ持つ音律として、数多くのウエル・テンペラメントが生み出された。この18世紀のバッハの頃にはヴェルクマイスターやキルンベルガーやヤングという人の名が、音律の名称となっている。

1724芝居小屋が瓦ぶきの本建築 17世紀中ごろ~1700年ころ 観客席は筵張りの仮掛けになり、場内が暗くなっている。雨もかなりの量が耐えられる。「芝居小屋の成立」と考えられる。1700年ころ~1714(正徳4年) こけら葺仮掛け屋根 雨天興業が可能になる。演劇環境は大きな変化はない。正徳4年(1714)から享保3年(1718) 江島生島事件で2に逆戻り、構造の規制に加え、下桟敷の禁止が劇場経営を圧迫、享保3年(1718)~享保9年(1724) 3までの復活が許される。雨天興業はできるが、下桟敷は禁止されたまま。6.瓦葺本建築の時代 雨は全く漏れない、都市防災政策により、本建築が成立。正徳の禁制が解け、舞台装置・大道具・客席が大いに発達、18世紀中ごろ~幕末(1868)こけら葺本建築の時代 河原には客席で支柱が必要のためになし崩し的にこけらに移行。文化6年(1809)正月の火災が有り、奉行所から指導。杮の上に粘土を防火槽として塗り、漆喰で覆う。安政3年火災後の木材が不足したために 亀甲梁工法を採用

1731オイラーの音律(新音楽理論の試み)、振動数比の数値的単純さのような古代のピュタゴラス派的土台のうえで、協和度概念を用いて議論を展開している。この研究の端緒はメルセンヌ、デカルト、ライプニッツたちの先駆者の影響を受けている。一定の和音をもたらす音組織は12の比の内側にある2n335の約数が対応できる。

1737ヴァイオリンの巨匠アントニオ・ストラディヴァリ(1642?~1737クレモナ)

1741フリードリヒ大王のベルリン・オペラハウス 建築家ゲオルク・ヴェンツェスラウス・フォン・クノベルスドルフ 本劇場は公共建築物としては、ヨーロッパで一番早い独立した建物であったように思われる。一つの面に柱廊玄関(ポーチコ)を配置し、その両側面に二つの別の公式玄関があった。主玄関の上には大きなサロン(アポロ・ホール)があり、その窓が建物正面の一部になっていた。これらの特徴はすべて100年後のオペラハウスの基準となる。

1745 夏祭浪花鑑(なつまつり なにわ かがみ)竹本座で初演 殺しの前後で、祭囃子が遠き所から近いところへ変化。

1758大阪の角座(歌舞伎劇場)の回り舞台、最初、人形浄瑠璃に使われたが、歌舞伎の舞台では1758年、大阪の角座で初めて導入された。並木正三(17301773)が考案したとされる。西洋では1世紀前(1650年ごろのことか?)にイギリスのイニゴー・ジョーンズが、王宮劇場で『美の仮面劇』を上演するために小規模の部分的な回り舞台を設けた。

1760フーリエ生まれる(17601830

1770ベートーヴェン ドイツのボンで生まれる。1813年このころ開発されたメトロノームを愛用。

1778サンタ・マリア・アラ・スカラ教会跡地に建てられたために、スカラ座と命名された。オーストリアのマリア・テレジアにより建設された。2004年残響時間が満席1.25秒で、短かったことと舞台周りの近代化のため改修

1781初代旧ゲバントハウスは17811894、新ゲバントハウスは1884年竣工したが、第二時世界大戦で破壊された。いずれもシューボックスタイプで、音響効果が評判であった。後者は、Sabineがボストンシンフォニーホールを設計するに当って参考にした。

1781ポアソン生まれる((17811840

1798 つんぼ桟敷:俳諧・哲阿彌句藻に「朔日や聾桟敷は音にも聞け芝居小屋で、正面二階桟敷の最後方の観客席。舞台から遠く離れているために俳優の台詞(せりふ)がよく聞きとれないところからの称。見巧者が集まるので、俳優には重視され、「大向こう」ともいう。以下私見:音響的には2階席の天井から垂れ樺がある場合があることによって二階席後方では天井からの反射音が得られなくなってしまうので、聞き取りにくくなっている。永楽館で確認。

1850年代ピアノの大量生産が開始された。産業革命の波が楽器生産にまでおよんだ。機能性と効率性を優先させた機能的な考え方が色濃く反映されている。半音階的な和声進行や不協和音の多様、異名同音による複雑な転調の連続などワーグナーの音楽にも顕著にみられる。調整を崩壊に追い込んだ平均律は、12個の均等な音高を新たに組織化する作曲法が模索され、十二音技法がアーノルド・シェーンベルクによって確立された。

1863ヴェーバー・フェヒナーの法則(Weber-Fechner’law)刺激が等比的に変化するときに、感覚が等差的に変化することをエルンスト・ヴェーバーとその弟子のグスタフ・フェヒナーが発見し、ヴェーバー・フェヒナーの法則(Weber-Fechner’law)と言っている。

1862  On the Sensations of Tone  Herman L..F. HELMHOLTZ音楽と聴覚と楽器音響学の書、ジュール(1843年)、 マイヤー(1842年)、ヘルムホルツ(1847年)により独立にエネルギー保存則(熱力学第一法則)の発見、倍音の研究はヘルムホルツによって、人間の超感覚との相互作用を視野に大きく発展し、近代の音響学の基礎を築いた。また倍音と音色の関係や結合音の存在を明らかにしていくうちに、楽器は、純正律に基づいて調律すべきと主張。

1869ウイーン国立歌劇場 座席数1709席で、比較的少ないため、音量が大きい。満席1.40秒、第二次大戦中爆撃で破壊され、1955年再建。1,658席、馬蹄形、5段バルコニー、1.3

1870ムジークフェラインザール(ウィーン)古典派、ロマン派の管弦楽作品に対して世界最高のホールといわれている。残響時間は満席で2.0

1871軍楽隊(陸軍・海軍)発足 明治2年に薩摩藩は横浜へ三〇余名の青年を送り、イギリス海軍第10連隊の軍楽長フェントンJohn Williams Fentonから伝習を受けさせた。この軍楽手を中心に、明治45月、明治政府 兵部省は各藩の鼓手を加えて軍楽隊を創設した。

1871ロイヤルアルバートホール5,222席、容積86,650㎥、楕円体のホール、エコー障害があり、開設以降100年にわたり、音響改修を行ってきている。

1872ボストン大観場木造で、約100×200m、太平楽会が、南北戦争(186165)、ヨーロッパの普仏戦争(187071)終結を記念し、開かれ、コンサートで、演奏家1500名、合唱団16000名、観客5万人以上。岩倉具視使節団も参加。

1875パリオペラ座設計者ガルニエの著書「パリ・グランドオペラ」には「音響と私が結局、理解しあえなかったのは私のせいではない。私はこの奇妙な科学を理解するために大変な苦労をした。中略。私は一生懸命に本を読み、賢人たちに熱心に相談した。だが、私を導いてくれる確実な法則はどこにも見つからず、逆に矛盾した意見ばかりだった。」

1876バイロイト祝典劇場 ワーグナーが自分のオペラのために建設したオペラハウス、オーケストラピットが舞台と天蓋で覆われており、客席からは中が見えない。オペラにとってはこのオペラハウスはユニークな形をしているが、客席と舞台の11の関係はその後の近代劇場の設計の基本となっていく。

1878 Lord RayleighTheory of SoundRayleigh) 今日の音響学の理論体系が完成した。

1881芝山内能楽堂明治14年4月16日舞台開き、芝山内楓山(三縁山増上寺の塔頭金地院の地内)にできた能楽堂。従来は能舞台と言われていた。いままでは舞台の周囲は屋根がなかったが、「能舞台と観客席を1つ屋根の下に取り込んだ演能場たる能楽堂の嚆矢」となり、能の歴史の中では画期的なことであった。能舞台が室内に入ることで、それまで昼間は天然光、夜になると蝋燭、篝火(かがりび)によっていたものが、昼夜を問わず、ガス灯、電気の照明になった。今日の能舞台の基本となった。

1887東京音楽学校設立初代学長伊澤修二

1888コンチェルトヘボー(アムステルダム)残響時間満席時2.05秒、2037席、3大名ホールは、ムジークフェラインザール(ウィーン)、ボストンシンフォニーと、このホールといわれている。

1888純正調オルガンの完成 音響物理学者の田中正平が、ドイツのヘルムホルツのもとに留学中に、純正調オルガンを完成させ、指揮者のハンス・フォン・ビューローが「エンハルモニウム」と命名し、ドイツ皇帝の前で、御前演奏された。

1889歌舞伎座開設 『明治22年11月21日に、福地源一郎(桜痴)と、金融業千葉勝五郎を相座元として歌舞伎座が開場した。外観を洋式、内部を日本風3階建てとした、客席数1824・建坪約1500平方メートルの国劇の殿堂にふさわしい堂々たる劇場である』

1890旧東京音楽学校奏楽堂 建築設計:文部省(山口半六、久留正道) 音響設計:東京音楽学校(上原六四郎)日本で最初のコンサートホール。室容積1950㎥、388席 空席時残響時間1.1秒以下私見:伊沢修二が目標としたのはクラシックコンサートではなく、歌で、その点は残響が多少短い方が好まれる。

1891カーネギーホール(ニューヨーク)2800席、残響時間満席時 1.83秒、ボストンシンフォニー建設委員会はこのホールを評価せず、ヨーロッパのホールを参考にすべきと述べている。その後いくつかの改修のあと、1986年、19世紀の華麗な姿に修復したとしているが、議論は継続している。

1895 W.C.Sabine残響理論の発表。このことによって、室内音響学が誕生。

1900ボストンシンフォニーホール W.C.Sabine残響理論に基づき行った初めての音響設計

1901ルイ・アームストロング生まれる。ジャズの歴史が始まる。

1903浅草電気館日本初の活動写真常設劇場として発足、明治16年(1883年)浅草区画整理し、六区が出来、東京府はそれまで4区の奥山にあった見世物小屋を全て六区に移動し、演芸の町六区が始まった。

1911帝国劇場;国立劇場に類する劇場を望む声は、日清日露両戦争を経て大国日本との国家意識の高まりとともに、実業界を中心に大きくなって生まれた洋風劇場。

1918中之島中央公会堂 この頃から公会堂が演説会場および集会施設として、全国の県庁所在地や市に設けられた。

1918南葵楽堂(なんきがくどう)日本初民間のクラシック音楽専用ホール、施主は紀州徳川家16代当主

1923大阪市音楽団設立 日本の最初のプロの交響吹奏楽団

1924築地小劇場 クッペル・ホリゾント(クッペル=ドーム、ホリゾント=舞台背景の幕)と呼ばれるドーム型の湾曲壁を設け、天井が高く、可動舞台を備えていた。高度な照明設備と優れた舞台を備えていたため、演劇の実験室としての役割を果たした。クッペルホリゾントは音声の反射のためでもある。

1924東京放送局設立 初代総裁は後藤新平

1925日本交響楽協会設立 山田耕作 設立、後のNHK交響楽団の前身

1927早稲田大学 大隈講堂座席数2000席、空席時残響時間は1.4秒音線による幾何音響学的作図法ならびに水槽の水面波動模型実験によった。

1929日比谷公会堂 早稲田大学 佐藤武夫 2660席 残響時間空席時1.2秒、満席時1.0秒、NHK交響楽団の前身の新交響楽団の定期演奏会場、煙箱法により形状を検討した。

1930名古屋市公会堂

1937宇部市渡辺翁記念会館、浅草国際劇場、日本のブルース

1939第二次世界大戦 193919451941年アジア・太平洋戦争始まる。

1940東京放送会館 東京市内幸町。演奏室の最適残響時間は、最適な直接音対分散音比で表して設計。

1948 Cremer第一波面の法則(先行音効果)

1949 Hass初期反射音の遅れ時間からエコーディスターバンスの研究

1951東京 歌舞伎座 復興建造、1月開館、座席数970席、満席時1.0秒、

1951Hass Haas効果の発見(遅延時間20msの反射音のエネルギーは、直接音の10倍になっても聴取妨害にならない現象で、拡声システム設計に欠かせない手法      

1951ロイヤルフェスティバルホール 戦後初の大型コンサートホール。残響付加装置(AIRO社、アシステッドレゾナンス)を設けオルガンに対応している。

1953 R.Thieleはりねずみによる指向性分布、Deutlichkeitによる評価(50msecまでの直接音成分

と全エネルギーの比D値で、明瞭性を評価する。

1953イタリアバシリカ教会の音響測定研究 A.C.Race(ベルギー)G.G.Sacerdote(イタリア) 

1954神奈川県立音楽堂 東京大学生産技術研究所 石井聖光 戦後最初に建ったコンサートホ

ール 1331席、満席時残響時間は1.2

1955NHKホールNHK技術研究所(牧田康雄)客席数630席、満席時の残響時間1.5秒という豊かな響き。TV中継用スタジオ機能を持つ。

1956東京工業大学講堂 設計:谷口吉郎、音響設計:松井昌幸

1957杉並公会堂船越義房(日建設計)

1958大阪 朝日フェスティバルホール大阪大学生産技術研究所  北村音壱

1959文京公会堂 設計:佐藤武夫設計事務所、

1959ブザンソン国際指揮者コンクールで、小沢征爾(24歳)優勝

1950年代後半 ルー・ハリソン、インドネシアのカムランへの興味から「Music Primer」を出版し、43

音音階を考案して微分音的な方向を目指したハリー・パーチと異なり、純正調に基づく五音や七音

などの旋法に強い関心を寄せた。インドネシアの村々では、村によって音程が微妙に異なり、独特の

響きがある、この様な調律の方法は、村によって保持する伝統の中で養われたものであり、結果とし

て無数のガムランの音律が誕生した。

1960京都会館 設計:前川國男 音響設計:東京大学生産技術研究所 石井聖光 「第一ホール」

は京都府内で唯一2,000席の座席(2015席)を越えるホールで、主としてコンサートを目的として設

計された。1960年から1995年まで京都市交響楽団定期演奏会が行なわれていた。 

1960 最初の音響模型実験 東京大学生産技術研究所 石井聖光神奈川県立青少年センタで、

最初の音響模型実験(1/16)が行われた。

1960牧田康雄:著 『建築音響』  日本放送出版協会出版

1961東京文化会館NHK技術研究所、東京厚生年金会館、武蔵野音大ベートーベンホール

1960年代以降 ラ・モンテ・ヤング50年代以降はジャズサックス奏者、空調などの持続する音のなかから、響きの中に存在する倍音に注意深く意識することで、純正調という音律に出会った。たとえば「中国の四つの夢」という作品では18171612の比率によって規定される音程を、弦楽器や金管楽器などの音が持続できる楽器によってさまざまな純正音程の持続音が演奏会場に漂う。、

1961騒音計の規格IEC123Recommendation for sound level meters が発行、1965年には IEC179 Precision sound level metersが発行され、A,B,C特性の周波数特性、指示計の動特性FastSlowが規定された。

1962ニューヨークフィルハーモニックホールL.Beranek音楽・オペラ・演劇の6つのホールと音楽学院からなるリンカーンセンターの中にある。座席数2836席、設計当初2400席であったが、席数を増したため、ホールの幅を広げ、樽のような形となった。残響時間は2.1秒(満席)で、十分長いが、評判が悪かった。

1962 L.Beranek『音楽と音響と建築』(翻訳は昭和47年第1刷発行)  

1963ベルリンフィルハーモニーホールProf.Cremer初めてのワインヤード型ホール。2218席、 側方反射音に注目し客席とステージの一体感を視覚音響的に実現した。

1965 Schröeder インパルス積分法による残響時間分析法、CoolyTukey 高速フーリエ変(FFT)

発表、 Assisted resonanceによる残響付加in the Royal Festival Hall (「1965)、P.H.Parkin、スケー

ルモデル実験手法の開発(1965F.Spandöck Meyer,Burgtorf and Damaskeゲッチンゲン大学の無

響室に被験者の周囲に65個のスピーカーを配置して、合成音場を作り出す装置を開発した。

1966 P.Damaske側方反射音の効果の確認 

1966デデーレンホール(ロッテルダム)C.W.Kosten, P.A.de Lange2,242席、残響時間2.0秒、座席数は評判の良いホールよりかなり大きいが、メインフロアーの中央部(594席)はステージから3mの高さの壁に囲まれ、内郭ホールを形成し、側方反射音を返している。

1966国立劇場1966.10竣工、桟敷席のない形態、歌舞伎劇場としては異質のもの。第二次世界大戦 後、文化庁の前身である文化財保護委員会に芸術施設調査研究協議会が設置され、1956の協議会答申に基づき、国立劇場の計画が具体化した。設計案は、計307案のコンペティションから、校倉造正倉院を模した外観とした竹中工務店岩本博行ほか13名による案が1963に選択され[8][9]196610月に竣工した。

1968 Marshall コンサートホールにおける側方反射音が音響的品質決定の重要要素、BarronMarshallLEの量を提案、Krokstad 音線追跡法でコンサートホールのコンピュータシミュレーション。ストックホルムコンサートハウスにMCR(Multi-channel reverberation system)を導入、コンピュータシミュレーション手法の開発(1968),A.Krokstad(ノルウェー)

1969 B.F.Day, R.D.Ford, P.Lord Building Acoustics出版、最適残響時間の室容積と用途の図

1971 Barron音場の『拡がり感』『音に包まれた感じ』は両耳間相互相関度と関係がある、L.L.Beranek“Noise and Vibration Control”1971

DamaskeAndo IACC(両耳間相互相関関数の絶対値の最大値 主観的拡がり感を表す。

1973 NHKホールNHK技術研究所 側方反射音を意識したホールおよび自走式音響反射板、90ストップの大型コンサートオルガンを備えた初めての大型ホール。 以下私見:実際に聞くと天井からの初期反射音がよく聞こえる。

1974ハリー・パーチ死去 音律 モノフォニーの理論 パーチという人間が発する「声」が純正調に基づいて体系づけられた音律。音程が協和する状態を聞き取ることで、正確な整数比に基づいているか即座に判断できる。実際の音律はリミットを11まで拡大され、アイデンティティも2357911の六個となり、11のリミットに含まれる6つの数値の比率の組み合わせから29個の音高が導き出される。そこに付加的に新たな音高が挿入されて、「43音音階」が生み出される。この音階に含まれる様々な微分的な純正音程や和音の響きがパーチの音楽を特徴づけている。

1974つま恋エキシビジョンホール 残響室を利用した残響付加用電気音響システムを導入した。

1975神奈川県民ホール東京大学 石井・橘研究室+日建設計自走式音響反射板、小ホールにはコンサート用オルガンが舞台袖に設置され、現在は舞台正面に移動された。

1977 The Tuning of the World  R.Murray Schaferサウンドスケープの概念が発表される。『世界の調律』平凡社1986年発刊

1980年代:・残響可変装置の導入例が増える、音楽を主目的としたシューボックス型多目的ホールが増える、室内音響のコンピュータシミュレーションが盛んになる・防振ボックス構造による遮音技術が普及する、V.L.Jordan“Acoustical Design of Concert Halls and Theatres”1980)、剰余数列に基づいて形作られた拡散構造(RGPパネル)の開発 Schröeder(1980)

1981中新田バッハホールNHK技術研究所 田んぼの中の音楽ホールとして話題になる。コンサートオルガンが舞台正面に設置され、残響可変装置(反射面の前を吸音面が覆うスライド式)を採用。

1981 W.Reichardt ClarityRoom Response

1982ザ・シンフォニーホール音響設計:大成建設 技術研究所、技術指導:東京大学 石井・橘研究室初めての大型コンサート専用ホール。建築記録の「残響2秒」が有名に。

1983安藤四一総合プレファランス尺度(オーバーオール聴取レベル、初期時間遅れ、後部残響時間 IACCを組み合わせて評価量を提案)

1984 Hougast Steenekenスピーチ伝達指数STIの簡易版(RASTI)を考案

1984 Dr.Ahnert,AKG社デルタ・ステレオフォニーを発表、拡声効果と音像定位をねらう。ディレイマトリックスの遅延時間とそれぞれのチャンネルのレベルを調整して、演者の近くに設置したスピーカに音像定位させる。

1986サントリーホール 永田音響設計 日本初のワインヤード型コンサート専用ホール。カラヤンの監修を受ける。大型企画とともにコンサートが社会のトレンドとなり新しい聴衆を創り出した。

1987下町唐座 安藤忠雄 浅草隅田川河畔で唐十郎が公演

1997札幌コンサートホール永田音響設計 ワインヤードタイプでサントリーホールの発展形

1997東京国際フォーラムJHA+ヤマハ 専門委員 (橘秀樹、山本照二)AFCシステム(YAMAHA&JH acoustics)導入

1997新国立劇場 オペラハウス竹中工務店技術研究所+LeoL.Beranek 3層のバルコニー席は、伝統的な馬蹄形でなく、平行面として、大きな音量を確保した。座席数1810席、満席時残響時間1.5秒。

1998東京藝術大学奏楽堂() 永田音響設計昇降可変天井の室容積可変による残響可変を行い、邦楽からオペラまでの様々なジャンルに対応したホール。

1998横浜みなとみらいホール音響設計:監修:橘秀樹 日建設計、ヤマハ囲み型バルコニー型シューボックスホール。直下を地下鉄軌道が走るためフローティングスラブ軌道を採用。

1998新潟市民芸術文化会館コンサートホール ヤマハ バルコニー席の手摺の壁をなくし、直接音を重視したワインヤードタイプ

2004ミューザ川崎シンフォニーホール永田音響設計アリーナ形式の客席で、螺旋状に上昇していくように配置され、客席空間は左右非対称となっている。2011.03.11の東日本大地震によりホールの天井が全面的に落下した。耐震改修後 201341日改修オープン

2012木造芝居小屋の音響特性 藪下満 建築学会技術報告集第18巻 第38号日本の伝統芸能をはぐくんできた芝居小屋の音響特性は響きの少なさ、音声明瞭性および音の方向感である。

2018 The Acoustics of Kabuki Theaters Clemens Büttner1), Mitsuru Yabushita2), Antonio Sánchez Parejo3), Yu Morishita4),Stefan Weinzierl1) ACTA ACUSTICA UNITED WITH ACUSTICA Vol. 105 (2019) 1105 – 1113 The Kabuki as the most important traditional Japanese public theater form with its characteristic mixture of spoken and sung vocal passages with instrumental accompaniment

has brought forth also a particular architectural type of performance venue.

2022 Symphonic Concert Life and  Concert Venue  in Tokyo 1868-1945 Clemens Büttner