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2025/07/18

建築音響の交流の歴史その16 童謡 さらにテトラコルド音階に関連して

 最近、肩が痛くなって、肩たたきの棒を100円ショップで買ってきた。以下に示す。


これで肩をたたきながら、昔はやった「肩たたき」の歌を思い出した。

肩たたき 作詞:西條八十、作曲:中山晋平

1.母さん お肩をたたきましょう  タントン タントン タントントン

母さん しらががありますね  タントン タントン タントントン

2.縁側(えんがわ)には日がいっぱい  タントン タントン タントントン

真赤なけしが笑ってる  タントン タントン タントントン

母 さんそんなにいい気持ち  タントン タントン タントントン

私の子供の頃はやった曲で、縁側で母の肩をたたきながら歌ったもので、いまでも何となく思い出すものだ。しかしここまでは単に童謡のはなしで、建築音響の交流の歴史の中にははいらない。

 

むすんでひらいいて

そんな童謡のことを考えていたら、天声人語2025.06.16に「むすんで ひらいいて てをうって むすんで」の童謡がのった。「原曲はジャン・ジャック・ルソーだとか。原曲はどんな感じのものなんだろう。そこから世界各地に広がったようで、中国では子守歌としてうたわれているとのこと。日本には明治の頃に賛美歌として伝わり、軍歌としても使われたようだ。多分筆者は、中国映画の「舟にのって逝く」を見てその中に出てくる、子守歌(むすんでひらいいて)に感動したのだろう。」

これを読んでから、童謡は、様々な世界から交流してきたものの一部と感じた。

たなばたさま

この暑い夏、今年も77日になり、この歌、「たなばたさま」を思い出す。このころちょうど笹が伸びてきて、その一部を切って、飾りつけをし、願い事を書いてぶら下げる。

笹の葉/さらさら   軒端(のきば)に/ゆれる

お星さま/きらきら  金銀/砂子(すなご)

五色(ごしき)の/短冊  私が/かいた

お星さま/きらきら  空から/みてる

さらさら   軒端(のきば)に/ゆれる

一般社団法人七夕協会のホームぺージによれば

「「たなばたさま」の歌は、第二次世界大戦のさなか、1941年に生まれました。小学校の制度が改正され新しい国定教科書が作られたときに、国民学校初等科2年生(今の小学校2年生)の音楽の教科書に載せるために作られた歌と言われております。作詞家、童謡詩人である権藤花代が作詞、詩人の林柳波が作詞の補助、作曲家、音楽教育家の下総皖一が曲を作りました。戦争中に作られたとは思えないほどやさしく、子どもの心に寄り添うようなあたたかさあふれる歌です。この歌には、子どもたちの幸せと、平和な未来への願いが込められているのかもしれません。」 笹の葉で、たなばたさまを飾った覚えもありますが、実は子供の頃はこの笹の葉の後、チャンバラごっこをして遊んだ覚えがある。おかげさまで平和な時代に生きてこれた。しかし現在は、ロシアのウクライナ侵攻、ガザへのイスラエルの攻撃、イスラエルによるイランへの核施設攻撃など落ち着かない状態もある。そこにいる子供たちがかわいそうだ。

 

じゃんけん

いまでもよくつかわれる、じゃんけんは、日本じゃんけん協会のホームページによると、「じゃんけんの「けん」は中国語の「拳」であることは確かで、拳遊びの多くは江戸時代に日本に伝わりました。それ以前にも拳あそびが伝承されていたと推測は出来ますが、確かな文献は江戸以降になります。」「ギリシャ・ローマ時代にも数拳があったとされているので、現在の西洋のじゃんけん(Rock-paper-scissors)と日本のじゃんけんがルールは同じでありますが、直接的関係があるかないかははわかっていません。しかし、世界的に見ても(参照)この「石、ハサミ、紙」という三すくみの形が一番多く用いられ存続しています。やはり「じゃんけん」こそ、拳あそびの最終形態と考えられるのではないでしょうか。」

 缶蹴り

私が小学生に上がるか否かの時、缶蹴りがはやった。私の住んでいた久が原は、そのころ舗装はなく、時々馬や牛が荷物を挽いて歩く程度で、滅多に自動車など走らなかったので、どうろで、近所の数人で缶蹴りを行った。電信柱や塀の角などに隠れた。「もーいいかい?」「まーだだよ!」「もういいよ!」のやりとりの後、あそびスタート!何度も何度も繰り返して行った。今の道路は車が占領しているので、どうろで遊ぶことは危険だ。そういえば今住んでいる荏田地区も、少し前は山で、それを切り開いて住宅地に変更した。その工事中は、道路はできていたが、まだ少しずつ工事中のため、車がこないために、わが息子が、どうろでスケートボードを練習するのにうってつけの空間だった。その場所ではラジコンを運転する子供たちもいた。

 だるまさんがころんだ

おおくはどうろで、鬼がだるまさんがころんだと目をつむりながらとなえると、ほかのひとがその間に、鬼から遠くへ歩く、歩いている間に、唱えおわると見つかってアウトになる。

 

かくれんぼ

世界の民謡・童謡のホームページ

かくれんぼ〈振り付き〉かくれんぼするもの よっといで じゃんけんぽんよ あいこでしょ 〜♪【童謡・唱歌】作詞:林 柳波(はやし りゅうは/1892-1974)、作曲:下総 皖一(しもふさ かんいち/1898-1962)。歌詞は非常にシンプルで、じゃんけんでオニを決めた後、「もういいかい まあだだよ」「もういいかい もういいよ」と、実際に子供たちが「かくれんぼ」で遊び始めるときの掛け声がそのまま描写されている。

 

かくれんぼするもの よっといで

じゃんけんぽんよ あいこでしょ

もういいかい まあだだよ

もういいかい まあだだよ

もういいかい もういいよ

 

このあそびはどうろでの場合もあったが、家の中で押し入れに隠れたりしたことも思い出した。

 

とうりゃんせ

これもどうろで遊んだ覚えがある。そういえば昔私が住んでいた久が原には公園が周辺に見当たらなく、どうろで遊んだのだろう。今住んでいる荏田町は、いくつもの公園があるので、このような遊びは、今の子供は公園で遊ぶのだろうか。

 

とおりゃんせとおりゃんせ

ここはどこのほそみちじゃ

ちっととおして くだしゃんせ

ごようのないものとおしゃせぬ

いきはよいよい かえりはこわい

こわいながらも

とおりゃんせとおりゃんせ

 

七つの子、作詞:野口雨情、作曲:本居長世

からーす なぜなくの からすはやまに

かわーい ななつのこがあるからよ

かわい かわいとからすはなくの

かわい かわいとなくんだよ

やまーの ふーるすへ いってみてごらん

まーるいめをーしたいいこだよ

 

赤とんぼ、作詞 北原白秋、作曲 山田耕筰

ゆうやけ こやけーの あかとんぼ

おわれて みたのーはー いつのーひーか

 

七つの子はカラスの子で、ごみをあさらなければ、カラスもかわいい、七つの子も赤とんぼも外

で遊んで帰りながら歌った歌だ。

 

にらめっこしましょアップップ

これは二人で、にらめっこしましよ、アップップといって、ほっぺたを膨らませたり、目を上に向

けたりして、相手を笑わせたら勝ちという遊びだ。子供の時は暇だったんだなと思う。何度も何

度も飽きるまでやっていた。

 

おちゃらか ほい

せっせっせのよいよいよい

おちゃらか おちゃらか おちゃらかほい

おちゃらか かったよ(または まけたよ、またはあいこで) おちゃらかほい

 

おちゃらかほいといいながら指であっちを向けたりこっちを向けたりして、相手がその通りに顔

を動かせば、まけたよとなる。これも何度も遊んだ。

 

ねんねんころりよ

ねんねんころりよ おころりよ

ぼうやはよいこだねんねしな

 このうたは、ははおやが子供を寝かしつけるときに歌うものだが、子供がお人形に向かって、

この歌を唄う場合もある。いまでは獅子舞のときに、獅子をなだめるときにも出てくる曲だ。

自分の小さな時の曲を思い出そうとすると、次から次へと出てくる。多分小さなころは暇で、し

かも家の近くで遊ぶところがたくさんあつたのかもしれない。家の前のどうろで遊ぶことは、くる

まがこない前提ではたいへん安全だ。いまのこどもたちはどこで、どんな遊びをしているん

だろう。

 作詞、作曲があるのは、明治以降にできた曲だ。明治20年(188710月東京音楽学校が

創立され、初代学長に伊澤修二就任した。明治25年から翌年にかけて『小学唱歌』という6巻の小歌集を編集出版している。この本の中に今まで上げた曲が入っているのではないかと思う。また明治23(1890)日本で初めてのコンサートホールである東京音楽学校奏楽堂もできた。音響設計は上原六四郎、残響時間は1.1秒である。コンサートホールといっても、残響時間が短いのは、この小学唱歌がこのホールの主の目的ではないかとおもう。ただしこの時はSabineの残響理論が出来た1900年より前になる。

 1958年(昭和33年)に小泉文夫が日本伝統音楽の研究1 <民謡研究の方法と音階の基本

構造>という本を出版した。その中で、わらべうたについて「子供たちはほとんど聞いたままを伝

えていく、」「一般にわらべ唄が、その民族の最も古いスタイルを保持しているに違いない、、」

と言うことで研究が始まったようだ。

.47「その上ダンケルトは地域的な限定づけにおいても、確固たる根拠を与えており、彼が「ヨ

ーロッパの民謡」と呼んでいるのは、「ヨーロッパ地域にある民謡」ではなく、「西洋文化の中に

ある民謡」なのである。したがってそこには「西洋文化の歴史性」が当然問題視され、そのにな

い手としての民族もGeschichtsvolkerRandvolkerに分けられ、その区別がたとえ明確にさ

れないとしても、、前者のみが「西洋的中核民族」であると定義した。このことは日本のように、

民族学的にも民俗学的にも比較的歴史時代における交流の少ないことからくる純粋な地域に

あっては、たいして問題にならないことであるかもしれないが、彼が民謡を単に音楽の形式的

側面においてのみとらえようとしているのではないことを物語っている。」

 日本のように、民族学的にも民俗学的にも比較的歴史時代における交流の少ないと私も

いたが、実はそうでもないことがわかって、建築音響の交流の歴史という、この連載を始めた。

しかも今回の童謡をテーマにした理由は、天声人語の中の「むすんでひらいて」の原曲はジャ

ン・ジャック・ルソーで、中国にも伝搬していると書いてあったことがきっかけである。

しかも日本伝統音楽の研究1というこの本を改めて読んでいるのは、日本の音楽はテトラコル

ドだと書かれていたが、実は昨年読んだ東京科学大学の建築学科の吉田さんの卒業論文( 昨年書いた私のブログhttp://yab-onkyo.blogspot.com/2025/01/202412.html)の中

に、ピタゴラスの後にAristoxenusBC375300)がElements of Harmonyという本を書いたと

のこと。このHarmony はクラシック音楽ができる前のドミソの和音のことではなく、ギリシャ

の基本構造はテトラコルド(tetrachord)から成り立っているとのこと。古代ギリシャ時代にアリス

トクセノスが、テトラコルドを唱えていたと書かれていたからである。

日本伝統音楽の研究1のp.124「私の考えでは、ある決定した音とある決定した音程とがあっ

て、この両者が互いに関係しあいながら音階を構成するものと思う。この「ある決定した音」とい

うのがこの場合核音であり、「ある決定した音程」というのは、核音間の音程である。」

.129「それでは核音間の音程は、伝統音楽の旋律の中で、どのような方を示すであろうか。私

は民謡から出発して、大体次の6種類に分けて考える。すなわち⑴エンゲ・メロディー型、⑵

テトラコルド型、⑶ペンタコルド型、⑷プラガル旋法型、⑸正格旋法型、⑹広音域型である。」 

.181 「⑵のテトラコルド型というのは、ギリシャの4度音階から借用した呼び名である。ギリシ

ャ音階は、4度を2つの音で種々に分割して得られる全音的、半音的、エンハルモニー的テト

ラコルドを基礎としているが、このテトラコルドは、4つの音を持ち、4度にまたがる音程系列関係を意味する。、、、、、中略、、テトラコルドにとって不可欠な要素は、両端の不動の音が互

いに4度音程の間隔をなすと言うことである。」

.152には「ギリシャのテトラコルドの概念は、10世紀にアラビアに輸入され、ウードの持つ4

弦は新たに4度間隔に調弦しなおされる。」「古代インドでも、テトラコルドは重要な働きをし

た。」「音楽理論の歴史は、ギリシャの哲学者や、アル・ファーラビーやバハーラタの理論の中

で、4度という音程が、どれほど音組織における基本的な意味を持っていた。」ここでいうギリシ

ャの哲学者とは先ほど述べたAristoxenusで、アル・ファーラビーとは900年ごろ中央アジア

のイスラム哲学)の音楽大全(定量音楽)を書いた人で、今でいうカザフスタンのアルマティ生

まれで、アルマティの民族学博物館にアル・ファーラビーの肖像画があった。

写真:民族学博物館があり、その中にアルマティの肖像画があった。私のカザフスタンで民俗音楽を聴く というブログを示す。http://yab-onkyo.blogspot.com/2008/10/blog-post_17.html

私の隣は北朝鮮からロシアに留学していたテン先生で、兄が映画監督で、思想犯として北朝

鮮で殺され、自分も追われる身になっていたが、カザフスタンまで逃げて、作曲家として活躍

することが出来た。

 

.153 「今日現存する多くの民族音楽の音組織の中に、やはり日本の民謡や中世音楽に認

められたと同様の、核音程としての4度構造が、存在するということ」「西アジアや東ヨーロッパ

の一部に、核音交配の明瞭な音組織することは、、、、、これらのうち4度の核音程が特に目

立っているのは、トルコ、アルメニア、白ロシアなどである。、、、このテトラコルドの分割には、

増音程を含むいわゆるジプシー音階もみられ、、」

.194 「明治初年音楽取調掛長であった伊沢修二は、、、、、呂の七声をdo-doの長音階

に、律の七声をla-laの自然的短音階に比較して、前者では変徴がfaより半音高く、後者で

は羽がfaより半音高いだけの違いであり、、、」p.195 「幸か不幸かこのような取調掛長のオプ

ティミズムが、明治以降の洋楽輸入の基本的態度であり、それに基づいた音楽教育が今日の

我々の土台になっている。」

この最後の文章が、小泉文夫にとって、この本を執筆した原点であるようだ。という感覚を私も

共有して、4050年ほど前にこの本を購入した。小泉文夫が日本伝統音楽の研究1 および

Ⅱ、音楽の根源にあるもの、この三冊は、わたしから一時クラシック音楽を遠ざけていた。しか

しある時、ウイーンのハンス・ホラインと組んで、設計コンペに参加していた時、私が暑くて、上

着を脱いだら、君も暑いんだ、私も脱ごうと言ってホラインも上着を脱いだ。単なる日常的な出

来事だが、わたしの感覚では、人間みな体温は36度前後で共通なのだという感覚を多分ホラ

インも持ったような気がする。多分それ以来、クラシック音楽も含めて、音楽好きは再度取り戻

すことが出来た。

 

この本題は童謡である。私の約70年前の環境と今の子の荏田町の環境は大きく違っている。

ここへ引っ越した頃は、まだ山や林の木々も残っており、七つの子が歌えるような環境だった

けれど、今は、山はほぼ開発されて、ごみ集積場で、生ごみをあさるカラスというイメージにな

っている。唯一、早淵川は、自然の営みがあり、子供たちも水にはいってザリガニや魚とりなど

で遊んでいる。子供たちにとって半分しか管理されていない、自発的に遊べる自由な空間が、

童謡やわらべ歌にも必要な気がする。

 

実は50年ほど前に、夫婦でギリシャに行ったことがある。サントリーニ島に行く船の中で知り合

った建築家のディモスがくれたカセットテープ(日付19741月と書いてある)を聴いている

が、のんびりした感じの、抑揚がそんなにない、歌いやすい曲だ。帰国してからも何度も聴き、歌い

覚えたくらいだ。これもテトラコルドかもしれない。