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2030/01/01

News

20220831 ワイエービー建築音響設計は8月末をもってクローズ致しました

2024/12/28

かつて荏田町に芝居小屋があったところ

 新潟の文化遺産をいくつか見たあとで、毎日散歩しているこの荏田町について考えてみた。荏田町の、この以下の写真の場所は、数年前には野菜の直売所になっていて、その中にいたおじいさんがこの場所にかつて仮設の芝居小屋が時々建って芝居を行っていたと言っていた。今は、直売所の建物はあるが、単に駐車場になっている。しかし江戸時代には、大山街道の荏田宿がこの地点で直角に折れ曲がっている荏田宿中心の場所となっていた。荏田宿を折れ曲がらず、そのまままっ直ぐ行く道路は釈迦道(しゃかんどう)という尾根を越える山道で、尾根の頂部のところで釈迦堂が近くにあった。しかし現在は、釈迦堂はなくなり、忠魂碑となっていて、しかも釈迦道は尾根を切通している県道となっている。旧荏田宿の角を反対側に折れ曲がる道路はかつてなく、単なる尾根となっていた。国道246号線が尾根の先端一部を削って、その勢いでさらに削って、現在の道が新設された。私は散歩をするたびに歴史上にあった荏田宿のシンボルになるようなものはないか気にかけていた。私の勝手な空想であるが、ここに木造の土壁造りの芝居小屋を作り、普段は野菜の直売所等として使い、夕方からは、この地域に昔あったとされる神楽やお囃子や音楽・演劇の公演場所として使うようなことが出来たらいいのだが。さらには桟敷席が災害時の避難場所にもなるといいのだが。多分人が集まれるような、公共的な施設が好ましいかもしれない。以下に芝居小屋兼野菜の直売所の案を示した。

         写真:20241222日(日)午前7時ごろ 朝の散歩の途中で撮影


              

                       図 芝居小屋 兼 野菜の直売所 案

2024/12/26

白鳥のいる瓢湖への旅

 20241218日(水)から19日(木)まで、白鳥のいる瓢湖を目的に旅行した。全行程は新潟駅、旧伊藤家住宅、角屋旅館(腎臓食を出してくれる)、瓢湖(朝7時前後)、旧斎藤家別邸、北方文化博物館別館、港のマルシェ、新潟駅

東京駅から11時半ごろ上越新幹線で新潟まで向い、まず旧伊藤家住宅、現在北方文化博物館にいった。豪農だった伊藤家住宅は大きい敷地に建っているが、これを北方文化博物館として、さらに民家数軒や食堂やお土産屋まである。下記は大広間の写真であるが、庭の美しい景色が眺められるように作られている。廊下側にある柱は屋根から欄間が懸垂され、それから下はなくしている(写真)、敷居がフラットになっていて、庭をいかにきれいに見せるかと心を砕いて設計されている。当日は、外は半分雪景色であるが、昔から開け離れていたのだろうか?



             写真:廊下部分の欄間は屋根から懸垂されている。

       写真:囲炉裏の上部には吹き抜けになっていて、煙抜きがある。


                         写真:豪農の住宅の台所


豪農の住宅の台所は広い。炊飯器や洗濯機がない時代、また囲炉裏が重要な役割がある時代には、台所は広いスペースが必要だったと思われる。



              写真:集古館(旧米蔵)から伊藤邸主屋を見る。

その後、五頭温泉郷にある角屋旅館にいった。ここは湯治場としてのラジウム温泉というだけでなく、腎臓病のための食事を出してくれるところでもある。しかもおいしいものだった。住所は新潟県阿賀野市村杉4631-1、腎臓病のものにとっては代えがたい旅館だ。さらに瓢湖があるから角屋旅館に行きたくなる。

翌朝、角屋旅館から朝630、バスで56名と瓢湖に向かった。瓢湖は新潟県の阿賀野市にある。新潟市の隣の市である。瓢湖の白鳥は何千羽もいるようで、さらに幾種類かの鴨がやはり何千羽もいるようだ。



これらの白鳥が刈り取った稲の残りを取りに一斉に飛び立つのが見もののようだが、既に12月で、稲の残りが少なくなってしまったようで、なかなか飛び立つ気配がなかった。



                      写真:瓢湖には民家が隣接している。

瓢湖は江戸時代に水田用の溜池としてつくられていて、人造湖であるために、山の中にある湖ではなく、民家も湖畔まである。白鳥や鴨の出す声は聴く人によっては騒音といわれるほど賑やかで大きい。ただバスの都合か30分程度で引き揚げた。

10時に旅館をチェックアウトし、旧齋藤家別邸に行った。この齋藤邸も豪農の一人のようだ。建物の装飾も素晴らしいもので、建築家・大工の力を感じるものだ。


                         写真:2階の広間

写真:1階の庭とのつながり

旧齋藤家別邸に隣接して、北方文化博物館新潟別館がある。これは旧伊藤文吉の別邸であったが、この一部洋館を戦後 歌人 会津八一(あいづやいち)別名 秋艸道人(しゅうそうどうじん)に貸していたとのこと。以下は旧伊藤文吉の別邸の広間で、先ほどの旧齋藤家の広間と似た造りとなっていた。庭とのつながりを大事にしていたことがわかる。


          写真:1階の庭とのつながり、旧齋藤家と似た造りで、庭との関係を大事にしている。



                  写真:旧伊藤文吉別邸の床の間、障子の細工が細かい。

見学をしながら、時々雪になったり、雨になったりしていた。そのあとは昼ご飯を港のマルシェで食べて、新潟に向かった。

この新潟駅周辺には見るべき文化遺産がたくさんあった。瓢湖だけでなく、建物の文化遺産がたくさんあった。建築家=大工の高い精神性を感じた。また行ってみたいところだ。

2024/12/22

世田谷美術館の見学

 日時:20241217日(火) 1130用賀駅集合

場所:世田谷美術館、まず用賀駅の改札口で11時半に落ち合い、皆さんの希望である美術館のレストランでなく、私の腎臓病の観点から、日本蕎麦屋に行き、食事をし、バスで世田谷美術館に向かった。

目的:東工大建築学科の親しい仲間たち6名と内井昭蔵設計の世田谷美術館(竣工1985年)の見学を行う。美術館では、現在(11/302/02)、『東急 暮らしと街の文化-100年の時を拓く』とうい特別展をやっていた。以前、数十年前、同じ仲間と内井昭蔵設計の桜台ヴィリッジと桜台コートヴィリッジを見学に行ったことがある。その図面が特別展の中で展示されていた。当時はUR都市機構(昔住宅公団)の箱状のマンションが一般的だったころ、雁行したマンションが出来たことで目新しく、懐かしい。その内井昭蔵が世田谷美術館を設計した。地下1階、地上2階建ての建物で、なんだか池袋の自由学園の建物のような雰囲気がある。細かく見ると違いがあり、例えば外壁はタイルを打ち込んだPC版でできており、その上部は緑青の銅板で吹かれており、屋根も赤茶色の鵜版でふかれている(写真で示す)。外部の通路も印象的な柱と緑青銅板でふかれた屋根で出来ている。単純に打ち放されたコンクリートの平坦な壁ではなく、装飾された柱や壁や屋根で出来ている。

東西アスファルト事業協同組合のホームページ(www.tozai-as.or.jp/mytech/88/88_uchii07.htmlの内井昭蔵の『建築と装飾』という文で、私の大好きな空間は、目白の自由学園の子どもたちの居間のような部屋で、、、装飾については、現代の建築においても、人の心を和ませるというか、近づきやすくさせる手法はいろいろあると言っている。ちょうど世田谷美術館のことを言っているようだ。自由学園で印象的だったのは、木製のステンドグラスと大谷石の暖炉、その他全体的な構成は2階建てで、世田谷学園と大きな違いはない。

地下にあるカフェで一呼吸して、私は用事があるために、先に失礼した。

世田谷美術館の背後にある世田谷青果市場の建物が大きく、また混ざってしまっていて、世田谷美術館のシルエットがくっきり見えてこない(写真で示す)。風景がごちゃごちゃする理由かもしれない。世田谷美術館に合わせて、もう少し低い建物にできなかったのか気になる。








写真:背後に大きな青果市場があり、風景がごちゃごちゃしている。

             写真:外壁と屋根



2024/12/15

オペラ IL TROVATORE コンサート

 日時:20241214日(土)1400開演

場所:マリーコンツェルト 板橋区中板橋 北口より徒歩で3分のはずだが、横道に入りそこない、遠くまで歩いて行ってしまった。ホールはRC造の2階、一部3階になっていて、1階はエントランスホール、男・女用のトイレ、2階は舞台・客席、3階は客席 1階は70席ぐらい、2階も30席ぐらいか。永田音響のニュースでは100席と書かれいる。とにかく満席だった。壁は打ち放しのコンクリートで、天井はよくわからないが黒っぽい色で塗装されている。多分吸音性のドリゾール板のようなボードと思われる。

暖冷房は縦格子状の四角のパイプでできていた。多分換気は熱交換を行いながら換気できる換気消音のシステムが天井にできているようだ。このような方法であれば空調騒音が小さくすることができる。設計は大塚亨設計事務所、音響設計は永田音響設計。

曲目:G.Verdi作曲のオペラ IL TROVATOREの中から、穏やかな夜、嫉妬に燃えて、炎は燃えて、君が微笑み、見よ 恐ろしい炎を、恋は薔薇色の翼に乗って、他

出演は中島寿美枝(LEONORA)、末広貴美子(AZUCENA)、小川英子(PIANIST)、川久保博史(MANRICO)、木村聡(CONTE DI LUNA)で、板橋こもね歌劇団が主催しているようだ。こもね歌劇団は末広さんの手紙によれば、川久保博史と中島寿美枝ご夫妻が主催する団体のようで、出演者の木村さんも板橋区小茂根に住んでいることから名前がついたようだ。IL TROVATOREの物語は、司会進行の田代直子が大きな流れを話し、その後オペラの重要なアリアなどを唄うもので、オペラ全体の流れがよく理解できながら楽しめた。ただ話は複雑で、ジプシーの老婆が火炙りになる話やその老婆の娘による伯爵の息子(弟)の誘拐や復讐としてその子を火に投げこんだつもりが間違えて自分の息子を投げ込み、伯爵の子を育てたり、その子の恋人と伯爵の子供との軋轢やその子と本当の弟との決闘や最後まで様々な出来事が現れる。物語としてこれ以上劇的なことはなさそうな話だ。したがってアリアは激しい歌声になる。このような激し歌声には今回のコンクリート打ち放しの空間は最適のように思う。ただ強い反射音が直接音を補強しているが、そのため音像(歌っている人の声)が少し不明瞭になる感じもあった。特に歌手が上階から歌うシーンがあったが、2階の客席から聞いていると、どこから歌っているのかよくわからず、部屋全体から響いているような感じだった。私は以前永田先生が一応完成してから音を出して好ましい状態まで吸音材などを追加するのをテイラーメイドといっていたが、それが少し必要な気がした。

実は私が設計のかかわったものであるが、2012年に竣工したトライビートスタジオのスタジオAは天井高さが6m近くあり、さらに残響調整のために、1m角ぐらいの吸音材を壁に取り外しができるようになっている。このマリーコンツェルトの近くを流れる石神井川を下るとこのトライビートスタジオはある(写真で示した)。ただし現在はリボーンスタジオという名前になっているようである。


              写真:マリーコンチェルトの内部、コンサートの前に撮影

             写真:マリーコンチェルトの天井の拡大写真

             写真:トライビートスタジオのAスタジオ


2024/12/12

黒潮プロェクト 台湾-与那国-済州

 日時:20241210()700945ぐらい

場所:日暮里サニーホール

主催:音楽詩劇研究所

テーマ第一部:そして魂と踊れ:演出・作曲 チョン・ウォンキ

第二部:黒潮の子 演出・作曲 河崎純

第一部の魂と踊れは、済州島で生まれ育てた人々が戦争なので、命を失い、海の底に沈んでしまった魂を蘇えらせて、歌と踊りで表現する物語。歌は、ムン・ソクボムという人で、声はしゃがれているのだが、大きな、また力強く通る声で歌う。、この演劇ではこの人の存在が非常に大きい。また音楽はチョン・ウォンキが観客席から指揮を執り、チャン・ジェヒョの打楽器やパク・スナの伽耶琴(かやごと)や河崎純のコントラバスが力強く聞こえた。

第二部は黒潮の子は、黒潮が運ぶ島々の唄で表現されている。素晴らしかったのは、台湾原住民族の民謡で、エリ・リャオが歌うものだった。たしかにこの日本は海外から黒潮の流れにのって、さらに北の方から親潮にのって来た人々がたくさんいる寄せ集めの民族?といえる。ただ言いたいことがたくさんありすぎて、後半の物語は、演劇としてのまとまりがかけているように感じた。

第一部も第二部も大変刺激的な物語だった。







           

                          写真:日暮里サニーホール 開演前に撮影



2024/12/06

斎藤静&三又瑛子Duo Recital

 日時:2024125日(木) 1900開演

場所:めぐろパーシモンホール 小ホール 椅子は可動席で床は平らにもなるようだ。おおよそ150席。

物静かな曲 物思いにふけるような曲、たとえば枯葉、シンドラーのリスト、 ツゴイネルワイゼンと、それに反してリズムがあり、元気が出そうな明るいピアソラのル・グラン・タンゴを対比している。また荒城の月は今年亡くなった坂本龍一の「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を思い出させる しみじみとした曲

アンコールはきよしこの夜とピアソラのリベルタンゴ。このコンサートで最終的に斎藤さんが言いたいことは、この世の中、悲劇的なこともたくさんあるけど、ピアソラの曲が象徴しているように、とにかく元気を出して頑張ろうというメッセージのような感じがした。いいコンサートだった。

このめぐろパーシモンホール 小ホールは写真の様に壁はランダムな縦縞の凹凸になっていて、壁からの反射音を拡散することで、音源の位置・大きさを明確にする役割がある。しかし強い反射音が無くなると、直接音を補強することが出来なくなってしまう場合がある。もう少し強い反射音が得られる面も設ける必要があるように思えた。







             写真:めぐろパーシモンホール小ホール、開演前に撮影