ページ

2026/08/30

ウクレレコンサート たまプラーザ東急百貨店ロビーにて

日時:2026829日(土)4時ごろ

場所:たまプラーザ東急百貨店ロビー

演奏:RIKE‘sUKE (リケズユーク)(たまプラーザにある音楽教室)

たまたま食事のためにたまプラーザ東急デパートに出かけたところ、ウクレレコンサートをロビーで行っていた。一人がメロディを担当し、他の人はメロディに合わせて、リズムをとった音で演奏していた。シャンソンなどいずれもメロディはよく知った曲だった。リズムがそろっているためか、演奏は歯切れがよく、残響の多いロビーでもきれいに聞こえた。


写真:この立っている人がメロディ担当の人。アンコール曲の説明をしている。



2026/08/29

邪馬台国と地域王国を読んだ感想

 著書名:邪馬台国と地域王国

著者:門脇禎二、奈良女子大学教授などを歴任、2007年没

出版社:吉川弘文館 202651日第一版発行

品田知章著 「倭という種族」という本を今年の4月にブログに紹介したが、中部電力という会社にいて、歴史学の専門家ではない。そこであらためて歴史学の専門家の話を読みたく思った。

邪馬台国と地域王国の最後のあとがきのところで、副著者 狩野 久、佐藤宗諄が、Ⅰの邪馬台国論は新稿で、Ⅱ、およびⅢは筆者がここ5年ほどの間に発表されたものを編成したとのこと。著者の門脇禎二は出版間際で亡くなったとのこと。このⅠ編の原稿は、2005年に出版社に渡したものだそうだ。

本書、「邪馬台国と地域王国」という本は、「倭という種族」と同じ邪馬台国は九州説をとっている。また本書の原本は2008年に発行されているが、その後著者が発表したものを追加構成していたが、最終的に完成せずになくなったために、狩野 久と佐藤宗諄が最後にまとめたものだそうだ。

Ⅰの邪馬台国論については、多くの考古学者が主張するヤマト中心の政治体制を説く所論は、古墳文化のもつ民族・民俗文化形成の意義を見落とし過ぎだ。門脇氏は各地方の地方王国を調べて、魏志倭人伝 以外に東夷伝には、魏使は伊都国までは行くが、あとは伝聞で書かれている。当時の日本人の表現の仕方は、「里数を知らず、、ただ測る日をもってす。」とあり、倭人伝では、魏の使いは伊都国には着いたが、女王国の都する邪馬台国は、水行10日、陸行1月とある。しかしp.88には太宰府天満宮が持っているの中に引用された広志には、伊都国のすぐ南に邪馬台国があると書かれている。門脇氏は魏志倭人伝のことをまともに受け取る必要はないとした。ただ最後には、八世紀初期の律令による統一国家体制ができる前段階の5世紀末から7世紀、各地がぎくしゃくしている段階では、各地域の独自の歴史展開を再構成した方がよい。こういう観点からは、邪馬台国近畿・大和説は間違いではないかと考えている。筆者は文献資料を基に調べる文化史学者のために、非常に様々な観点から調査をしているようだ。

第二章のはじめにのところで、邪馬台国問題は、学徒兵として送られた中国戦線から何とか生還し復学を果たし、卒業して研究生活に研究生活に入った1949(昭和24)当時、既に古代史の中の重要論点の一つであった、と書かれていた。以下の私のブログでも紹介していたが、芥川 也寸志 生誕100年 誘う童心 目指した「みんなの音楽」、これは童謡、さらにテトラコルドの続き (http://yab-onkyo.blogspot.com/2025/08/100.html)で、服部幸雄は1932年生まれ、小泉文夫は1927年生まれ、芥川也寸志は1925年生まれで、著者門脇禎二は、ほぼ同時代の活動年代である。明治維新および第二次世界大戦の敗戦後の日本の音楽や演劇の動き、さらに戦争時代の学問に反発して正常化しようとする動きかもしれない。ちなみに先日読んだ「倭という種族」を書いた品田知章は1936年生まれ、この門脇禎二より11歳若い。

本書の最後の方、p.266に、日本の最初の寺院である飛鳥寺を造った匠のリストがある。

飛鳥寺は天皇元年(588)に造られ始めたが、まず百済が仏舎利を献上、僧を送った後、日本に寺工を送ったようだ。そのリストもある。筆者は全て百済の技術者だと思っていたが、作家の松本清張が、飛鳥文化にはゾロアスター教が入っていると指摘。再度調べたら匠のリストには、ペルシャ語で、人の名前でなく、職業を指していると。日本最初の本格的文化である飛鳥文化の国際性は、シルクロードを通って隋・唐や百済を通してきたペルシャ文化の影響もすごくある。

我がブログの建築音響の交流の歴史 その19 シルクロードを通ってきた音楽・楽器・演劇でもシルクロードのことを示している。http://yab-onkyo.blogspot.com/2026/05/19.html

 .271に女帝皇極天皇のことが出ている。百済大寺ができたあとすぐ消失、皇極天皇が即位した後、すぐ再建したと出ている。ウイキペディアによると皇極天応は、「飛鳥時代の天皇。茅淳王を父とし、吉備姫王を母とする。天智天皇天武天皇の母でもある。舒明天皇の妃となり、630年に皇后とされ、642年に舒明天皇の死後即位した(第35代皇極天皇在位642645」このことを見ても、今回20267月の皇室典範改正で、天皇のことを男系男子とする必要がある、これは神武天皇以来2600年変わらないと政府は言っていたが、正確な歴史をよく見る必要があるのではないか!そもそも最初のところはつくられた神話だ。この皇室典範改正の再度改正が必要だ。皇室典範は明治時代、伊藤博文により造られたものだが、好戦的なはずだ。明治時代から太平洋戦争までは肉弾戦だった。とにかく男が必要だった。それより以前の状態を考慮し、平和憲法を下地にした新たな法律を作り、天皇の長子を天皇の後継者とすべきである。

 この邪馬台国の歴史を見ていると、この本の著者は、文献の歴史を見ながら様々な角度から判断し評価する方法を取っているようだ。しかもその文献を書いた人たちの立場も異なって、考え方にも相違が出てくるので、そのことまで評価の対象としているようだ。また遺跡を発掘しながら歴史を評価する方法を取っている人もいる。さらに本当の歴史は様々な角度から見たもので評価すべきだとも感じられた。



2026/08/17

五大路子ひとり芝居 横浜ローザ を観劇した

五大路子ひとり芝居 横浜ローザ

企画・出演:五大路子

演出:福島三郎

演奏:バイオリン 太田惠資、奥別ゲスト:フルート 杉山葉子

会場:KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ(客席数220席、ロールバックチェア)、天井が高い。

開演:2026813日(木)2時から4時、公演そのものはは8/138/164回。

物語は、戴いた横浜ローザ年表に詳しくあるが、話の筋は横浜ローザの人生そのもので、大変複雑だ。戦後すぐ夫は戦犯で沖縄に収監、横浜から夫が出航した時米兵から強姦され、その後、娼婦となる。さらにその後、米兵と会い、結婚するような話が出るが、彼は朝鮮戦争で亡くなる。夫は刑が終わり返ってくるが、殴られてそのまま分かれる。東京オリンピックの時に、かつての米兵と、うり二つの若者がいて、彼の実の息子だと分かった。結婚しようとしていた米兵は既婚者だった。しかしその現実はあったが、それを押して母親代わりになるが、ベトナム戦争があり、脱走兵として、資金をだし、彼を国外へ逃亡させる。そこで彼とは別れたままになってしまう。横浜ローザの人生の節々で、戦争に振り回されたことがわかる。昭和天皇がなくなり、皇居に手記帳しようとするが、本名が書けない。今までの人生を否定的にとらえて考えてのことだろう。舞台を見ていて、反戦を訴えている演劇だと感じる。そういえば今日815日は終戦記念日だ。

 舞台中央には窓のある両開きのドアがあり、その窓から中が見える(写真に示す)。まるで“飾り窓”の雰囲気だ。今後はこのドアの前から話が進む。米兵に強姦された後、娼婦にならざるを得ないことになり、真っ赤なドレスに身を包み、身を売りに出した。若かりしときの横浜ローザ、戦争により、夫や米兵との恋に破れ、最期はこのドアの前で息絶える。戦争のむごたらしさを端々で訴えている。きわめて劇的な人生だ。最後に横浜ローザは自分の人生を否定的にとらえていることを昭和天皇崩御の時の記帳で示した。

ただ劇団の名前は横浜夢座だし、五大路子さんは前向きな感じだし、物語として横浜ローザを否定的にとらえるのではなく、徹底的に横浜ローザになりきって、華やかな娼婦という物語を進める方が、娼婦という否定的な存在を前面に押し出し、観客に戦争のむごたらしさを感じさせることができるのではないか。昭和天皇崩御のときの記帳も横浜ローザとすべきだと感じた。その名前でこれまで仕方無く生きてきたのだから。この演劇は横浜ローザの人生そのものを表現した、いろいろ感じさせる、重い、いい演劇だと感じた。

バイオリンの演奏もフルートの演奏も物語とあっていて大変よかった。しかもバイオリンの音もフルートの音もきれいに聞こえた。

少し大空間のために、少し残響があり、声の明瞭性が少し欠けるような気がする。天井が高く、直接音を補強する初期反射音が少ないためではないかと思う。

写真:公演がはねた後に撮影した。これから上映及び五代さんのあいさつがある。






2026/08/07

寺沢 薫 著 銅鐸の世界 を読んで考えたこと

 寺沢 薫 著 銅鐸の世界、副題:考古学が解き明かす最新の銅鐸論、、寺沢 薫 著 新泉社刊

仕事を辞めてからは、ほぼ毎日、暑い日も、早淵川沿線を散歩しているが、この間に、ほぼ毎日サギやウやカワセミなど、更に夏はトンボや蝉が見られる。この早淵川には小さな魚がたくさん泳いでいて、それをサギやウやカワセミが食べに来る。ときにはカラスがスズメを食べているところ、子供たちが川に入って網で魚を捕っているところにも出くわす。早淵川は小さな川だが、季節の移り変わりや自然の循環を感じることができる場所だ。このサギが、次に述べる大昔の銅鐸にも表現されているようだ。

この本によれば、弥生時代にできた銅鐸は、最初「聞く銅鐸」で、そのうち「見る銅鐸」と変化したようだ。「聞く銅鐸」は稲の栽培に関して、主に稲をまくときと、稲を刈り取った後にお祭りをして、この銅鐸を鳴らすようだ。この稲作に関してはサギやトンボも大事な役割があるようだ。稲の成長に大事な貢献をしているようだ。銅鐸の側面に描かれている。この早淵川散歩でもサギやトンボは魅力的な動物たちだが、弥生人たちにも大きな貢献をしているようだ。この銅鐸は小さな吊り鐘のような形をしているので、音を出して楽しむ道具と思っていたが、さらに大小2本の銅鐸をつるして、奏でるようなので、どう考えても音楽を奏でている感じだが、その様子は書かれていない。リズムやメロディはこの二つがあれば奏でられる。今のお囃子は、大太鼓、締め太鼓と篠笛だ。これも稲作に関係したお祭りの時に演奏される。紀元前後からこの銅鐸は存在しているので、そのうち何らかの痕跡が今も伝わっているような気がする。ひょっとしてサギの足の骨からも笛がつくれそうな気もする。さらに銅鐸はお寺の鐘の様にたたくと唸りを生じているかもしれない。多分その唸りは天国に人々の気持ちが伝わるよう音だ。

そんな話は本書には出ていなかったが、弊社作成の音楽歴史年表には、「Smunzel, F.Seeberger and W. Hein の論文 「ドイツ南西部のガイセンクレステルレ洞窟からオーリニヤック期(後期旧石器時代最初の文化期の笛の断片が3点出土。1点は白鳥の橈骨ドウコツ(翼の骨)に加工を施したもので、現存長126.5mm、中空で、長軸に沿って3か所に孔が現存している。炭素14年代測定でBP33500年ころ、熱ルミネッセンス法でBP37000年ころ(BPとは1950年を起点に遡及した遺物年代)、骨端を口にくわえて吹くタイプの笛。同様の断片がもう一点、3点目はマンモスの牙製で、中空。現存長は18.7cm、指孔と思われる孔が長軸に沿って3か所あけられているが、器体は、1孔の脇で破損している。」 中国河南省舞陽県賈湖Jiahu遺跡から、タンチョウヅルの尺骨(羽の骨)に孔を開けた笛が25点出土した。紀元前7世紀のもので、尺八のような吹き方をしたものと考えられている。日本の遺跡から出土する楽器の中で最も古くから存在するのは「土鈴」で、新潟県の二つの遺跡から、縄文前期の土鈴が1点ずつ出土し、縄文中期になると、中部山岳地帯から関東西武の丘陵地帯からおびただしい数の土鈴が出土している。縄文時代の土鈴は密閉構造をとっているために、きわめてかすかな音しかしない。「鰐口」と呼ばれるスリットが入り、大きな音が出るようになったのは、古墳時代以降である。、、、弥生時代に入るとあらたな楽器が日本に登場した。中国起源の土笛である「塤(けん)」で、卵形、内部は中空、上部に吹き口があり、、日本で出土するのは、前面に4孔、後面に2孔の合計6指孔タイプ。弥生前期の日本海側の遺跡から100点近くが出土しているが、多くが、器形が崩れていまっており、吹いても音を発しないものが多い。この「塤(けん)」がなぜ弥生人に受け入れられなかったかは、日本人の楽音に対する好みの問題ではないか。 また弥生時代には、銅鐸、小型の小銅鐸も当たらに生み出された。楽器であるか音具であるか議論のあるところである。弥生・古墳時代の琴は、一枚板の琴と共鳴体を伴うものがある。」

と言うことが出ており、本書の内容が大変気になっていたが、この本では銅鐸が楽器なのか音具なのかはっきり表現されていない。ただ二種類の銅鐸をぶら下げて音を出すと言うことは多分、ある程度リズムはもちろんメロディもそれによって作れるような気がする。さらに本書では「(けん)」については出てこない。これは笛の一種だと思うが、弥生時代のものなので、銅鐸とは同時期のような気がするが、この塤は多少の音階が出せるようなので、銅鐸にあわせてお祭りに使えそうな気がするが、証拠がない。

本書のp.214 に「争う二人を仲裁する人物」が銅鐸に描かれているが、著者は弥生時代の銅鐸圏の男女の埋葬構成や女性首長の存在などを考えれば、男性優位の社会構造が出来上がっていたとも考えられない。私はこの図像もまたあくまで農耕の豊穣や共同体の安寧を願い災いを忌避する、一貫した観念的、神話的行為の一こまでなければならないと筆者は考える。※この20267月皇室典範が改正されて、明治維新以来あらためて男系男子が天皇を継ぐことと決められた。これはついては男女平等の意識について銅鐸の時代に戻さなければいけない感じだ。

本書では、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への変化があったが、弥生時代の稲作を中心とする集落から、100mを超える高地で集落をつくるようになった。「聞く」銅鐸の多数埋納や一斉埋納、そして始まる「見る」銅鐸への変貌は、瀬戸内海以東の人々がこうした未曽有の政治的、軍事的危機に対する最大の観念的手段なのであった。多くは眺望がよく通信手段(灯台など)や防御施設を設け、武器を集積するなど軍事的色彩の強い集落であった。しかし北部九州の勢力が実際に東進し、大規模な戦闘が繰り広げられた形跡はないとのこと。このことは日本の最初の起こり方として多くの見解が分かれているようだ。

 本書で言いたいことは、「銅鐸に興味を持って以来、田んぼでの出来事や周囲の環境が気になるようになった。銅鐸に豊穣を願い、自らの命をも託する弥生人たちの思いはごく自然に心に共鳴してきた。私たちは2千年を超える先人たちの努力の歴史と思いをまるごと引き継ぐ必要がある」と。

早淵川散歩でも考えたが、早淵川は水田に水を供給するだけでなく、水がきれいだと魚がたくさん生育し、それを食べにサギやウやカワセミが登場し、さらに子供たちがこの魚を取りに水に入る。川には藻も繁殖するので、鴨もたくさん泳いでいる。夏にはこの川の水で、トンボもたくさん生まれていて、水の上を飛び交っている。小さな川だけれど自然を感じることができる場所だ。さらにこの沿道には車は入れない。したがって年寄りが散歩をしていたり、犬を散歩させていたり、ジョギングをしている人もたくさんいる。単なる小さな川だけれど、この本を読んで、この自然を大事にしていきたいとさらに思う。