2021/03/05

旧富岡製糸場西置繭所の保存整備事業が新建築2021.3月号に掲載されました

今月号の新建築(2021年3月号)に旧富岡製糸場西置繭所の保存整備事業が特集されました。

弊社は富岡製糸場の西置繭所のガラスホールの音響設計を担当いたしました。

(昨年の音響学会にて発表を行っています。こちら。

富岡製糸場は1872年(明治5年)に建設され、2014年に国宝に指定されています。西置繭所の今回の工事は保存修理、整備活用、および耐震補強を一体にして行われたものです。

新建築の中の文化財建造物保存協会の斎賀氏の文章を一部引用してご紹介いたします。

「整備活用では、保存修理の方法に沿って、創業時の雰囲気をとどめたままの西置繭所を最大級に体感できるように工夫した。1階内部に鉄骨と特殊なガラスを構築した耐震補強を兼ねるボックスは、内側を新たな用途に用いながら、既存建物の内部空間をガラス越しに鑑賞できることを可能にした。」 

弊社は新たな用途に対して、可能な方法を音響的に検討いたしました。

床はフローリング、壁・天井はガラスのホールで音響反射面が平行に存在しているため、音響障害(フラッターエコー・音圧のばらつき)が起こりやすい形状であった。一般的には吸音材で調整するところであるが、吸音材をガラス面に設置することは西置繭所の内観を見る妨げとなることから視界に入る部分に吸音材は使わず、壁の一部を拡散体とすることを検討し、シミュレーションで最適な形状を検討した。

結果、音響障害は低減し、人や椅子などによる吸音を助けに、響きもあり音声明瞭度も確保し、講演やコンサートが可能となる設計となっています。

また本整備工事に関しては、昨年2020年に文化遺産の活用方法に関して日本イコモス賞を得ています。



2021/02/12

密閉でない劇場

新型コロナ対策としてあげられた3密(密閉、密接、密集)ですが、劇場というのはこの3密そのものです。従来はこの3密が劇場の盛り上がりに必要なものと考えられてきましたが、しかしこのコロナ禍で劇場やライブハウスは閉鎖されることが多くなってしまいました。

劇場関係者や音楽家、俳優たちは、いろいろ対策方法を見つけようとしています。

一番コロナ対策になるのはオンラインで公演する方法です。

当たり前ですがこれなら感染しません。

2021年のウイーンフィルのニューイヤーコンサートも無観客で、オンラインで観客から拍手が帰ってくる仕組みです。ウイーンフィルにとって初めての経験だそうです。しかしやはり観客がいないホールは異様な雰囲気です。

また観客が入る場合には、客席の距離を取り、換気の時間を設けたりする場合もあります。また歓声をあげることを禁止し、拍手だけが許可されています。


ふと思い出しましたが、インドネシアのバンドンには密閉空間ではない劇場がありました。Angklung Udjoという劇場で、壁はなく舞台と客席には屋根がかかっています。

以下の当ブログでもご紹介しています。

『2015年5/3~6に仕事でバンドンに行ったが、時間を見つけて、竹楽器のコンサートのAngklung Udjoに行った。舞台には、横浜ボートシアターの人形やお面に似た人形が並んでいた。別々の音階をもつAngklungをビブラフォンのように並べ、2.5オクターブの楽器もできる。そのコンサートが非常に素晴らしかった。子供が100名ほど出演してダンスや演奏をして盛り上げ、蛍の光を様々な言葉で歌ったり、また観客にも一人ひとり一つの音程の出るAngklungが渡され、それで全員で知られている音楽(例えばドレミの歌)を演奏したり、また最後は観客も巻き込んで輪になって踊った。観客の半分はヨーロッパ系と思われる人々であり、司会者はインドネシア語と英語で話をし、このAngklungで世界の平和を望んでいると言っていた。』

実際にその場にいた時には、観光バスの音などが入ってきて騒々しいと感じましたが、空調のことを考えるとこのほうがいいのかもしれないと思っていました。まさに今このコロナパンデミックの中では必要な環境だと感じます。

Angklung Udjo ダンス

Angklung Udjoの合奏

また昨年になりますが、横浜ボートシアターがインドネシアで行った公演『マハーバーラタ耳の王子』の動画を公開しました。改めてその劇場を見ると、やはり劇場の壁がありません。場所はジョグジャカルタ、ノトプラジャンのプンドポというところで、遠藤啄郎著『「場」の持つ力』によると、100年ほど前に王宮用の建物として造られ、結婚式や舞踊や音楽の演奏会場として使用されていたが、今は公民館として芸大の学生達の稽古や町の人達のガムランの稽古や演奏会に使用されている場所のようです。奥行き三十メートル、幅二十メートルの大きさで、屋根を支える大小の木の柱と石の床だけの建物で、ロビーも無ければ舞台用照明設備や音響設備、楽屋もなかったとのこと。

横浜ボートシアターが公演したノトプラジャンのプンドポ


日差しが強く、湿度の高い東南アジアの劇場ではこのように日差しを避けられ、通風も良い形が採用されていると思われます。今このコロナ禍で効果的な形式です。


2021/02/01

横浜市歴史博物館の特別展 『横浜の仏像 しられざるみほとけたち』

横浜市歴史博物館にて特別展 『横浜の仏像 しられざるみほとけたち』(1/23~3/21)が開催されています。

「横浜市域に伝わる仏像を総合的・体系的に紹介するはじめての展覧会です。横浜市が本格的に仏教彫刻の調査をはじめてから半世紀におよぶ文化財調査の成果にもとづき、平安・鎌倉時代の仏像を中心に、新発見・初公開の“しられざるみほとけたち”を紹介し、横浜の仏教文化の実像にせまろうとするものです。」




 ということで興味を持っていました。

また、この展覧会のメインビジュアルに使用されいてる木造の釈迦如来立像は事務所の近くの真福寺にあるものです。1年に一回、4月8日の花祭の時にだけ開帳され、拝むことができます。この仏像については2010年5月6日のブログで紹介しています

上記ブログにも書いていますが、我が家が30余年前にこちらに引っ越ししてきた時の住所は荏田町字釈迦堂谷というものでした。釈迦堂というものは当時から無く、どこにあったものかずっと気になっていました。

ずいぶん前に、やはり横浜歴史博物館で企画展旧大山街道(矢倉沢往還)というものがあり、その中の展示物から、当時我が家周辺に釈迦堂があったことは江戸時代の地図で確認ができました。しかし現在は釈迦堂の痕跡がありません。

荏田の交差点からのびる道路の名前は釈迦道(しゃかんどう)と言い、わが家の南隣に釈迦堂公園というのがあります。周辺にあったのは間違いありません。

昨年ふと我が家の北隣にある戦没者慰霊碑の「忠魂碑」が、もと釈迦堂ではなかったかと考えてみました。それ以外にここぞという場所が見当たらなかったからです。

そこで忠魂碑の由来がわかる資料がないか横浜歴史博物館にお伺いしたところ、都築・橘樹研究会の『都築・橘樹地域史研究2』という本を紹介していただきました。

その中に林浩一著『都築郡山内村忠魂碑について』という文書(p. 112~118)がありました。林浩一さんはお囃子の会のメンバーでよく存じ上げている方です。

そこには、

「大山街道荏田宿・旅籠「柏屋」の青木正一家文書に<中略>『1点目は大正八年(1919)10月5日に山内村在郷軍人分会長 椿徳次郎より柏屋の主人であり、山内村の村長・青木清左衛門[明治37年(1904)~同44年(1911)在職]宛てに出されている。9月5日に山内村在郷軍人分会の総会が行われ、その席で異議なく賛成された「忠魂碑建設ニ関スル件」として「一、位置 荏田石川境釈迦堂(横溝與須[ママ]氏寄附) 二、経費 会員寄附 三、工事 十二月初旬着手」の決定事項を報告している。』」

とあり、忠魂碑が元釈迦堂で、お釈迦様は我が家の隣にあったことがわかりました。

この横溝與須之助は当時山内村の村長をしていて、石川・荏田両村の村境で、両村の融和を願い自身の土地280坪を提供したとのこと。当時の石川村宮元お囃子連も、この除幕式でお祝いのお囃子を演奏したようです。100年たった現在も横溝村長のおかげで石川地区と荏田地区とは仲が良く、もう4年もお囃子を教えていただいている関係でもあります。周辺とはいい関係を築いていく必要がありますね。

このお釈迦様は国指定重要文化財で、展示でも一番目立つところに置かれています。ポスターにあるお釈迦様には光背がありませんが実際には光背があり、より大きく見えて存在感があります。