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2025/12/16

樋口 覚 著 三絃の誘惑 近代日本精神史覚え書の読後感

 この本の題名からして、三味線の魅力が書かれた本だと思って読み始めたら大きな間違いだった。様々な作家の文章を引用しながら、日本の音曲、三絃のこと、特に義太夫について、さらに遊女、遊郭について、作家本人のにじみ出る感覚を記したものである。建築史家の藤本輝信が、本書p.210に「ちなもに東京の都市計画を丹念に追った藤本照信の『明治の東京計画』の中には、遊郭に関する記述は一行も出てこない。」とあり、多くの歴史家や作家がわざと無視してきたテーマが、遊郭や遊女などである。それを江戸時代から掘り起こして書いたものが本書になる。

実は20258月に書いたブログ「芥川也寸志生誕100年誘う童心目指した「みんなの音楽」 これは童謡、さらにテトラコルドの続き」の中にある我が国の音楽に串が通っていないの続きに当たる内容、その串に当たる内容が三味線音楽を示す本書のような気がする。

http://yab-onkyo.blogspot.com/2025/08/100.html

 本書の出だしは、歌舞伎や浄瑠璃などの日本の音楽とヨーロッパのクラシック音楽を比較している。またシェークスピアやドン・キホーテのセルバンテスもほぼ同時に発生しているところなどは、地球が狭く感じる時だ。

 竹本義太夫の墓の章

.23第一章の竹本義太夫の墓の章で、邦楽と洋楽の年表を並べて書き、これから、「三味線の伝来が、キリスト教(これもコラールやオラトリオなどの典礼音楽抜きには語れない)の布教とほとんど同時であったのはかなり微妙な時間の配合というべきではないか。しかも、そのころ西洋はパレストリーナの時代であった。17世紀になって歌舞伎や浄瑠璃が起こりつつあったが、和歌集歌舞伎にせよ、女歌舞伎にせよそれが禁止された直後に、竹本義太夫が竹本座を起こしたこと。これがまた絶妙なタイミングである。木偶である「人形」が、新しい義太夫の声音と、複雑な情緒を醸し出すことができるようになった太棹の音色とによって、魂を吹き込まれるという、浄瑠璃にとって願ってもないことが可能になった。この頃、大高は急速に膨張、曽根崎をはじめ「新地」が多くでき、京都を凌駕する勢いで、人口も40万人になろうとしていた。この土地で、近松が竹本義太夫を知ることによって『曽根崎心中』が上演され、新しい浄瑠璃は完成した。時あたかもバッハやヘンデルの時代であったというのも、何かの暗号のように思える。その後の長唄や清元とベートーベンの配合はどうか。これらを源として多岐に展開した端唄、歌沢、小唄などの俗曲が、杢太郎ら明治から大正時代の日本人の、音楽的感性の生地であった。それにしても、これら俗曲が、ドビュッシーやエリック・サティのそれまでにない不安定な音階からなる小曲と同時代であったというのも、偶然とはいえ、絶妙の一致である。」

 旅宿の境界と浮世―荻生徂徠の『政談』の章

.118「元禄十六年は元禄最後の年である。、、、この年、荻生徂徠は柳沢吉保が創立した藩学文武教場で教授、、、近松門左衛門の『曽根崎心中』が初めて上演、、さらに「忠臣蔵事件」が起こり、、、、年末には関東で大地震が起こり、、」 「『曽根崎心中』は、、、、、、近松の世話物として初めての試みであり、圧倒的な評価を得た。」 荻生徂徠は、「最後の道行文「此の世のなごり、余もなごり、死に行く身をたどうれば・・・」を読んで、思わず本を投げ出し、「近松の妙処はこのなかにある、、、」 と嘆息したと思われる。」忠臣蔵の事件について、「この事件を町民は、判官贔屓も手伝ってその政治的ンテクストからは図示、別の義理と人情の物語の回路に接続し、楽しんだのではないか彼らは日常、時の権力によって鬱積している憂さをいささかなりとも晴らすことができた。」この章の最後の部分で、p.134には「近松はまさにこうした「河原者」であった。そして近松自身xむところあって、「遊女」を多く浄瑠璃の中で描いた。「種姓の混乱」を、風俗の乱れの第一原因と考える徂徠にとって、都市生活に寄生し、巨大都市江戸が生んだそうした「最暗黒」にいる「非人」、つまり比丘尼や俸手振や日雇取りなどの「遊民」

は「種姓」から外れ、「旅宿の境界」を運命づけられた人々であった。」 近松の道行をほめた徂徠ですら、歌舞伎や浄瑠璃作者を「河原者」という蔑称で読んだ。しかし近松自身は武家の出であり、近松自身の「旅宿の境界」は、非常に屈曲している。武士の時代を過ぎた時の時代遅れの話で、政治の話が禁止されているのは、現在の中国にも通じる気がする。※12/15香港のリンゴ日報の創業者の有罪判決があった。

 遊女論の系譜の章

.181 なぜ最初の阿国歌舞伎が元禄になって、遊里を中心に展開するようになったかについて、竹内勝太郎は、江戸時代の民衆生活の享楽と社交や好尚の中心が遊里であったことと、文明史的に見て当時の社会が遊里を枢軸として回転していたことを上げ、阿国の遊女買いの所作で演劇的要素となっている模擬的な物真似(もどき)がこの時代に開花したと述べている。

九鬼周造の芸者礼賛の章

.200「灯火の暗い秋の夜長に、「無の深淵の上に仮小屋を建てて住んでいる」ことをよく弁得ている人間同士※が、同じ気持ちで、小唄に聞き入る姿には無量の寂寞感がある。この音色のためには、他のすべてを捨ててもよいというデカダンスの極致がある。これは日本的情感の極北であると同時に、茎が最終的に到達した場であった。これが戦時下であることを考えると、いっそうオその夜の気配が際立つ。」 ※林芙美子を指している。

幸田露伴の『一国の首都』論の章、p.219 「露伴は、江戸幕府が元和三年に傾城町を一か所、吉原を庄司某なるものに認可したと同時に、措置を講じた五か条の御条目に当時の政府の見識を見る。」

 二葉亭四迷の俗曲論の章 

.252 「しかし、大事なことは、こうした玄人はない女でも、一たび三絃糸を操り、声を出すとき、それはなにか神韻の域に近づき、人の存在を震撼させることができると言うことである。二葉亭はこの書生を通じてその思いをややxxxxさせながら述べているが、確かに江戸の俗曲には「国民の精粋」あるいは「日本国民の二千年来来比生を味わうて得たもところのもの」が、文字のように間接的にではなく、直ちに人の心に迫ってくるところがある.

 土門拳と小出楢重の章 

.292「土門は「写真屋」になる前に文楽にのめり込み、弟子志願をしていた。昭和十八年(1943)頃に撮った『文楽』という写真集は、なかなか入りきれなかったこの世界に、脚立とカメラをもって入り、撮影した作品集で、気迫に満ちている。、、、ことに、立ち廻りなどで、つめの人形の頭などを乱暴に打つとゴツンゴツンという鈍い音がして、それがいかにもげてな頭に相応しい感じで、また、いかにも木偶という感じを催させる。」

 近代日本人の音楽生活―あとがきにかえて

.329「わが国の近代文学者の多くは、他の芸術においてそうであるように、明治以来の洋楽の影響を強く受けて、バッハやモーツアルト、あるいはマーラーを聴きつつ、彼らに魅了され、多くを語ってきた。」 「小林秀雄は、「大阪の街は、ネオンサインとジャズとで充満し、低劣な流行小歌は、電波の様に夜空を走り、・・・・」・と書いたが、なぜ小林秀雄には文楽の本場である道頓堀で、義太夫の一節が自然に浮かんでくることはなかったのであろうか、本書を書き終えたいまの率直な感想である。」

 樋口 覚は1948年生まれで、ほぼわたしと同世代である。以前このブログでテーマとした、小泉文夫、芥川也寸志、羽鳥幸雄、横浜ボートシアターの遠藤啄朗等は私と約20年違う。戦後の文化的な動きに対して、違和感を持っていた世代だ。その違和感の一つに、この本書にあるように、歌舞伎や浄瑠璃などの三味線音楽があげられるのだろう。この三味線音楽があれば音楽に1本の筋が通ると言えるのだろう。そういえば私の祖父は、毎朝ラジオを付けて、多分浄瑠璃節を唸っていたし、私が大学生の時には下宿していたが、そのおばさん、西尾さんが毎晩三味線を練習していた。戦後まもなくは、三味線音楽は身近なものだったに違いない。歌舞伎には女性の俳優がいず、男が演じる女形のことなども歴史的存在であることがよくわかった。また吉原遊郭についても都市計画的に選定されているようだ。江戸時代は士農工商という身分はあるが、その制度の基盤が崩壊してきていたので様々なところに遊郭ができて政府としては困って、江戸では吉原に限定したのだと思う。私にとっては、遊郭は歌舞伎の中でしか知らない世界だが、世の中には性をめぐる犯罪が毎日ニュースになっていることを考えると、とにかく経済的にも社会的にも安定した社会が必要であることがわかる。

現代は映画「国宝」が興行収入1位で、歌舞伎をテーマにしたものである。この三絃の誘惑の中身がこの映画にも表れたのだろう。今や様々な分野の音楽が均等に存在している。それぞれが頑張っていく必要がありそうだ。