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2024/01/09

建築音響の交流の歴史その2

 建築音響の交流の歴史その1ではアラブの音楽や中世キリスト音楽の動きを述べたが、それに続いて歴史的に近い音楽などの音環境について述べる。中世キリスト音楽はゴシック教会やルネッサンス教会ができて、新しい空間と音楽が調和してきているようだ。アラブの音楽についてはまだ建築空間との関係はまだはっきりしない。ただ楽器そのものが響きを持っているので、屋外の空間を意識しているような気もする。ただ大きな空間、トルコのイスタンブールのモスクなどは大きな空間であるが、イスラム教が多く、イスラム教がモスクの中で歌舞音曲を禁止しているため、その響きと呼応している可能性もある。『ブルーモスクの絨毯』というブログの中で、モスクの床に絨毯+板の下地によって吸音し、説教の明瞭性を上げている可能性について書いている。

https://yab-onkyo.blogspot.com/2022/03/blog-post_2.html

 13世紀後半 シタールの歴史:インドで数多くの古い文献にも登場するトゥリ・タントゥリ・ヴィーナ(サンスクリット語で3弦楽器の意)を元に、後になり北インド古典音楽の歴史においての大変重要な人物でもあるアミール・フスロー(1253年~1325年)の手により発明されたというのが今日の一般的な説で、シタールの直接の語源となったのはペルシャ語で3弦を意味するセタールと言われています。現在でもイランなどでは同名の楽器が使われています。その頃のシタールが一体どのような形状をしていたかは不明ですが、長年に渡り様々な形状や素材を用い改良が施され、比較的近年になり7弦のシタールに共鳴弦が取り付けられた物を元に、流派や演奏家のスタイルによって弦の数や形に更なる改良が施された現在のシタールになりました。9月28日放送のラジオ番組『シタール奏者・石濱匡雄のカレーだけじゃないインド

演奏にとても大切な役割を受け持つ1本の弦をふくめて,7本の演奏弦があります。また,このほかに13本ほどの,音を共鳴させるための弦が演奏弦の下にあります。この演奏弦と共鳴弦という2種類の弦が,この楽器ならではのひびきをつくり出しています。演奏するときは,左手人差し指と中指を,フレット(弦をおさえる場所を示すもの)上で上下左右に移動させます。また,右手は針金を素材とするつめをつけて弦をはじきます。引用:教育芸術社のホームページより

※これをよむと楽器そのものが響くように作られている。したがって響く空間でないようなところで演奏していたのではないか!楽器の歴史は多くの場合、楽器そのものは書かれているが、どういう場所で演奏押されたかについてはあまり書かれていない。

室町時代(14世紀)に成立した能は、六百年を越える歴史の中で独自の様式を磨き上げてきた日本の代表的な古典芸能であり、同時に、現代に生きる世界の演劇の一つでもある。その特徴を一言で言えば、面と美しい装束を用い、専用の能舞台で上演される歌舞劇、とまとめることができるだろう。能舞台の上では、狂言も演ぜられる。能と狂言は源を同じくし、同じ能舞台の上でそれぞれ別の側面を発展させてきた。能が歌舞劇として、どちらかと言えば人間の哀しみや怒り、懐旧の情や恋慕の想いなどを描くのに対し、狂言は笑いの面を受持ち、科白劇として洗練を重ねてきた。能楽協会ホームページより

※能は最初から専用の能舞台があったとは考えにくい。最初はどんなところで能が始まったか気になるところである。

15世紀くらいからガムランが始まった。本来ガムランは、宗教(特に冠婚葬祭に関わる通過儀礼)との深い関わりの中で発達してきた。現在ジャワ島はイスラム教、バリ島はヒンドゥ教であるが、15世紀くらいまでは両者ともヒンドゥ文化を基礎とする社会であった。その後インドネシア全体がイスラム化する過程で、中部ジャワ、西部ジャワでは音楽と宗教の関わりが薄れていった。これはイスラム教が宗教儀礼の中で歌舞音曲を用いないためである。 中部ジャワではスルタンの宮廷が発展し芸能・音楽の擁護者となった。一方西部ジャワでは強いスルタンが出現しなかったため、一般民衆が芸能の主体となって発展した。この違いは、中部ジャワ地方が平原で肥沃な農耕地帯であり人口も多かったのに対し、西部ジャワは山岳地域で、人々は盆地ごとに小さな社会を形成していた為、権力の集中と強大化が起きなかったことに由来するといわれている。 この様にイスラム化した地域でもその後の音楽活動の主体、中心が異なることによって伝承の形態もそれぞれ独自のものとなった。しかしジャワ島の場合、西部、中部に共通していえるのは、宮廷のお抱え音楽家であれ、町の人気芸人であれ、音楽の専門家、即ちプロが早い時期から存在していたということである。クラブナージ音楽教室のホームページより

ガムラン音楽とインドネシアの民謡 音楽研究所ホームページより

ガムランから連想されるのは、やはり、ひたすら鳴り続けるゴングの音です。このゴングの音の上に、祭囃子の笛の音や、お経を読む声のようなものが重ねられることもあります。ガムランとはもともと、楽器の総称で、現地の人々は、自分たちの音楽を、カラウィタンと呼んでいます。カラウィタンはさらに、カラウィタン・ジャワ、カラウィタン・バリなどのように地域によって分けられます。ジャワのガムランとバリのガムランでは、似ている楽器でも、呼び名が違ったりするようです。ジャワのガムランが穏やかでゆったりとしているのに対して、バリのガムランは、音の動きが多く、音も大きいのが特徴です。

 ※この文章の中には書いていないが、このゴングの音は唸りを生じている。もともとは宗教との深いかかわりの中で発展してきたと書かれているので、日本のお寺の鐘に似たような作用があるように思う。印象としては音が天に昇って行って、人々の願いが伝わっていくような感じ。

  1448年主にヨーロッパのクラシックのオーケストラ: 現存する最古のオーケストラであるデンマーク王立管弦楽団が創立、当初は、宮廷直轄のブラスバンドであった、ついで1548年ザクセン州立管弦楽団(当初宮廷聖歌隊と宮廷楽団)で、ドレスデン歌劇場で、名演披露。三番目が1742年創立のベルリン州立歌劇場管弦楽団で、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の宮廷歌劇場の楽団。4番目が1743年に創立のライプツイヒ・ゲバントハウス管弦楽団で、初めての自主経営の音楽団体市民階級を対象としたオーケストラの開祖。

 16世紀 力学から音響学へ 力学から音響学へ:ガリレオ・ガリレイ(15641642)力と運動の力学、ニュートン(16421727)のプリンキピア1686、ライプニッツ(16461716)の微積分法。オイラー(17071783)、関孝和(1640(またはニュートンと同じ1642)~1708 行列式の解法(解伏題之法1683)等、

1648年スペインから独立を果たしたオランダでは、以降100年にわたり経済や学術、文化の繁栄が続き、オランダ黄金時代が現れる。この時代は、レンブラントやフェルメール、ハルス、ライスダールなど時を超えて愛される巨匠たちを輩出している。またそれまでには画壇でわき役だった風景画や生物画などが人気を博し、絵画ジャンルとして急速に発展した。朝日新聞20220514

17世紀にフェルメールが描いた絵「音楽の稽古」には絨毯がテーブルの上にかかっているのは、響きを調整した室内音響に影響したものではないかと想像している。そのように室内音響に影響を受けていると思われる出来事もあったと思われる。

1597  年最古のオペラ「ダフネ」が上演された。ギリシャ神話を題材とした最初のオペラとされている。ダフネの楽譜は失われているが、1600年に上演されたエウリディーチェは楽譜が現在まで伝えられており、現存する最古のオペラとされている。作曲者はいずれもフィレンチェの歌手および宮廷付作曲者のジャコポ・ペリ。現在使用されている最古のオペラハウスは1737年開場ナポリのサンカルロ劇場である。「オペラがローマから、宮廷や個人の邸宅で音楽が行われる伝統のなかったヴェネツアに輸出されて初めて、それは大衆にも手の届くものになった。世界最初のオペラ専用劇場がつくられたのもヴェネツアである。1637年のテアトロ・サン・カッシアーノ(聖カッシアーノ劇場)がそれで、オペラのスペクタクル的な効果を出すのに必要な舞台設備が整っていた。金持ちのトロン家が、1629年に焼失した劇場に替わるものとして建てられたのである。営利を目的としていたので、壁沿いにぐるっと席が段状に設けられ、できるだけ多くの観客を収容するようになっていた。オーケストラは、以前は舞台の両脇、桟敷席、書割りのうしろなどに座っていたのが、この時初めてステージの前に置かれるようになった。」マイケル・フォーサイス著「音楽のための建築」

1654年テアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ 1638年にグリマーニ家が演劇用に建て、開場以来たびたびオペラにも使われていたが、1654年にカルロ・フォンターナによって、特にオペラ用に改造された。十分発展を遂げた馬蹄形のイタリア・バロック・オペラハウスとしての最初のものだった。マイケル・フォーサイス著「音楽のための建築」

1585 テアトロ・オリンピコ 建築設計:パラディオとスカモッツィ 観客席は半楕円形で、構造はローマ劇場に倣っている。オーケストラという場所は楽団が居たのではなく、特別席だったとのこと。楽団は舞台両袖にいたのではないか。

1618  テアトロ・ファルネーゼ 建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ 観客席はU字型をしていて、4500名収容したとされている。近代劇場におけるプロセニアムの型式がはじめて登場した。マイケル・フォーサイス著「音楽のための建築」によれば「テアトロ・ファルネーゼは、長く伸びた円形劇場形につくられており、ルネッサンス建築全般にいえることだが、古典ギリシャ・ローマの建築様式の原理に基づいている。テアトロ・ファルネーゼでは、円形劇場形がつくりだすアリーナも、ステージと同じくアクションに使われることがよくあった。劇場は1944年にほとんど破壊され、その後再建されたが、かつての凝った舞台装置と装飾はもうない。」

1598  グローブ座 エリザベス朝演劇、シェークスピアにより、ロンドンテムズ川南岸に建設された。舞台は半分屋根のついた張り出し舞台で、ほぼ円形の屋根のついた3層の観客席があり、その中央には屋根のない空間となっている。エリザベスは1603年に無くなったが、当時シェークスピアは完全な円熟期。1660年の王政復古以降、劇場は再び扉を開いたが、いったん打ち砕かれた魅力は元に戻らず退廃した

1628  アルマグロ(Almagro)の劇場 スペインのAlmagroという街のTaberna del Toroという宿屋にDon Leonardo Oviedoによって併設された。1605のドンキホーテが世に出た時代である。ここの劇場もシェークスピアの劇場に似て、舞台があり、その周辺に四角ではあるが、3層の観客席があり、平土間も観客を入れて使っているようだ。ただこの劇場は旅館に併設されているようだ。

YABブログ:Almaguroの芝居小屋―現存する世界最古の木造の芝居小屋―

 https://yab-onkyo.blogspot.com/2018/11/almagro.html

1603  阿国歌舞伎 出雲の阿国が京都の北野天満宮で、歌舞伎の上演を行ったとの記録がある。1615       京都南座 四条河原町で開場、7つの櫓の1つ、江戸では、中村座(当初は猿若勘三郎芝居)が寛永元年(1624年)2月に、中橋南地で櫓を上げた。

1600年初期、人形浄瑠璃文楽は、日本を代表する伝統芸能の一つで、太夫・三味線・人形が一体となった総合芸術です。その成立ちは江戸時代初期にさかのぼり、古くはあやつり人形、そののち人形浄瑠璃と呼ばれています。文楽協会より

16世紀には、シェークスピアやセルバンテス、オペラ、歌舞伎、人形浄瑠璃、オーケストラがほぼ同時期に成立した。また17世紀にはクラシック音楽が始まっている。