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2025/04/08

荏田の真福寺の花祭り2025.04.08

 今日は48日のお釈迦様の誕生日に当たる花祭りです。今年は桜も開花してから寒い日が続き、例年より遅く、お堂の隣の桜は、今日は満開になっています。ここにいる釈迦像は、木造で、国の重要文化財で、しかも我が家の隣にあった釈迦堂のご本尊だったようです。我が家の隣の公園も釈迦堂公園といっていて、その前の道は釈迦道(しゃかんどう)といっています。ここことを知ってからより親しく感じるようになっています。釈迦堂は老朽化した後、本尊を真福寺に移動し、いつか分かりませんが、このようなコンクリート製のお堂に納められていて、1年に一回48日に開帳され、直接釈迦像を拝むことができるようになっています。とても凛々しい顔をしています。真福寺の本堂はこの反対側にあります。2021.02.01のブログで、横浜市歴史博物館にて特別展 『横浜の仏像 しられざるみほとけたち』(1/233/21)のことを書いています。 以下はそのブログです。     http://yab-onkyo.blogspot.com/2021/02/blog-post.html


                               写真:木造の釈迦像が納められているお堂、午前10時少し前です。


2025/04/03

21世紀のバッハ、 東京バロック・スコラーズ 第20回演奏会 マタイ受難曲

 日時:2025330日(日)300開演、終演645ごろ

場所:武蔵野市民文化会館大ホール 音響反射板設置、4列分のオーケストラピット近辺を舞台に上げて設置、

出演者:音楽監督・指揮 三澤 洋史、 福音史家 畑 儀文、イエス 加藤 宏隆、

ソプラノ 國光ともこ、アルト 加納悦子、 テノール谷口洋介、バス 萩原 潤

オーケストラ 東京バロック・スコラーズ・アンサンブル(オーケストラ1 オーケストラ

合唱:東京バロック・スコラーズ(オーディションを通過したアマチュアンバー コーラス1とコーラス2)、 ソプラノ・イン・リビエノ 東京大学音楽部女声合唱団コ―ロ・レティツィア

出演者の人数が多いため、前舞台も使用している。

曲目:普通の11曲の場合のコンサートと違い、第一部の第一曲から第二部の最後の第68曲まで、全体が物語になっていて、オペラを聴いているような感じだった。民衆の裏切りや告発によってイエスはとらえられ、裁判になり、死刑が宣告され、十字架に貼り付けられ、埋葬され、復活の手前までが物語である。イエスが甦らないようにと墓の前で番兵を付けて用心しているところで終わるので、聞いている人はこの後どうなのだろうと気になりながら終わってしまう。復活することは分かり切った前提と言うことなのかもしれない。この復活祭(イースター祭)は、春の今頃で、仏陀が生まれたのも48日とされていて、偶然だか春が新たな芽吹きを復活するのにふさわしい感じだ。

チラシの中で、三澤洋史がもっとも言いたいことは、「イエスの受難の本質」というなかに「それほどまでに人類の罪は救いがたく重いもの」、たしかにこの話はバッハ16851750が作曲したが、その実際の話は今から2000年ほど前の話で、しかも現在でもこの話があったこの地域のイスラエルとパレスチナが戦争を行っていることからも人類がいかにおろかだと言うことがわかる。しかし今まで人類は少しずつでも解決してきていることもあるといえる。

作曲者はバッハであるが、この歌詞を作詞したのは誰だろうとつぶやいたら、隣の人が本を見せてくれて、ピカンダーと言っていた。ペンネームだとも言っていた。この人は別の合唱団にも入っていて、この曲は10年気にしている曲で、とても歌うのにレベルが高い曲だそうだ。

とにかく歌手、オーケストラ、合唱団それぞれが、力の入った演奏、合唱であった。また演出も素晴らしいと思った。色々考えさせられたコンサートであった。

私の席は、前から4列目、下手側の席であったが、よく響いてよく聞こえた。また出演者が多いので、前舞台を持ち上げて舞台を広くして使っていたようだ。可動の音響反射板も使っていたので、今回のコンサートにはよく合致したホールといえた。




2025/04/02

サクソフォン&ハープ スプリングヂュオコンサート~春を奏でる~

 日時:2025329日(土) 1400開演 雨でしかも寒い。

場所:玉川せせらぎホール(玉川区民会館) ※この建物は免震構造となっている。

出演:木村有紗(ソプラノサクソフォンおよびアルトサクソフォン)、宮本あゆみ(ハープ)

400名収容 ほぼ満席

曲目は以下のプログラム参照、アンコールは、宮本あゆみさんの作曲の曲とロンドンデリーの歌(アイルランド民謡)

このコンサートは、私が最初に入った会社の、同期の木村さんの娘さんが今やプロのサクソフォン奏者で、このコンサーがあることを紹介された。木村さんは、いまは医療経営コンサルタントとして活躍されている。

春を奏でると銘打っているコンサートの最初の曲はドッビュシーのアラベスク第1番で、波打った水面がキラキラしている雰囲気が、ソプラノサクソフォンとハープの組み合わせでいい雰囲気になっていた。サクソフォンとハープの組み合わせは初めて聞いたが、サソフォンは管楽器の中では柔らかい音がする方だが、全般的には、強いかたい大きな音の部類になるが、ハープは柔らかな響きを伴う音と思う。サクソフォンはジャズのようなリズムが強い音楽には合わせる相手にピアノはいいのかもしれないが、メロディーがきれいな音楽にはハープは大変好ましいように思った。カッチーニの「アヴェ・マリア」や美女と野獣の中の「ひとりぼっちの晩餐会」も演奏レベルが高く、しかもとても良かった。

玉川せせらぎホールは、壁は波打った板で仕上がっているが、2割ぐらいは有孔板で作られていて、天井は暗くてよく見えないが、多分黒い布で被覆されたグラスウールで吸音材のように感じた。椅子はスライディングできる椅子で、平らな床にも変換ができるようだ。とにかくサックスやそのほかのたとえばヴァイオリンなどクラッシック用の音楽に対しては少し残響が短い感じがした。







2025/04/01

人形劇 華氏451度の公演

 日時:2025327日(木)1830より公演

場所:川崎市アートセンター小劇場

演者:人形劇団ひとみ座+高橋和久

元横浜ボートシアターの団員だった高橋和久さんから案内の手紙をもらい、人形劇に参加するというので興味を持って、行くことにした。何をする役割なのだろう。手紙によれば華氏451度は紙が自然発火する温度だそうだ。計算すると摂氏では220度になるようだ。ひょっとして山火事にもなりそうな温度だ。最近、ロスアンゼリス、大船渡、岡山、今治と大きな山火事があり、人家も延焼している。空気が乾燥していて、しかも風が強いことが問題である。華氏451度の主人公はファイアマンである。山火事を消す消防士でなく、実は本を率先して燃やす役割の「昇火士」である。とある専制国家では、民衆が心を煩わせないように、または反旗を振りかざさないようにすべての本を焼き尽くす部隊がいて、そのファイアマンのトップが主人公のガイ・モンターグで、本を焼き尽くすことに快感を覚えている。しかし近くにクラリスという少女がいて、道端の花や、月や月の前に飛ぶ鳥などに興味を持って、モンターグに話している。その彼女がモンダーグに燃やす前に一度でも本を読んだことがあるかと質問する。それから次第に心が変化してくる。あるとき本を持っている家に行き、その家を燃やし始めるとそこに住む老婆が本を外に置いて、火の中に飛び込んでしまう。その本は彼女にとって命より大切な聖書で、その本をモンターグは家に持って帰り、寝床に隠す。奥さんにも仲間にも不審がられ始めてしまう。人の性格や気持ちを判断する探査ロボット犬にも吼えられかみつかれるようになり、ある大学教授に本を集める業務をしながらそれを複製しようという計画を立てたとたんに、その計画が奥さんから内通されて、ファイアマンが我が家を燃やすときに、それを実況中継しているなかで、鉄砲で撃たれて死んだ。ところが死んだのは別の人で、モンターグは大学教授が逃げる方法をえていて、何とか逃げ延びることができ、仲間とあって、仲間の頭にそれぞれ物語を詰め込んで逃げる話だ。何となく恐ろしい、また現実にもありそうな話にも見える。

私はかつて技術者だったので、物理学などの科学的な本や技術的な本が無くなることはまず業務に差し支えることがすぐわかる。鉄砲や大砲やミサイルだって技術的な本が無ければ作れないと思われるので、体制側にいる人だけでも本は必要で、それを読み下す人も、また今後そうなるだろう人も確保しておかないと難しい。敵国の情報も必要だと思われる。文学的な本とか哲学的な本とか、政治的な本も現政権にとって反する本であっても、それが現政権的でないことを理解すためにはそれらの本もなくすことは、現実的には難しいと思われる。

燃える火や爆撃の火は赤い布で印象的であったが、空襲の爆弾のスピーカから音があまりにリアルなので、人形の世界や布による火の効果に合わせて、例えばドラムの音のような人為的に作った効果音でもよかったようにも思う。人形もモンターグとクラリスという子供と大学教授の大きさをもう少し変えた方がいいのではないか。ひとみ座は乙女文楽も行っていて何度も見に行っている。人形の一人遣いの人形浄瑠璃である。人形に感情が移入してしまうほどだ。高橋さんは人形使いの人としてではなく、人形の背後にいつもいて、モンターグがまともな人間に変化していく過程で人形から少しずつ分離し始める役割をしている。なるほどと感じた。

劇場の規模は200名程度で、側壁は前の2/3部分は木毛板に塗装を、残り1/3は有孔板としている。天井は黒く塗られているが、多分吸音材仕上げと思われ、演劇としては好ましい仕上げとなっていた。声も明瞭であった。この公演は本日の3/27(木)から3/31()までの7回公演となる。






2025/03/24

建築音響の交流の歴史 その13 戦争と音楽

 先日ウクライナの支援コンサートがあり、ヴァイオリンとピアノのよく知った曲のほかに、神父さんがマイフェアレディの中のMy favorite thingsをジャズ風にピアノで演奏したのち、戦争のあるウクライナから日本に避難をしてきた人たちが合唱を行った。その合唱からは「頑張るぞ!!」という意志がよく伝わってきた。また観客はその意志に気持ちとして共感した。

それと似たような気持ちになったのは、横浜ボートシアターの演劇「小栗判官・照手姫」で、人々がかわるがわる「えいさらえいさらえいさらえい」といいながら餓鬼を熊野に向かって引いていく場面で、聞いている人はそれに対して「生きろ!生きろ!」と聞こえてくる。戦争は人の生死にかかわってくるので切実な感じがよくわかる。

音楽は楽しい感情や悲しい感情を表現することが多く、戦争と音楽は一般的には相反する概念の様であるが、逆に音楽が戦争を遂行する場合もありそうなので、主に戦争を遂行する場合を主に書いてみた。特にリズムに関係しているかも。

最初に浮かぶのは「ハーメルンの笛吹き男」で、ハーメルンで昔 ネズミがはびこって、住民が苦労しているときに、ネズミを退治するので、金貨を一袋くださいと村長に言って了解をえたら、その男が笛を取り出し、町中を歩きネズミを連れ出してくれました。大成功の結果だったが、村長はお金を出し渋ったら、今度は再度笛を吹いて子供たちを連れて行ってしまって2度と戻ってこなかったと言うことです。小さなころ話を聞かせられて、言うことを聴かないとだれかが連れて行ってしまうよと脅された。おとぎ話としてはいい効果があったかもしれないが、何となく恐ろしい話で、何らかの戦争が影響しているような気がする。どんな音楽かは分からないがとにかく聞きほれるような美しい音色ではなく、人を動かす規則正しいリズムのような感じではないかと思う。

童謡の「鉞担いだ金太郎」は、鉞(まさかり)は丸太を削る道具だし、クマにまたがりお馬の稽古も、子供の元気な様子を描いているようだが、とにかく戦いのためには勇ましいことがいいという方向を示しているようにみえる。

乱拍子は、白拍子というリズムのそろった拍子に対して、リズムを乱して表現する方法で、13世紀、歌謡および舞にて拍子のついた白拍子・乱拍子が流行した。今では乱拍子という言葉は能では唯一残っているのは、道成寺のシテの白拍子が舞う踊り方で、足の使い方に特徴がある。実は身近な驚神社の祭りのお囃子の中にも一歩一歩笛を止めるような乱拍子という笛の吹き方がある。乱拍子の流行った時代は、保元・平治の乱に始まる源平合戦や南北朝の内乱、応仁の乱、そして戦国時代と戦乱がつづく時代だったので影響を受けたような気がする。

白拍子と乱拍子というブログ(http://yab-onkyo.blogspot.com/2022/05/blog-post.html202205.04に示している。

陣太鼓は多分戦国時代に、戦の合図に用いられたものをいうので、戦争に深く関係しているが、現在はこの和太鼓は御陣乗太鼓(能登の名舟のごじんじょだいこ)や鬼太鼓座(おんでこざ)などで音楽として活躍している。最近の和太鼓はリズムのノリがいい感じだ。

軍楽隊の始まりである鼓笛隊は安政3年(1856年)に長崎海軍伝習所で、オランダ人から艦船の操縦法とドラムのレッスンが始まった。最も古い鼓笛譜が、安政3年(1856年)に「西洋行軍鼓譜」として出版された。その数年前、嘉永663日(185378日)アメリカのペリーが18521124日東海岸を出発し、大西洋、南アフリカ経由で浦賀沖に現れた。安政元年33日(1854331日)日米和親条約、安政562日(1859年)日米修好通商条約締結、安政662日(185971日)横浜開港。(2009年横浜開港150周年記念祭)。当時アメリカでは1861年から1865年まで南北戦争。世の中は動乱が始まったようだ。明治2年に薩摩藩は横浜へ三〇余名の青年を送り、イギリス海軍第10連隊の軍楽長フェントン(John Williams Fenton)から伝習を受けさせた。この軍楽手を中心に、明治45月、明治政府 兵部省は各藩の鼓手を加えて軍楽隊を創設した。これに先立ち1870年(明治3年)、イギリス公使館護衛隊歩兵大隊のジョン・ウィリアム・フェントンによって最初の「君が代」が作曲された。フェントンに作曲を依頼したのは薩摩藩。音楽のリズムによって、全体の大きな軍隊が一体の動きをすることができることは、場合に寄っては長所でもあるが、一糸乱れずの動きは横から見ると不安になる。このフェントンの作曲した君が代は、古今和歌集の君が代と合わなく、現在の君が代は宮内庁の雅楽課の人たちからの公募で、フランツ・エッケルト(ドイツ)が伴奏を付けて雅楽課の林廣守作曲と言うことになったようだ。歌詞のもともとは古今和歌集からとったようで、勇ましい感じの曲ではない。今ではお相撲やスポーツの国際大会の時に演奏されるのを聴いているが、どちらかといえば、しっとりとした落ち着いた曲のようで、勇ましい曲ではないと感じる。

ヨーロッパで始まったクラシック音楽はドイツで始まり、ウィーンで花開き、東欧に重心が移動し、さらにサンクトペテルブルグに移動しているように感じる。チャイコフスキーはサンクトペテルブルグの大学で法律の勉強をしたのち、音楽に転向し、モスクワで活動をした。

ヨハン・セバスチャン・バッハ(16851750)はドイツのライプッチィヒで活躍した。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(16851759)はドイツのハレで生まれイギリスで活躍した。バロック時代の作曲家となり、その後はクラッシック音楽の中心ウィーンに移動する。フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(17321809)、ヴォルガング・アマデウス・モーツアルト(17561791)、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン(17701827)、フランツ・シューベルト(17971828)などウィーンを中心に動いていた。フレデリック・ショパン(18101849)はポーランド生まれで、やはり主にウィーンで活躍した。ロベルト・アレキザンダー・シューマン(18101856)ドイツ、フランツ・リスト(18111886)ハンガリー生まれ、ヨハネス・ブラームス(18330897)ハンブルグ生まれ、アントニン・ドヴォルザーク(18411904)ボヘミア プラハ近郊生まれ。グスタフ・マーラー(18601911)チェコ、映画「ベニスに死す」の交響曲5番で甘美なメロデイーで有名、今までの曲は人間の気持ちや意志を表現するような曲であったが、次第に映像的なメロデイーに変化していき、しかも作曲の中心がロシアに移動し始める。以降はロシアの作曲家を上げる。ムソルグスキーは「展覧会の絵」で有名であるが、やはり絵画的で感覚的なメロデイー、チャイコフスキーも「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」でロマン的な美しく、華やかなメロデイー、ラフマニノフも美しいメロデイー。アレキサンドル・ボロディン(18331887)、モデスト・ペトローヴィッチ・ムソルグスキー(18391881)、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(18401893)、リムスキー・コルサコフ(18441908)、セルゲイ・ラフマニノフ(18731943)、イーゴリ・ストラビンスキー(18821971)、セルゲイ・プロコフィエフ(18911953)、ドミートリ―・ショスタコーヴィッチ(1906-1975)、アルフレート・シュニトケ( 19341998))。チャイコフスキーが活躍していたころは明治元年(1868)ごろで、世の中が落ち着かない状態となっていることがわかる。その後 1次世界大戦が1914年に起こり、ロシアでは19172月にサンクトベルクで帝政が崩壊し2月革命が起きたが、その後、社会主義革命として、10月革命が起きた。1934年はスターリンの大粛清があった年である。ショスタコーヴィッチは1906年に生まれ、この10月革命は生まれた後におきた。家庭画報.comには「ソ連体制下での危機から作曲者を救った名曲」とあり、「最も人気が高く、頻繁に演奏される『交響曲第5番』は、スターリン体制下のソ連において、窮地に陥ったショスタコーヴィチを救った名作です。オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』などが体制の意向に外れた作品であると批判されたショスタコーヴィチは、この批判を素直に受け止め、古典へ回帰した作品を生み出すことに全力を注いだのです。その結果生まれた作品『交響曲第5番』は絶賛され、ショスタコーヴィチの危機を救うとともに、その名を全世界に広めるきっかけとなったのです。オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は1936年、この交響曲5番は1937年作曲で、大砲が打ち合う激しく勇ましい感じの音と悲しそうな部分が混ざっており、一見戦争を遂行する激しい音とリズムで、体制を支持している反面、悲しそうな部分で反戦の気持ちを表しているような内容で作曲家が苦労したことが何となくわかるような曲である。

 John LennonのIMAGINEという曲も、音がまるでランダムに機関銃を打っている音に聞こえる。多分戦争を想像してみろ!という曲だろうと思う。けっしていいことは無いぞと宣言している感じだ。

音楽と戦争に対して、さまざまな場合を書いてきたが、正確に言えば、戦争に対して音楽の音色やリズムはそれぞれ関係があるともないともいえる。それよりは、結局作曲者の意志に関係することが最も大きいかもしれない。今後ともウクライナやパレスチナのコンサートがあれば、生きろ、生きろと応援したくなると思う。

古代エジプト展についての記事が朝日新聞に載った。私もここに見に行ったが楽器についての遺跡は見当たらないと思っていたが、石板に彫刻されていたのがあったようだ。内容は王が女神に楽器で何らかのことを多分平和や豊作をお祈りしていたような気がする。音楽はどちらかといえば、戦争より、このような目的の方が似合った感じだ。


                2025.03.06 朝日新聞朝刊の古代エジプト展の記事

2025/03/21

八王子の大学セミナーハウス見学

 日時:2025318日(火)

松本さんの車で、我が家に1010に迎えに来てくれて、11時半ごろ最初の目的地である八王子の蕎麦屋車屋に行った。場所は八王子市越野3-10で、松本さんの選定である。車屋の建物は会津只見地方の150年余りたった住宅を移築したものとチラシに書かれていた。茅葺きの屋根の上に銅板を上葺きして存在していた。また天ぷらも蕎麦もこだわりぬいてつくったようでおいしかった。



大学セミナーハウス

場所:東京都八王子市下柚木1987-1

設計:吉阪隆正+U研究室

昼ごはんの後次の目的地の大学セミナーハウスに行った。ホームページによれば最寄駅 JR八王子駅・京王線北野駅・京王相模原線南大沢駅からバスと書かれている。大学セミナーハウスの設計は当時早稲田大学の吉阪隆正とU研究室で、八王子市下柚木に1965年に開館した。吉阪隆正は1950年から2年間、コルビジェのところで働いていたとのこと、そこから帰ってきてからヴィラ・クックを立てたようだ。竣工は1957年(昭和32年)。それから八年後に大学セミナーハウスが出来た。まず本館に行って、敷地の案内図をいただいた。本館は上下逆三角形の建物で大変印象的な形をしている。それを写真に示した。松本さんも大きさの比較のため?に入ってもらった。外壁はコンクリート打ち放しのままで、型枠のギザギザの面も型枠同士の間のわずかな隙間にもコンクリートの荒々しい感じが残っている。建設から60年たっているが、傷んでいないように感じる。入り口の庇はまるで河童のくちばしのようだ。次の写真は、この建物の最上階にある多目的ホールである。松本さんに話をしてもらったらやはり、声が聴きづらい感じだ。仕上げがほとんど音の反射性の材料でできている。椅子もプラスチックで出来ているので、これも反射性だ。多分天井が高くないので満席になれば人が吸音してくれるような気がするが、そうでない場合には座布団などの吸音材があるといいように思う。さらにその次の写真はこの建物の断面の模型である。中央に階段を設け、その周りに部屋を作り、最上階にはこの多目的ホールがある。それぞれの内部空間は天井が低く、内部空間の美しさというような意識的な空間は無いように思う。






この建物の4階から黄色の橋を使って、講堂に向かった。講堂ではハンドベルの練習をしていた。天井には多分音の拡散板がぶら下がっていた。部屋全体的に音の反射性でできていて、ハンドベルの音はきれいに響いていた。オーケストラなどの練習にも好ましい響きが得られるような気がする。ただこの部屋も主目的は講堂と有るので話声の明瞭性が重要で、この場合も座布団が必要な気がする。窓は、外部はスチールサッシでできていたが、内部にペアガラスの入ったアルミサッシが多分遮音性向上のために設置されたようだ。窓を二重窓にしたと言うことは、ある程度室内で音量の大きな演目があるのだと思う。この後松下館とかセミナー室を見て、さくら館を通り、複雑な構造の長期館にいき、国際館に行って、本館に戻り、図面を見せてもらって帰った。私はほぼ4年前に脳梗塞を患い、歩くことも不自由をしていたが、本館の上下の移動や講堂やそのほかの施設の移動など、エレベーターはもちろんなく、階段などによる移動、しかも手すりのないところもあった。障碍者も対象にするとしたら、今後やらなければいけなそうなところもたくさんあるような感じだ。ただ施設としては大変魅力的で、逆三角形の本館は地面から生えてきたような生物的な印象で、非常に興味深い。またこれを見るだけでも楽しくなりそうだ。


松本さんのチェックによれば、「 八王子セミナーハウスで閲覧した図面では 本館の1階平面図は一辺13.4mの正方形 4階平面図には寸法表示なく換算すると一辺おおよそ18mの正方形 階高を仮に2.8mとして作画すると外壁面の逆傾斜角は約75°でした。平面図によると4階のセミナー室は以前食堂だったようです」

旧白洲邸、武相荘

その後、帰る途中にある旧白洲邸、武相荘(ぶあいそう)にいった。場所は町田市能ケ谷7丁目にあった。すでに3時半になっており、ミュージアムが見れたが、355分でカフェに行ったら、本日は閉店ですと言われ、残念ながらそこで本日の印象などを話し合えなかった。武相荘の武は武蔵、相は相模を用いて、「ぶあいそう」となづけたようだ。そのカフェは意味どおりのまま「ぶあいそう」だった。昭和18年(1943)に鶴川に引っ越してきて、その後60年余りそのままの形を残してきたようだ。2001年に旧白洲邸を開館したと書かれていた。茅葺き屋根の民家が白洲次郎・正子の家と考えると、ポルシェを乗り回していた人に対しては考えにくい建物であるが、この建物も本物志向の彼の人柄を表現しているのかもしれない。仕方がないので更に帰り道にガストによってコーヒーを飲んで、おしゃべりして帰った。




2025/03/19

共に求めよう 市民による市民のための山下ふ頭を~集い

 日時:2025317日(月)午後630分~午後9

場所:横浜市開港記念会館 1号室 ほぼ満席

主催:市民による市民のための山下ふ頭を求める会(準備会)

内容は、8市民団体による山下埠頭再開発に関する提案と応援メッセージとして神奈川大学法学部教授の幸田雅治氏がONLINEで参加、および緑区桐ヶ丘連合自治会の塚田順一氏などの発言があった。幸田氏は山下ふ頭再開発委員会委員で、幸田さんの委員会での発言が話された。中で気になるのは「この委員会の当初のスケジュールでは地域の関係者等検討委員会で、事業計画案を検討することになっていた」が、20242月のスケジュールでは「有識者等検討委員会では、方向性のみ検討し、事業計画案は市が作成することに変わった。」 

 幸田さんが意見として委員会の構成員として市民が参加すべきことなどを述べ、その中で横浜国立大学名誉教授の北山委員も賛成のことを述べてくれていたが、市から計画案の最終は市が策定すると言われたままになっている。市の現在の事業委員会は林市長当時のままの組織であって、住民運動によってIRが計画の中に無くなっただけで、事業計画の中身はほとんど同じような内容で考えているような気がすると。しかも市民には意見を聴くだけで、単に聞いたという証拠を残すだけになるような感じである。私は横浜船劇場がこの山下埠頭の再開発の中に係留する場所を確保されるといいと思っているものであるが、現在のランドマークを含むみなとみらいの業務地区のように超高層ビルが林立するような状態の中では、艀でできた船劇場の立地は相当怪しくなってしまう。やはり基本は公園のような雰囲気の中で、船劇場等が文化財として存在することが好ましく感じる。このようにすれば山下埠頭も山下公園とのつながりがよく、市民が楽しむ空間になると感じる。

         写真:夕方6時半ごろの横浜市開港記念会館(中央レンガ造の建物)




2025/03/17

華麗なるコンチェルト・シリーズ第27回 《時節到来、オール・ショスタコ!》

 タイトルはオール・ショスタコと歯切れのよい名前であるが、すべて歯切れの悪い難曲である。

日時:2025315() 1400開演

場所:みなとみらいホール 大ホール

出演者:ピアノ:北村朋幹、トランペット:林辰則、チェロ:上野通明、ヴァイオリン:山根一仁

     オーケストラ:神奈川フィルハーモニー管弦楽団、指揮:キンボー・イシイ

曲目:作曲者は全て ドミトリ・ショスタコーヴィチ

    ピアノ協奏曲第一番(正式名称はピアノとトランペット、弦楽合奏のための協奏曲)

    チェロ協奏曲第二番

    ヴァイオリン協奏曲第一番

ショスタコヴィチは2025年で没後50年を迎えるとチラシに書かれているので、それで時機到来と書かれているのか、それとも何か別の理由があるのか、多分現在若手で活躍しているソリストが、この没後50年のショスタコヴイチの難曲をコンチェルトで演奏することにきっと時機到来と記したのではないかと思う。

ピアノ協奏曲第一番1933年作曲、チェロ協奏曲第二番1966年作曲、ヴァイオリン協奏曲第一番1948年 チラシによればピアノ協奏曲第一番はムチェンスク郡のマクベス夫人を書き終えたころとあるが、スターリン体制の批判めいたこともあり、作曲家として生きることが大変だったと想像できる。和声の部分とリズムの部分を時々入れ替えるようななかなかついていくことが難しい曲だ。ヴァイオリン協奏曲もこれも難しい曲で、多様な打楽器からチューバ、ハープ、チェレスタなどが使われているとあり、気になった音のヴィブラフォンもあるかもしれない。またチラシには「レ・ミ♭・ド・シ」という音階も時々使われているようだ。なんだかテトラコルド※の話の延長かもしれない。スターリンの体制から強く圧力を受けていたとのこと。(※吉田さんの論文の巻末に示しているテトラコルド http://yab-onkyo.blogspot.com/2025/01/202412.html)

チェロ協奏曲第二番は作曲家同盟第一書記などの就任やレーニン賞の受賞など名誉を回復するに至ったが、身体的不安があり、この作品に影響を与えたとのこと。私にとっては一番聞きやすい曲のような気がした。とにかくこのコンサートは刺激の大きなものだった。私の勝手な解釈では、和声の部分は従来からの気持ちのこもったききやすい部分で、打楽器などのリズムの部分は勇ましい戦争を表した部分で、それらの要素がまじりあって技術的に難解な、また表す意味も難解で複雑な曲になっているためではないかと思う。

 参考:オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は1936年作曲、交響曲5番は1937年作曲で、大砲が打ち合う激しく勇ましい感じの音と悲しそうな部分が混ざっており、作曲家が苦労したことが何となくわかるような曲である。

 私の席は2RF 18番で、切符を買う時から見えにくい席といわれてかったものだけど、切符を買う時が遅すぎたため、このような席しか残っていなかったためかもしれない。舞台上手側の1 /3が、見れないのはまあまあであるが、指揮者と独奏者が錯綜した手すりで見えなくなっていたのは大変残念だ。写真は公演が始まる前に、座った席から携帯を持ち上げて撮影した。




2025/03/14

チーク材のスピーカ

 10年ほど前に、わが息子の穂とその奥さんの優さんが、バンコクにレストランを開くというので、お祝いにスピーカを持っていくことになり、フォステックスのウーハーやホーンドライバーやツイーターのユニットと自作の周波数分解用回路などをスーツケースに入れて、バンコクに持っていき、バンコクで、チーク材で筐体とホーンを作ってもらい無事にできたのですが、残念ながらその時、レストランは開くことが出来ず、共同経営者のところに置かれていました。最近、バンコクでバーが出来つつあり、そこでこのスピーカを使うことになったようです。穂から写真が送られてきました。少し残念なことに、一部天井にもぐってしまい、スピーカの全体像は見れない形ですが、やっとここで役に立ちそうです。一般に市販されているスピーカは、多くはパーティクルボードなどの再生材で作られており、ホーンは鋳物で作られていることが多いが、このスピーカは高級なチーク材で筐体もさらにホーンも作っている。世界にほとんど類例のない素晴らしいものです。このスピーカから出る音楽でおいしいお酒が飲めるといいですね。

                             写真:バーのカウンターの工事中の写真
                                 
          写真:バーの完成後の写真(アンプなども設置されている)

2025/02/26

ウクライナ孤児支援チャリティコンサート

 場所:田園江田教会、

日時:2025.02.24 (月・祝) 16時から17時(二部)、(第一部は13時から14時)

出演:ヴァイオリン:澤田智恵、ピアノ:杉本沙織、朗読:武松洋子、合唱:ウクライナ日本芸術合唱団、ゲスト出演:ジャズピアノ・ヴォーカル:溝口直人(ここの神父)

後援:在日ウクライナ大使館、また前および前々在ウクライナ駐在日本大使が参加

 曲目:1.マスネ:タイスの瞑想曲、2.モンティ:チャールダッシュ、3.ジャゾット:アルビーノのアダジョ、4.朗読、5.ニュートン:アメイジング・グレイス、※6.ロジャース:私のお気に入り、7.ガーシュウイン:「ポーギーとベス」のテーマによるファンタジー、8.ウクライナ民謡:シチェドリク(編曲レオントーヴィチ)、9.ウクライナ民謡:ヘイ!ハヤブサよ、※溝口直人

 ロシアによるウクライナへの軍事的侵略が始まってから224日(本日)で3年(2022年から始まる)たった。ウクライナから避難をしてきている人によって合唱団もできている。平和な時代であればこんな合唱団はできなかった。また孤児の支援なども必要がない。ただ戦争があり、日々殺し合いがあり、爆弾が投下されるような状態なので、避難の問題や戦争孤児の問題が現れてしまう。半分このような意識を持ちながら、音楽を聴いていると、現実半分、音楽の楽しみ半分のような感じになる。タイスの瞑想曲その他や映画「サウンド・オブ・ミュージック」の中の「私のお気に入り」(My favorite things)もJAZZに編曲されていていい曲ですが、しみじみと実感をもったのはウクライナから来た人たちの合唱です。やはり微々たるものですが我々もウクライナを支える必要がありますね。他人ごとではありません。澤田さんには当面の間このような支援のコンサートを開いていただけると嬉しいです。

少し音響技術的な見地からいうと、この教会は天井がかなりの部分、岩綿吸音板でできています。そのため音声明瞭度はいいのですが、音楽にとっては豊かな響きに欠けます。とくにヴァイオリンに対してはもう少し響きがあった方がいいように感じました。しかも満席(在席200名ぐらい)なので、床面は吸音材面が多くなり、そのような場合には、ヴァイオリンにとって岩綿吸音板は必要がないくらいになります。


                                 写真:退席する途中で、合唱団が歌い始めたので撮影




2025/02/15

建築音響の交流の歴史その12 残響

 建築・環境音響学 前川純一著 のp.13には、『1.7 残響 室内の音源から音を出すと、図110(※省略)のようにある程度の時間成長して定常に達する。その後音源を止めても、音はその瞬間になくならずしだいに減衰していって聞こえなくなる。このように音源が停止した後に室内に音が残る現象を残響(reverberation)という。』『残響を示す言葉に残響時間(reverberation time)を用いる。これは室内の平均エネルギー密度が定常の値から、60B減衰するのに要する時間と規定されている。この現象をW.C.Sabine1900年に発表して以来、室内の音響的性状すなわち音の環境を表すのに、最も重要な指標として常に用いられてた。』 p.14 『Sabineは多くの実験結果から、残響時間Tは室の容積V(m)が大きいほど長くなり、吸音する材料や物体が多くなるほど短くなることを見出し、T=K V/A() ここで比例定数K=0.16、Aは吸音の量を表すもので、空室の場合は室内表面積S(m)、平均吸音率α(m)とすれば A=Sα(m2)、これを吸音力と呼ぶ。』

このp.50には『33残響時間  A.拡散音場の仮定  幾何音響学においては室内の音場は、完全な拡散音場であると仮定する。これは(1)音響エネルギーは室内全体に均一に分布しており、(2)どの点においても音の進行方向はあらゆる方向に一様である、という仮定である。』 p.52 『Eyringの残響式 上記Sabineの残響式は吸音力の小さな残響時間の長い室(liveroom)ではよく実験値に一致するが、吸音力の大きい残響時間の短い室(dead room)では実際より大きな値となる。』『そこでC.F.Eyringはこの欠点のない次に式を導いた。T=KV/-loge(1-A) p.53『c.空気吸収の影響を加えた残響式 、、、、空気の吸音を考慮した残響式は、、、、T=KV/(-loge(1-α)+4mV)となる。これをEyring/Knudsenの残響式という。空気吸音による減衰率mは図310(※省略)のように温度と湿度に関係するが1000Hz以下では非常に小さいので無視してよい。』

と言うことで現在ではこのEring・Knudsenの残響式を使うことが多い。

コンサートホールなどでは、直方体に形状を作ることはほとんど無いので、実際上は拡散音場の状態でもこの計算式は、問題は無いと前川先生は書いているが、多くの教室などは直方体に近い形状となっている。多くの横浜の地区センターの音楽室も矩形である。会議室も多くが反射性の材料でできていて、矩形である。

集合住宅の1室もほぼ矩形である。しかも壁・天井はコンクリートの上にビニルクロス、床はフローリングが多い。部屋周辺はかなり音の反射性の材料でできている。したがって話声とかテレビの音などが聞きにくい。福岡伸一著の『フェルメール 隠れた次元』のp.24に『窓辺でリュートを弾く女』、p.25に『窓辺で水差しを持つ女』がオランダの画家 フェルメールにより描かれている。双方とも1654年とも書かれている。ともに光と作図法に注目しているが、音響技術者としては、石造りの部屋に、吸音材としての絨毯を壁に掛けたり、テーブルに掛けたりしているように思える。絨毯などの吸音材を壁に掛けることは現在でもいい考えかもしれない。


写真:福岡伸一著の『フェルメール 隠れた次元』のp.24に『窓辺でリュートを弾く女』、p.25に『窓辺で水差しを持つ女』の引用

トルコのイスタンブールにブルーモスクがあるが、中に入ると大空間の中に、床は絨毯が敷かれていて、さらにその下をめくると、板が敷かれている。これも多分絨毯は座って礼拝をするためもあると思われるが、聖職者の声がよく通るように絨毯によって吸音しているようにも思う。下地の板は低音域の吸音に役にたっているようにも思う。しかも礼拝堂は大空間であるが、人が居る床に絨毯があり、音声明瞭性に大きく貢献できている。

                写真:イスタンブールのブルーモスクの内部


私が音響設計にかかわった富岡製糸場西置繭所のガラスホールも矩形である。しかもガラスでできており、内部から西置繭所の内壁及び天井が見れるとともに、このフレームで耐震補強もしている。矩形の長辺の端部は、エコーやフラッターエコーの影響が大きく、部屋のレタンガラリを設けるとともに、音を拡散する工夫をしている。その他の辺は距離が小さいために影響が少ない。吸音材は、天井が低く、容積が狭いために、入室している人がある程度の人数(100名程度)になるとクラシック音楽にも十分な吸音がえられる。講演・コンサートの結果はほぼ目標通りの結果が得られている。

      写真:富岡製糸場西置繭所のガラスホールでのコンサート時


ノートルダム寺院の残響時間のデータは、清水寧さんから紹介された『Sarabeth S. Mullins  Brian F. G. Katz ソルボンヌ大学の博士論文、The Past Has Ears at Nortre-Dame Cathedral: An Interdisciplinary Project in Digital Archaeoacoustics ノートルダム大聖堂の過去は耳を持っている:デジタル考古音響学の学際的プロジェクト』の中から引用したもの。

この論文によれば、『特に音楽家レオナン(11601200年活動、)とその後継者ペロタン(11801220年活動)と関連が深い。ペロタンはレオナンの音楽を4声のポリフォニック編曲に発展させた。、、、教会のミサや断続的な祈祷ではシンプルな聖歌が毎日演奏されていたが、パリのポリフォニーの演奏は教会暦の重要な祝祭日と関連付けられており、その日にはノートルダムの聖歌隊はベルベットやタペストリー、その他の音響的に重要な織物で豪華に飾られていた(Wright1989b)。ノートルダムは作曲家と建築物の関係が知られている唯一の場所ではありませんが、この場所での急速な建設のペースと音楽様式の急速な発展は示唆に富んでいます。大聖堂の占有とレオナンとペロタンの活動期間の時間的相関を考えると、大聖堂と音楽家の関係がノートルダム楽派の発展に影響を与えたのではないかと考えられます。最近まで、音楽学者や歴史家はそのような関係について推測することしかできませんでした。大聖堂のその後の建設により、12世紀と13世紀の音響特性が完全に変化したためです。』 12世紀のノートルダム寺院は、重要な織物で豪華に飾り立てられていたので、残響が現在より短い。このことによって賛美歌は12世紀後半ポリフォニーの音楽に変化させたという。これは和音を重視するクラシック音楽に大きな影響を与えたように感じる。

 またギリシャ劇場は、どの場所か正確には分からないが、清水寧さんから紹介された吉田さんの卒業論文から引用したものである。Kalliopi Chourmouziadou Jian Kangがギリシャ劇場のシミュレーションと実測をおこなった結果とのこと。この論文の参考文献 [16]によれば、Early Classicから徐々に時代が下るにつれ、劇場の残響時間が長くなっていることがわかる。これは多分スケーネや座る椅子の上部のでっぱりなどが影響しているように思う。またローマ時代の劇場についても空席では1.7秒程度であるが、満席では1.0秒程度になり、人の吸音力が大きく影響しているようだ。

              図:吉田さんの卒業論文(2024.12)から引用

 この参考文献 [16]を読んでみると、Kalliopi Chourmouziadou and Jian Kang.著『Acoustic evolution of ancient Greek and roman theatres. Applied Acoustics, 』の中で、ギリシャ劇場のうち、『Minoan Theatreは、椅子は木製である。Pre-Aeschylean劇場では台形であり、両方ともかなり開放的である。Minoa 劇場は長方形の形状で複数の鏡面反射とフラッターエコーのためばらつきが発生する。Pre-Aeschylean 劇場では台形のため、大幅に残響時間が減少する。』 さらにギリシャ劇場の『ヘレニズム時代の劇場と比較すると、ローマ劇場の舞台の後ろの壁は高くなっており、観客席の高さと同じになっている [36]。これにより、より閉鎖的な空間が生まれ、反対の表面間で多重反射が可能になる一方、境界散乱により比較的均一な残響場が作られる。』『このような残響時間は、屋内空間での同じ値と同等であるとは認識されない可能性がある。』


表 芝居小屋、ウィーン楽友協会ホールを含む残響時間比較(空席)、ただしギリシャ劇場はEarly ClassicRomanを上記表より抜き書きした。

中心周波数(Hz

 

125

250

500

1k

2k

4k

杉田劇場※

 

1.42

1.37

1.42

1.44

1.42

1.30

富岡製糸場ガラスホール※

 

1.66

2.15

2.21

2.06

2.04

1.89

歌舞伎座※

 

1.37

1.15

1.05

1.10

1.03

0.92

ボストンシンフォニー(空席)

 

2.18

2.3

2.32

2.69

2.78

2.42

ガルニエオペラ座(空席)

 

1.84

1.40

1.26

1.18

1.14

1.02

久良岐能舞台※

 

0.66

0.69

0.79

0.79

0.80

0.81

嘉穂劇場※

 

1.12

1.15

1.01

1.01

1.04

0.99

ウィーン楽友協会ホール(空席)

 

2.97

3.03

3.06

3.05

2.67

2.10

金丸座※

 

1.08

1.00

0.91

0.86

0.78

0.72

内子座※

 

0.84

0.86

0.97

0.99

0.95

0.90

サントリーホール(空席)

 

2.40

2.60

2.60

2.60

2.60

2.29

ふね劇場※

 

0.81

0.87

0.77

0.61

0.59

0.56

つくば古民家※

 

0.32

0.40

0.42

0.44

0.48

0.52

ノートルダム寺院

 

9.90

9.60

7.90

6.60

5.10

3.20

ノートルダム寺院ゴシック前

 

5.80

6.00

5.50

4.80

3.90

2.90

ギリシャ劇場(空席ローマ時代)

 

1.4

1.5

2

1.8

1.9

1.8

ギリシャ劇場(空席初期古典時代)

 

0.6

0.5

0.5

0.6

0.6

0.3

法隆寺等

 

 

 

 

 

 

 

 以下 残響時間のグラフにはEarly ClassicRomanを記す。また芝居小屋などの空席の計測結果やそのほかのデータを併せて記している。

この表および以下に示す残響時間のグラフから比較すると、500Hz帯域で考えれば、最も残響時間が長いのはノートルダム寺院で7.9秒、ノートルダム寺院のゴシック以前では5.9秒で、これに追ってゴシック以前に音楽に影響をしたものと思われる。次に長いのはウィーン楽友協会ホールで3.06秒、サントリーホールが2.60秒、ボストンシンフォニーホールが2.32秒、富岡製糸場のガラスのホールが2.21秒、このホールは人間が入場して、はじめて人間が吸音材としても効果が出てくる。この次に現れるのは、ローマ時代にギリシャ劇場で、後壁・側壁を高くしたり、椅子の上部にでっぱりを付けたりして、残響時間を延ばしている。ここまでは残響を長くしたい傾向がある。次に多目的ホールの杉田劇場は、音響反射板を設置した状態で、クラシックコンサートに好ましい状態であるが、1.42秒、ガルニエオペラが1.26秒、歌舞伎座が1.05秒、嘉穂劇場が1.01秒、内子座が0.97秒、金丸座が0.91秒、久良岐能舞台が0.79秒、ふね劇場が0.77秒、初期古典時代のギリシャ劇場は0.5秒、つくば古民家は0.40秒となっている。嘉穂劇場、金丸座、内子座は芝居小屋で、歌舞伎や人形浄瑠璃が主に演じられるが、伴奏で三味線や太鼓や笛などが演奏される。ふね劇場は、横浜ボートシアターが所有する鋼鉄製の艀の劇場である。つくば古民家は、測定データは現状の和室であるが、この部屋を将来、板襖に換え、床を板に換えたりして、クラシック音楽にも好ましいような状態に可変している。だんだん残響時間が短くなるにしたがい、音楽から主に演劇に変化してきている。ただし ふね劇場はこのデータのときには側壁は布で覆われているが、その後、その布を取り除いて、より残響を長くしている。この演劇は、公演の半分は音楽を用いているためとも考えられる。


    ※まだ残念ながら表中にある法隆寺などお寺や神社などの残響時間のデータは

     見つからず、比較できていない。