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2024/12/28

かつて荏田町に芝居小屋があったところ

 新潟の文化遺産をいくつか見たあとで、毎日散歩しているこの荏田町について考えてみた。荏田町の、この以下の写真の場所は、数年前には野菜の直売所になっていて、その中にいたおじいさんがこの場所にかつて仮設の芝居小屋が時々建って芝居を行っていたと言っていた。今は、直売所の建物はあるが、単に駐車場になっている。しかし江戸時代には、大山街道の荏田宿がこの地点で直角に折れ曲がっている荏田宿中心の場所となっていた。荏田宿を折れ曲がらず、そのまままっ直ぐ行く道路は釈迦道(しゃかんどう)という尾根を越える山道で、尾根の頂部のところで釈迦堂が近くにあった。しかし現在は、釈迦堂はなくなり、忠魂碑となっていて、しかも釈迦道は尾根を切通している県道となっている。旧荏田宿の角を反対側に折れ曲がる道路はかつてなく、単なる尾根となっていた。国道246号線が尾根の先端一部を削って、その勢いでさらに削って、現在の道が新設された。私は散歩をするたびに歴史上にあった荏田宿のシンボルになるようなものはないか気にかけていた。私の勝手な空想であるが、ここに木造の土壁造りの芝居小屋を作り、普段は野菜の直売所等として使い、夕方からは、この地域に昔あったとされる神楽やお囃子や音楽・演劇・落語・和太鼓・吹奏楽・オペラなどの公演場所として使うようなことが出来たらいいのだが。さらには桟敷席が災害時の避難場所にもなるといいのだが。多分人が集まれるような、公共的な施設が好ましいかもしれない。以下に芝居小屋兼野菜の直売所の案を示した。

         写真:20241222日(日)午前7時ごろ 朝の散歩の途中で撮影

            

               図 芝居小屋 兼 野菜の直売所 案

2024/12/26

白鳥のいる瓢湖への旅

 20241218日(水)から19日(木)まで、白鳥のいる瓢湖を目的に旅行した。全行程は新潟駅、旧伊藤家住宅、角屋旅館(腎臓食を出してくれる)、瓢湖(朝7時前後)、旧斎藤家別邸、北方文化博物館別館、港のマルシェ、新潟駅

東京駅から11時半ごろ上越新幹線で新潟まで向い、まず旧伊藤家住宅、現在北方文化博物館にいった。豪農だった伊藤家住宅は大きい敷地に建っているが、これを北方文化博物館として、さらに民家数軒や食堂やお土産屋まである。下記は大広間の写真であるが、庭の美しい景色が眺められるように作られている。廊下側にある柱は屋根から欄間が懸垂され、それから下はなくしている(写真)、敷居がフラットになっていて、庭をいかにきれいに見せるかと心を砕いて設計されている。当日は、外は半分雪景色であるが、昔から開け離れていたのだろうか?



             写真:廊下部分の欄間は屋根から懸垂されている。

       写真:囲炉裏の上部には吹き抜けになっていて、煙抜きがある。


                         写真:豪農の住宅の台所


豪農の住宅の台所は広い。炊飯器や洗濯機がない時代、また囲炉裏が重要な役割がある時代には、台所は広いスペースが必要だったと思われる。



              写真:集古館(旧米蔵)から伊藤邸主屋を見る。

その後、五頭温泉郷にある角屋旅館にいった。ここは湯治場としてのラジウム温泉というだけでなく、腎臓病のための食事を出してくれるところでもある。しかもおいしいものだった。住所は新潟県阿賀野市村杉4631-1、腎臓病のものにとっては代えがたい旅館だ。さらに瓢湖があるから角屋旅館に行きたくなる。

翌朝、角屋旅館から朝630、バスで56名と瓢湖に向かった。瓢湖は新潟県の阿賀野市にある。新潟市の隣の市である。瓢湖の白鳥は何千羽もいるようで、さらに幾種類かの鴨がやはり何千羽もいるようだ。



これらの白鳥が刈り取った稲の残りを取りに一斉に飛び立つのが見もののようだが、既に12月で、稲の残りが少なくなってしまったようで、なかなか飛び立つ気配がなかった。



                      写真:瓢湖には民家が隣接している。

瓢湖は江戸時代に水田用の溜池としてつくられていて、人造湖であるために、山の中にある湖ではなく、民家も湖畔まである。白鳥や鴨の出す声は聴く人によっては騒音といわれるほど賑やかで大きい。ただバスの都合か30分程度で引き揚げた。

10時に旅館をチェックアウトし、旧齋藤家別邸に行った。この齋藤邸も豪農の一人のようだ。建物の装飾も素晴らしいもので、建築家・大工の力を感じるものだ。


                         写真:2階の広間

写真:1階の庭とのつながり

旧齋藤家別邸に隣接して、北方文化博物館新潟別館がある。これは旧伊藤文吉の別邸であったが、この一部洋館を戦後 歌人 会津八一(あいづやいち)別名 秋艸道人(しゅうそうどうじん)に貸していたとのこと。以下は旧伊藤文吉の別邸の広間で、先ほどの旧齋藤家の広間と似た造りとなっていた。庭とのつながりを大事にしていたことがわかる。


          写真:1階の庭とのつながり、旧齋藤家と似た造りで、庭との関係を大事にしている。



                  写真:旧伊藤文吉別邸の床の間、障子の細工が細かい。

見学をしながら、時々雪になったり、雨になったりしていた。そのあとは昼ご飯を港のマルシェで食べて、新潟に向かった。

この新潟駅周辺には見るべき文化遺産がたくさんあった。瓢湖だけでなく、建物の文化遺産がたくさんあった。建築家=大工の高い精神性を感じた。また行ってみたいところだ。

2024/12/22

世田谷美術館の見学

 日時:20241217日(火) 1130用賀駅集合

場所:世田谷美術館、まず用賀駅の改札口で11時半に落ち合い、皆さんの希望である美術館のレストランでなく、私の腎臓病の観点から、日本蕎麦屋に行き、食事をし、バスで世田谷美術館に向かった。

目的:東工大建築学科の親しい仲間たち6名と内井昭蔵設計の世田谷美術館(竣工1985年)の見学を行う。美術館では、現在(11/302/02)、『東急 暮らしと街の文化-100年の時を拓く』とうい特別展をやっていた。以前、数十年前、同じ仲間と内井昭蔵設計の桜台ヴィリッジと桜台コートヴィリッジを見学に行ったことがある。その図面が特別展の中で展示されていた。当時はUR都市機構(昔住宅公団)の箱状のマンションが一般的だったころ、雁行したマンションが出来たことで目新しく、懐かしい。その内井昭蔵が世田谷美術館を設計した。地下1階、地上2階建ての建物で、なんだか池袋の自由学園の建物のような雰囲気がある。細かく見ると違いがあり、例えば外壁はタイルを打ち込んだPC版でできており、その上部は緑青の銅板で吹かれており、屋根も赤茶色の鵜版でふかれている(写真で示す)。外部の通路も印象的な柱と緑青銅板でふかれた屋根で出来ている。単純に打ち放されたコンクリートの平坦な壁ではなく、装飾された柱や壁や屋根で出来ている。

東西アスファルト事業協同組合のホームページ(www.tozai-as.or.jp/mytech/88/88_uchii07.htmlの内井昭蔵の『建築と装飾』という文で、私の大好きな空間は、目白の自由学園の子どもたちの居間のような部屋で、、、装飾については、現代の建築においても、人の心を和ませるというか、近づきやすくさせる手法はいろいろあると言っている。ちょうど世田谷美術館のことを言っているようだ。自由学園で印象的だったのは、木製のステンドグラスと大谷石の暖炉、その他全体的な構成は2階建てで、世田谷学園と大きな違いはない。

地下にあるカフェで一呼吸して、私は用事があるために、先に失礼した。

世田谷美術館の背後にある世田谷青果市場の建物が大きく、また混ざってしまっていて、世田谷美術館のシルエットがくっきり見えてこない(写真で示す)。風景がごちゃごちゃする理由かもしれない。世田谷美術館に合わせて、もう少し低い建物にできなかったのか気になる。








写真:背後に大きな青果市場があり、風景がごちゃごちゃしている。

             写真:外壁と屋根



2024/12/15

オペラ IL TROVATORE コンサート

 日時:20241214日(土)1400開演

場所:マリーコンツェルト 板橋区中板橋 北口より徒歩で3分のはずだが、横道に入りそこない、遠くまで歩いて行ってしまった。ホールはRC造の2階、一部3階になっていて、1階はエントランスホール、男・女用のトイレ、2階は舞台・客席、3階は客席 1階は70席ぐらい、2階も30席ぐらいか。永田音響のニュースでは100席と書かれいる。とにかく満席だった。壁は打ち放しのコンクリートで、天井はよくわからないが黒っぽい色で塗装されている。多分吸音性のドリゾール板のようなボードと思われる。

暖冷房は縦格子状の四角のパイプでできていた。多分換気は熱交換を行いながら換気できる換気消音のシステムが天井にできているようだ。このような方法であれば空調騒音が小さくすることができる。設計は大塚亨設計事務所、音響設計は永田音響設計。

曲目:G.Verdi作曲のオペラ IL TROVATOREの中から、穏やかな夜、嫉妬に燃えて、炎は燃えて、君が微笑み、見よ 恐ろしい炎を、恋は薔薇色の翼に乗って、他

出演は中島寿美枝(LEONORA)、末広貴美子(AZUCENA)、小川英子(PIANIST)、川久保博史(MANRICO)、木村聡(CONTE DI LUNA)で、板橋こもね歌劇団が主催しているようだ。こもね歌劇団は末広さんの手紙によれば、川久保博史と中島寿美枝ご夫妻が主催する団体のようで、出演者の木村さんも板橋区小茂根に住んでいることから名前がついたようだ。IL TROVATOREの物語は、司会進行の田代直子が大きな流れを話し、その後オペラの重要なアリアなどを唄うもので、オペラ全体の流れがよく理解できながら楽しめた。ただ話は複雑で、ジプシーの老婆が火炙りになる話やその老婆の娘による伯爵の息子(弟)の誘拐や復讐としてその子を火に投げこんだつもりが間違えて自分の息子を投げ込み、伯爵の子を育てたり、その子の恋人と伯爵の子供との軋轢やその子と本当の弟との決闘や最後まで様々な出来事が現れる。物語としてこれ以上劇的なことはなさそうな話だ。したがってアリアは激しい歌声になる。このような激し歌声には今回のコンクリート打ち放しの空間は最適のように思う。ただ強い反射音が直接音を補強しているが、そのため音像(歌っている人の声)が少し不明瞭になる感じもあった。特に歌手が上階から歌うシーンがあったが、2階の客席から聞いていると、どこから歌っているのかよくわからず、部屋全体から響いているような感じだった。私は以前永田先生が一応完成してから音を出して好ましい状態まで吸音材などを追加するのをテイラーメイドといっていたが、それが少し必要な気がした。

実は私が設計のかかわったものであるが、2012年に竣工したトライビートスタジオのスタジオAは天井高さが6m近くあり、さらに残響調整のために、1m角ぐらいの吸音材を壁に取り外しができるようになっている。このマリーコンツェルトの近くを流れる石神井川を下るとこのトライビートスタジオはある(写真で示した)。ただし現在はリボーンスタジオという名前になっているようである。


              写真:マリーコンチェルトの内部、コンサートの前に撮影

             写真:マリーコンチェルトの天井の拡大写真

             写真:トライビートスタジオのAスタジオ


2024/12/12

黒潮プロェクト 台湾-与那国-済州

 日時:20241210()700945ぐらい

場所:日暮里サニーホール

主催:音楽詩劇研究所

テーマ第一部:そして魂と踊れ:演出・作曲 チョン・ウォンキ

第二部:黒潮の子 演出・作曲 河崎純

第一部の魂と踊れは、済州島で生まれ育てた人々が戦争なので、命を失い、海の底に沈んでしまった魂を蘇えらせて、歌と踊りで表現する物語。歌は、ムン・ソクボムという人で、声はしゃがれているのだが、大きな、また力強く通る声で歌う。、この演劇ではこの人の存在が非常に大きい。また音楽はチョン・ウォンキが観客席から指揮を執り、チャン・ジェヒョの打楽器やパク・スナの伽耶琴(かやごと)や河崎純のコントラバスが力強く聞こえた。

第二部は黒潮の子は、黒潮が運ぶ島々の唄で表現されている。素晴らしかったのは、台湾原住民族の民謡で、エリ・リャオが歌うものだった。たしかにこの日本は海外から黒潮の流れにのって、さらに北の方から親潮にのって来た人々がたくさんいる寄せ集めの民族?といえる。ただ言いたいことがたくさんありすぎて、後半の物語は、演劇としてのまとまりがかけているように感じた。

第一部も第二部も大変刺激的な物語だった。







           

                          写真:日暮里サニーホール 開演前に撮影



2024/12/06

斎藤静&三又瑛子Duo Recital

 日時:2024125日(木) 1900開演

場所:めぐろパーシモンホール 小ホール 椅子は可動席で床は平らにもなるようだ。おおよそ150席。

物静かな曲 物思いにふけるような曲、たとえば枯葉、シンドラーのリスト、 ツゴイネルワイゼンと、それに反してリズムがあり、元気が出そうな明るいピアソラのル・グラン・タンゴを対比している。また荒城の月は今年亡くなった坂本龍一の「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を思い出させる しみじみとした曲

アンコールはきよしこの夜とピアソラのリベルタンゴ。このコンサートで最終的に斎藤さんが言いたいことは、この世の中、悲劇的なこともたくさんあるけど、ピアソラの曲が象徴しているように、とにかく元気を出して頑張ろうというメッセージのような感じがした。いいコンサートだった。

このめぐろパーシモンホール 小ホールは写真の様に壁はランダムな縦縞の凹凸になっていて、壁からの反射音を拡散することで、音源の位置・大きさを明確にする役割がある。しかし強い反射音が無くなると、直接音を補強することが出来なくなってしまう場合がある。もう少し強い反射音が得られる面も設ける必要があるように思えた。







             写真:めぐろパーシモンホール小ホール、開演前に撮影



2024/12/05

ウクライナ支援チャリティーコンサート ~クリスマスを迎える中で~

 日時:2024123日(火)昼の部1530から1630、演奏時間は約1時間

場所:横浜海岸教会 定員150

演奏目的は「ドゥノフスキー・アルテムさんの医学支援」で、チャリティーコンサートと銘打っている。彼は順天堂大学医学部付属順天堂病院で尾骨の神経補綴手術を行うと書かれている。

曲目は、G線上のアリアからシチュドリクまではヴァイオリンとピアノの演奏であったが、チェドリクの前でオクサーナさんがシチュドリクはウクライナの民俗音楽で、映画で有名になった曲だと説明があった。

また次はシャポワロフ・レオニードさんのピアノのソロで、最期の2曲は木村実央、木村円香姉妹さんのクリスマスの歌だ。ちょうど季節に好ましく、また教会という場所にも好ましい。

シャポワロフ・レオニードさんはアルテリーベ横浜という日本大通りにあるレストランで、ピアにストとして働いているようだ。

またこの海岸教会は今年152周年となるようで、日本で最初のプロテスタント教会だそうだ。また横浜市が認定する歴史的建造物でもあるとのこと。

海岸教会の定員は150名とパンフレットには書かれているが、椅子を数えると、補助いすも入れて1階席だけで150名ほど、教会には2階席もあり、何人かはその席にもいらした。満席以上だ。ほぼ人間以外は吸音材がなく、きれいな響きを持っていた。舞台上(祭壇上)のヴァイオリニストから最初のG線上のアリアが聞こえてきたが、きれいな響きだと感じた。ただ舞台の段の下にあるピアノからもきれいな音が聞こえてきたので、ひょっとしてヴァイオリンもピアノの隣の位置から演奏をしたらどうかと感じた。私の経験では、この舞台面の高さ(約1m)は、観客からは見やすい位置にあるが、演者と観客は違う世界という感じになるような気がする。オクサーナさんや牧師やアルテリーベ横浜の代表のあいさつもピアノの脇からだった。

この教会では、きっと楽屋などの施設はないと思われるが、演奏の音はとてもきれいで、何度でも来てみたい。

ただ今回のコンサートの目的はウクライナの戦争で傷ついたドゥノフスキー・アルテムさんの医学支援という目的で開かれている。平和になってコンサートが開かれるといいのだが。また日本ウクライナ芸術協会のヴァイオリニストの澤田さんのご尽力に頭が下がる思いだ。疲れすぎないように頑張ってください。





写真:コンサートが始まる前に撮影した。




2024/11/24

サクソフォーンカルテットコンサート

 日時:20241123()1330から1430

場所:美しが丘西地区センター 体育館

実は遅れて行ってしまい、最期の2曲、「川の流れのように」と「日本の四季によるミニチュアシンフォニー」とアンコールの「オー・シャンゼリゼ」しか聞けなかった。。

美しが丘西地区センターは我が家から歩いて行ったが、美しが丘西地区センターの近くまで早淵川が流れており(添付図)、その源流を見てみたいという気持ちがあった。早淵川は覚永寺のバス停までは県道の中央を流れているが、その先はその道から外れ畑や山道のすそ野を流れていき、小川のようになっていき、なかなか通り抜けられず、やっと抜けれたと思ったらこんどは目的地とは反対の方向に向かって歩いてしまい、美しが丘西地区センターに対しては2時ごろになり、大幅に遅刻してしまった。

遅れて着いたらセンターの玄関ホールで、サックスの音が聞こえてきていた。体育館に入ると100名以上のお客さんがいて、満席に近かった。サックスの音がとてもよく響いていて聞いていて心地よい音だ。多分この響きでは先日テレビで紹介されていた文楽をアルゼンチンタンゴで踊る?ということがあったが、そのアルゼンチンタンゴのバンドネオンのような激しい歯切れのよい音楽では音の変化が聞き取りにくい感じだし、ヴァイオリンだと聴衆に対してはいい響きだけど、その他の例えばピアノとのアンサンブルでは、、壁や天井からの反射音が遠くて、お互いの音が聞きにくい感じがあるかもしれない。サックスは適度に響きを持っていて、非常に気持ちの良い音になっていた。またバリトン、テナー、アルト、ソプラノのアンサンブルもよくきまっていた。おりあらば、また同じ場所で聴いてみたい感じだ。今度はバスか、ないし2時間前から歩くことを検討しないと。

 


            図:プログラムおよび出演者紹介


写真:美しが丘西地区センターの体育館の会場、コンサートが終了したのちに撮影



図 早淵川の源流は美しが丘西地区センター(赤い印)のすぐそばまで流れている(青い線で図示)。

2024/11/22

五島美術館 古裂賞玩(こぎれしょうがん)―舶来染織がつむぐ物語

 日時:20241119日(火)13001400

場所:大井町線 上野毛駅近くにある五島美術館、 この周辺は、隣は東急電鉄の生みの親、後藤慶太が住んでいた家があり、またその周辺は高級住宅が並んでいる。またこの五島美術館は森の中に存在しているような雰囲気があり、五島美術館の建物はRC造ではあるが平屋の和風の古い様式の建物である。

古裂賞玩は舶来の布を使って、風呂敷き、小ものを入れる袋、着物や丹前、掛け軸の地などを作ったものである。これら古裂は貴重なものという雰囲気がある。多くは江戸時代に大名が持っていたようだ。

実は最近、この布地のような雰囲気の壁紙を張ってある家の部屋を見学した。この壁紙によって高級感が現れていた。





2024/11/10

みなとから考える横浜のまちづくりシンポジウム カジノは止まったけれど山下ふ頭、市民不在の大型開発でいいの?

 日時:2024118日(金)19時~21

場所:横浜開港記念館 1F 1号室 (参加者が満席以上だった。)

主催:市民のための山下ふ頭シンポジウム

司会:椎名純子、コーディネーター:角野渉、

開会あいさつ:清原 理、閉会のあいさつ:中村寛三

講師:山下ふ頭の跡地活用事業について:大方潤一郎、

市民参加のまちづくり:坪郷實

講演:大方氏、この山下埠頭はそもそも市の施設、すなわち公共空間である。「都市の有効活用」という視点は不要だ。以前出した「みんなの山下ふ頭に〇〇があったらイイナ実行委員会」の企画書の案は市民の共創エリアと一般開発エリアがあるが、市民の要望をすべてこの共創エリアに押し込む必要もなく、また一般開発エリアを設ける必要もない。公共投資の一環として、不要になった倉庫等を取り壊し、もっとも市民のためになる公共空間を整備すれば良いと。市民の資産である土地を私企業に売却して金儲けのための私財にするのではなく、市民共有の資産(コモン)としての自由で自然豊かな空間にすること。

講演:坪郷氏、「市民参加はデモクラシーの心臓」が主要なテーマで、今は各自治体が途中の計画を市民に知らせず、進めてしまうが、市民が参加できるように法律を変更すべきだと言っていた。これは重要なテーマだ。

 参加者からは、砂浜の実現、山下埠頭で小さい頃釣りをしていたといった興味深い話があった。最近私は早淵川(鶴見川の支流)に散歩に行って、その大きな楽しみは、その川に小さな魚がたくさんいること、それを狙いにアオサギやシロサギや鵜がときどき飛んでくる。さらにカワセミもセキレイもたくさんの鴨やスッポンもいる。さらにとんでもないことに50㎝ぐらいのコイもたくさん泳いでいる。さらにこの小さな魚を釣りに来た人や、さらになんというか!このでかいコイを吊ろうとする子供も現れた。さらに川に入ってスッポンを捕まえようとしている子供もいた。たかが小さな出来事だけれど、この川に来るとなぜかほっとする。私の子供の頃も川で釣りをしたり、泳いだりしたことがある。このような自然が山下埠頭の周辺にも存在できるようになると山下ふ頭も相当身近になる。私が小学生の頃、山下公園には何度か来たが、木も少なく寂しげだった。しかし今考えるとかつて山下公園は関東大震災時に出たがれきを捨てた場所だということが分かった。したがってできた当初は公園としてはさみしいところだったが、今や素晴らしい公園になっている。講演のなかで、シドニーオペラハウスの話があった。前市長がこの場所にこのようなオペラハウスをつくろうというのだった。シドニーオペラハウスは大成功だったが、後背には緑の大自然が構えている。この中でのオペラハウスなので、美しくできたのだと思う。自然をメインに計画出来たらよいと思うが、どう横浜市の計画の中に取り込めるのだろうか!私はふね劇場がこの山下埠頭に係留できるといいと思う。私が学生を卒業したころは、劇場は、赤テントや黒テントにばかり行っていた。当時、残念ながらこのふね劇場は行ったことがなかった。しかし音響的に考えるとこのテント劇場より圧倒的に素晴らしい空間である。テント劇場は、とにかく俳優の声は皆かれてしまって、ガラガラの声になっている。ふね劇場は、形は、今の劇場らしくない自然に存在する艀である。このふね劇場もこの山下埠頭再開発の中に取り込もうと思う。今日の講師の提案のように、まず行政の中に法律的に市民が参加できるような仕組みを作る必要があると感じた。しかも前回の講演のように艀を横浜の大事な文化財として扱うような仕組みを作ること。

                           写真:横浜開港記念館(入館前夜7時ごろに撮影)

※この建物は、大阪市中之島公会堂と並び、大正期の公会堂建築の有名な建物だそうだ。設計原案・基本構造設計は福田重義、山田七五郎で、関東大震災で倒壊してその後復興されたとのこと。塔の高さは約36mで 「ジャックの塔」の愛称で親しまれている。(ウキペディアより引用)


2024/11/07

キンボー指揮 N響オーチャード定期2024/2025 第130回

 時:2024113日(日・祝) 開演1530 ただしロビーコンサートが1450よりある。

曲目:

ホワイエで、G.ノックス:ヴィオラ四重奏 「スペインのフォリア」によるマラン・マレ変奏曲、

ウエーバー:(ベルリオーズ編) 舞踏への勧誘

ショパン:ポーランド民謡による大幻想曲

リスト:死の舞踏  ―休憩―

ビゼー:『カルメン』組曲(キンボー・イシイ版):トレアドール(闘牛士)、前奏曲、衛兵の交代、

    アラゴネーズ、ハバネラ、アルカラの竜騎兵、間奏曲、密輸入者の行進、闘牛士の歌、

    セキディーリヤ、ロマの踊り

アンコール曲はビゼーのアルルの女

指揮:キンボー・イシイ、ピアノ:福間洸太郎、

演奏:NHK交響楽団(コンサートマスター長原幸太、

場所:横浜みなとみらいホール

ロビーコンサートは、音楽はモーツアルトやベートーベンのようなクラシック音楽より古い時代の音楽のようだが、G.ノックスは現代の人のようだ。古い曲を編曲したようなかんじだが、音程を微妙にずらしていて、非常に興味深い曲だった。

今日の曲目のテーマは『Dance Dance!』で、すべてが踊るような流れの中での曲だった。大変親しみやすい曲だと感じた。またキンボーはでしゃばらず、謙虚で、独奏者やN響の演奏者に対して立てるようにふるまっていた。大変自然で好ましい姿勢だと感じた。いまやキンボーは多分偉大な指揮者になっていると思う。

また中野さんのiPadで写真を、キンボーさんと奥さんのまきさんと、中野さん、鶴見さんと一緒に楽屋ロビーでとってもらった。中野さんと鶴見さんは、キンボーのお母さんMienさんの鹿児島大学時代の友人で、この後、喫茶店によって、キンボーの小さい頃のことなどで、長話をしてしまった。わたしにとってはこの二人は、昨年亡くなったMienさんの置き土産だ。

建築音響の立場からは、この横浜みなとみらいホールは、天井が高く、きれいなのだが、2F席の先端では舞台は見やすいが、天井が高いために有効な直接音を補強する初期反射音が得られにくいような気がする。東京文化会館やサントリーホールのように中央がたれ下がってきていれば、初期反射音が得られるのだけれど、そのためには3F席の座席を2F席よりも、もう少しせり出させて、初期反射音が得られるようにしたらどうなんだろうか。このホールはサントリーホールの舞台の後ろの屏風折れのデザインもモチーフにしているし、ウイーンムジークフェラインのような美しい空間が出来ているのだけれど、その点が気になる。

              写真:みなとみらいホール、コンサートの始まる前に撮影



           写真:左から、まきさん、中野さん、キンボーさん、鶴見さん、私

2024/10/30

建築音響の交流の歴史 その10

 建築音響の交流の歴史その9では、劇場の形態と、演技者と観客さらに観客同士の交流が必要と書いた。今回は日本の伝統的な空間の響きについて述べる。

 以下の表には、いくつかの芝居小屋や、多目的ホールの音響反射板状態の杉田劇場、ふね劇場、歌舞伎座(旧)、神奈川大学のセレスとホール、多目的劇場の鹿角市交流プラーザに加え、つくば古民家(つくば酒井泉邸)の残響時間測定結果をあわせてグラフに示した。500Hz帯域で考えると、音響反射板を設置した杉田劇場が一番長く、次は歌舞伎座、その後は芝居小屋やふね劇場があり、この中ではつくば古民家は0.4/500Hz程度と一番残響時間が短く、響きが少ない。

このつくば古民家の残響時間が0.4/500Hzと短い状態からクラシック音楽ができるように改修してみたいというのがつくば市の酒井泉さんの希望であった。


古民家からクラシックホールへの改修案:

パターン1:板襖(ベニア厚15mm)、屏風折れ音響反射板(設置90cm、縦180cmの音響反射板を10枚、内訳は、舞台の後に4枚、客席の後ろにある障子用に2枚、ガラス戸を隠すために4枚)を用いた。床は畳、木製ベンチ(194人掛)

パターン2:板襖、屏風折れ音響反射板設置、床は8畳間のみ板に変更、10畳間は畳のまま

パターン3:側面の屏風を連結し設置。後はパターン2と同じ

パターン4.舞台正面の屏風折れ音響反射板をガラス戸(共振と思われる160200Hz帯域の残響時間のディップ)に密着した。後はパターン3と同じ

パターン5:パターン4に加え、ベンチに座布団を置く。





                 図 残響時間測定結果

残響時間の測定結果は、和室の対策前と比較して、襖を板襖とし、8畳の畳を板とすることによって、残響時間が0.41秒から0.56秒にまで変化した。しかし座布団を置いたことで、0.44秒まで、短く変化してしまっている。また変化の仕方は1000Hz帯域のほうが大きく、対策前では、0.42秒であったが、パターン2では0.61秒まで変化している。したがって紙の襖を板襖とし、8畳分であるが、畳を上げて板床とすることで、残響時間は0.14秒長くなり、響きも感じられるようになった。

 

中高音域では、対策効果が得られているが、低音域(100200Hz)では、大きな効果が得られていない。しかし屏風折れ音響反射板が設置されている近くでは、拡散効果のためか、またガラスに直接音が当たらないためか、残響時間が長くなっている。しかし低音の吸音は、ガラス戸以外に、天井の杉板の板振動によるものも考えられる。

また10畳の畳も上に長尺塩ビシートを設置して、残響をさらに長くする。このことで、残響時間は500Hz以上の周波数帯域で、座布団が無い状態で、0.7秒ほどとなることが想定できる。その場合には人が在席しても残響時間は0.5秒ほど、平均吸音率は0.2程度で、一般のコンサートホール並みの値となり、残響感が感じられるようになると考えている。

これらのことで、ある程度クラシック音楽に対しては演奏しやすい、また聴きやすい空間ができると思う。ただし屏風が増えると圧迫感が生じ、美しい庭の景色が望めなくなることもある。また長尺塩ビシートが材質的に和室の雰囲気と合わないことも予想され、すべての床を8畳と同じような板材が好ましいとも考えた。

 ひるがえって、音楽はクラシック音楽だけではなく、箏や三味線や篠笛や尺八や琵琶などの日本の楽器による音楽は、和室、そのままでもいいかもしれない。さらにトルコのサズやカザフスタンのドンブラ、コヴィズやキルギスタンのコムズやタジキスタンのドゥタール、インドネシアのガムランや中国の二胡、横笛バウ、韓国の横笛デグム、インドのシタール、イタリアのマンドリン、スペインのフラメンコギター、、、、、数えきれないほどたくさんの音楽がある。ただ演奏者は多分圧倒的にクラシック音楽に関係している人が多く、観客も聞きなれている人が多い。ただ様々な音楽を聴く人は確実に増えてきている。

そういえばつくば市の北部の北条(ほうじょう)という街に宮本家の住宅があり、その穀物倉庫で、コメのなくなった季節にクラシック音楽会をおこなっているとのこと。なかまで見せてもらったことがあるが、実際のコンサートは聞けなかった。また栃木県の宇都宮市近く、東北自動車道脇の西方町に、西方音楽館『木漏れ陽ホール』がある。たしか倉庫を改装して作ったクラシック用のホールがあり、永田先生の音響設計で、永田先生に誘われていったことがある。一応主に反射材を用いて完成してから、吸音材などで音響調整をしているとのこと。このことをテイラーメイドと言っていた。また隣には土蔵造りを改装して、『馬酔木(あしび)の蔵』という名前で、オルガン用のホールに変わっていた。ただいずれもクラシック音楽が対象となっている。

クラシック音楽は、多分ゴシック教会などキリスト教会の空間と関係があるように思う。またこの響きと音律の純正率も関係があるように思う。BC500年、ギリシャ時代のピタゴラス音律は、いかに唸らないかを追求してできた音律であるが、それをドとミとソをあわせた和音として成立したのが純正律で、教会の中で賛美歌がきれいなハーモニーとなるように作られたのだと思う。このきれいなハーモニーをつかって曲を作り出したのが、クラシック音楽ではないかと思う。ただ正確には、純正律を進化させて、ヴェルクマイスター音律、キルンベルガ―音律、つぎに中全音律をモーツアルトが、ウエルテンペラメントはベートーベンが用いているようで、強いて言えば歴史的産物ともいえる(参考:窮理社のホームページhttps://kyuurisha.com/talkmusic-no23/)。そういう関係からかキリスト教会の鐘は、唸ることがなく、ここに神がいると伝えているような気がする。これに反してお寺の梵鐘は、音が唸ることによって、人々の願いが天国に伝わるような感じになっている。キリスト教会の内部と比較して、お寺の本堂は、残響時間が短い。日本の芝居小屋も歌舞伎や人形浄瑠璃を対象としているせいか、音楽や音声が含まれており、残響時間が短い。また日本の古民家の和室も上記に示したように残響時間が短い。日本の伝統的な空間は、ヨーロパのクラシック音楽の空間と比較すると残響時間が短い。したがってザ・シンフォニーホールやサントリーホールが出来るまでには時間がかかった。クラシックコンサートホールは、従来の日本の空間とは音響的には別の考え方が必要である。ただ多くの人が今はピアノやヴァイオリンなどのクラシック音楽に向いているが、音楽はそれだけではないということを思い出してほしい。お祭りのお囃子もかつては身近なものだったと思う。だんだんこのような音楽もまた必要になってくるような気がする。そういえば私がときどき行く東京都大田区馬込の善照寺では、1か月に一回雅楽を練習していて、催事があるときにそれを披露するとのこと。そういえば、1020日に書いた建築音響の交流の歴史その9のブログには、山口県の楽桟敷で、雅楽の公演があると書かれていた。次第に身近になってくるような気がする。

 

2024/10/26

三渓園 鶴翔閣での『手仕事に学ぶ錦秋Vol.8』という展示会

 三渓園は、外苑と内苑と旧矢箆原家住宅(合掌造り)とこの鶴翔閣(かくしょうかく)からなる。ほとんどの建物は重要文化財であるが、この鶴翔閣は横浜市指定有形文化財である。外苑は明治39年に一般に向けて開放されてたエリア、内苑は原家が私庭として使用していたエリアである。有名な臨春閣はこの内苑にある。今回展示会が行われる鶴翔閣は明治35年(1902)に原家の住まいとして建てたとのことだが、現在、様々な利用に対応可能な貸出施設となっている。

この展示会は1024日(木)から26日(土)の3日日となっていて、私が見学したのは1024()である。初日で、また平日であったのに、お客さんはたくさんいらしていた。写真:外が見える廊下の部分には、外はガラス戸が入っているが、平安時代の源氏物語の世界は、このガラス戸がない状態が普通だったように思う。月や外の庭園はよく見えるが、冬は雪もよく見えるし、寒いだろうと思う。十二単が必要だ。たくさん着ないと冬は寒いに違いない。しかし明治時代になってガラス戸が入って、冬でもかなり寒さは防げると思う。このようにすれば庭も冬でも楽しめると思う。

ところで、中央にある大池には、コイや鴨、さらにアオサギもいた。写真を撮ろうとしたら、飛んで行ってしまったが、これは多分、遠くで人がコイに餌をあげたのをついでにわけてもらおうという魂胆だ。生きているアオサギだ。アオサギの像のある目白庭園と大違いだ。

                   写真:鶴翔閣

            写真:建物入り口脇に置いてあった絨毯の一部

       写真:外をみれる廊下が広い、当時はここで楽しんでいたものと感じる。ガラス戸が現在はあるが、平安時代は、そのまま外部だったのかもしれない。空間は広く、和風のため、静だ。

         写真:畳の上に敷物が敷かれている。この部屋も外がよく見える場所だ。