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2014/06/17

ウズベキスタンの「ナボイ劇場」

2014年5月30日の朝日新聞朝刊に、
名劇場の陰 抑留の歴史  ウズベキスタン 保存へ改修
という記事が掲載された。

記事には、

「首都タシケント中心部の官庁街に、ウズベキスタン最高級の「ナボイ劇場」がある。」
「1400人を収容できるれんが造りの重厚な建物で、モスクワのレーニン廟の設計で知られる建築家シューセフが手掛けた」
「戦後に旧ソ連の捕虜となり、旧満州からウズベキスタンまで連行された約400人の日本人抑留者が建設に携わったとされる」
「劇場の側面には「数百人の日本国民が劇場の完成に貢献した」と記されたプレートがはめ込まれている」

とあり、このことをカザフスタンにいる建築家にメールで知らせた。

以前紹介したアルマティのオペラハウス(YABブログ2008/10/17)も、日本人抑留者が建設に協力したと聞いていたからである。

彼から返信があり、ウズベキスタンのオペラハウスについては、間寛平氏の動画で知っていたこと、その歴史や建築様式などについて説明があった。
許可を取って、メールを転載する。

タシケントにあるオペラハウスの件、大変興味深く拝見させて頂きました。タシケントのオペラハウスが、アルマティ同様、日本人の抑留者によって建設されたことを知ったのは、間寛平氏が世界一周マラソンにて、タシケントを訪れた動画を見たのが最初でした。
こちらの方が少しばかり建物のディテールが垣間見えると思います。
彼はタシケントの日本人墓地も訪れています。
手元にあるウズベキスタンの建築の本によると、設計者はA.Shchusev, ロシア人で竣工はビデオにもあるように1947年のようです。彼はモスクワの赤の広場にあるレーニン廟も手がけています。内装はローカルのデザイナーの手によってなされたようです。
アルマティのオペラハウスは、設計者はN. Prostakovで竣工は1941年です。こちらも内装は別のようですがローカルなのかモスクワから来たロシア人なのかは個人的にははっきりと分かりません。
アルマティのオペラハウスは、サンクト・ペテルブルグのアレクサンドリスキー劇場(1832年)の正面ファサードの構成とそっくりです。
実はタシケントはカザフスタンそしてアルマティ同様、抑留者が強制的に送られてきた場所でありまして、日本人だけでなく韓国人(正確には高麗人)も非常に多いです。
抑留者のみならず、その当時スターリンの粛清から逃れてきた多種多様の芸術家、エリートも多かったようです。映画監督のエイゼンシュタインや、革命家のトロツキーもこちらアルマティに滞在しています。実は天先生(※友人、作曲家、昨年の6月13日に89歳で亡くなった)もその一人に当たります。
キルギスはビシュケクのオペラシアターがあります。設計者はA. Laburenko、竣工は1955年です。外観はロシアにある建築同様、新古典主義の様式です。キルギスにはソビエト時代ソビエト圏内で非常に有名な国民的バレーダンサー、Bibisara Beishenalievaというダンサーがいました。



多くの日本人抑留者、さらには朝鮮人抑留者が、カザフスタン、ウズベキスタンさらにはキルギスにも強制連行されて、現在まで残る美しい施設をつくっていることに関し、時空を超えて思いをはせてしまう。

間寛平氏の日本人墓地を訪れた時の映像では、美しく整備されている墓地を見ながら、彼は墓地の碑、「永遠の平和と友好 不戦の誓いの碑 1990年6月29日」を読みあげていて、ウズベキスタン人と思いを共有している。

朝日新聞によれば、「旧ソ連での抑留者は推計で約56万1千人、抑留中の死亡者は約5万3千人に上る。抑留者のうち約2万3千人がウズベキスタン(91年独立)に連行され、劇場建設のほか運河やダム、水力発電所の建設以外に炭鉱や農業などにも従事した。推定約900人が栄養失調や病気などで死亡。」とある。

劇場は楽しむための場所であるが、戦争抑留者の犠牲の上に成り立っているのを知るとなかなか楽しめず、劇場の存在が自己矛盾になってしまう。ただ、抑留者は相当一所懸命建設したようで、1966年のマグネチュード8の大地震で市内の多くの建物が倒壊したが、ナボイ劇場は毅然と立っていて、避難所にもなったそうだ。この時日本人抑留者たちの仕事ぶりが改めて注目され、尊敬されてもいるようだ。