2030/01/01
2025/04/03
21世紀のバッハ、 東京バロック・スコラーズ 第20回演奏会 マタイ受難曲
日時:2025年3月30日(日)3:00開演、終演6:45ごろ
場所:武蔵野市民文化会館大ホール 音響反射板設置、4列分のオーケストラピット近辺を舞台に上げて設置、
出演者:音楽監督・指揮 三澤 洋史、 福音史家 畑 儀文、イエス 加藤 宏隆、
ソプラノ 國光ともこ、アルト 加納悦子、 テノール谷口洋介、バス 萩原 潤
オーケストラ 東京バロック・スコラーズ・アンサンブル(オーケストラ1 オーケストラⅡ)
合唱:東京バロック・スコラーズ(オーディションを通過したアマチュアンバー コーラス1とコーラス2)、 ソプラノ・イン・リビエノ 東京大学音楽部女声合唱団コ―ロ・レティツィア
出演者の人数が多いため、前舞台も使用している。
曲目:普通の1曲1曲の場合のコンサートと違い、第一部の第一曲から第二部の最後の第68曲まで、全体が物語になっていて、オペラを聴いているような感じだった。民衆の裏切りや告発によってイエスはとらえられ、裁判になり、死刑が宣告され、十字架に貼り付けられ、埋葬され、復活の手前までが物語である。イエスが甦らないようにと墓の前で番兵を付けて用心しているところで終わるので、聞いている人はこの後どうなのだろうと気になりながら終わってしまう。復活することは分かり切った前提と言うことなのかもしれない。この復活祭(イースター祭)は、春の今頃で、仏陀が生まれたのも4月8日とされていて、偶然だか春が新たな芽吹きを復活するのにふさわしい感じだ。
チラシの中で、三澤洋史がもっとも言いたいことは、「イエスの受難の本質」というなかに「それほどまでに人類の罪は救いがたく重いもの」、たしかにこの話はバッハ(1685~1750)が作曲したが、その実際の話は今から2000年ほど前の話で、しかも現在でもこの話があったこの地域のイスラエルとパレスチナが戦争を行っていることからも人類がいかにおろかだと言うことがわかる。しかし今まで人類は少しずつでも解決してきていることもあるといえる。
作曲者はバッハであるが、この歌詞を作詞したのは誰だろうとつぶやいたら、隣の人が本を見せてくれて、ピカンダーと言っていた。ペンネームだとも言っていた。この人は別の合唱団にも入っていて、この曲は10年気にしている曲で、とても歌うのにレベルが高い曲だそうだ。
とにかく歌手、オーケストラ、合唱団それぞれが、力の入った演奏、合唱であった。また演出も素晴らしいと思った。色々考えさせられたコンサートであった。
私の席は、前から4列目、下手側の席であったが、よく響いてよく聞こえた。また出演者が多いので、前舞台を持ち上げて舞台を広くして使っていたようだ。可動の音響反射板も使っていたので、今回のコンサートにはよく合致したホールといえた。
2025/04/02
サクソフォン&ハープ スプリングヂュオコンサート~春を奏でる~
日時:2025年3月29日(土) 14:00開演 雨でしかも寒い。
場所:玉川せせらぎホール(玉川区民会館) ※この建物は免震構造となっている。
出演:木村有紗(ソプラノサクソフォンおよびアルトサクソフォン)、宮本あゆみ(ハープ)
約400名収容 ほぼ満席
曲目は以下のプログラム参照、アンコールは、宮本あゆみさんの作曲の曲とロンドンデリーの歌(アイルランド民謡)。
このコンサートは、私が最初に入った会社の、同期の木村さんの娘さんが今やプロのサクソフォン奏者で、このコンサーがあることを紹介された。木村さんは、いまは医療経営コンサルタントとして活躍されている。
春を奏でると銘打っているコンサートの最初の曲はドッビュシーのアラベスク第1番で、波打った水面がキラキラしている雰囲気が、ソプラノサクソフォンとハープの組み合わせでいい雰囲気になっていた。サクソフォンとハープの組み合わせは初めて聞いたが、サソフォンは管楽器の中では柔らかい音がする方だが、全般的には、強いかたい大きな音の部類になるが、ハープは柔らかな響きを伴う音と思う。サクソフォンはジャズのようなリズムが強い音楽には合わせる相手にピアノはいいのかもしれないが、メロディーがきれいな音楽にはハープは大変好ましいように思った。カッチーニの「アヴェ・マリア」や美女と野獣の中の「ひとりぼっちの晩餐会」も演奏レベルが高く、しかもとても良かった。
玉川せせらぎホールは、壁は波打った板で仕上がっているが、2割ぐらいは有孔板で作られていて、天井は暗くてよく見えないが、多分黒い布で被覆されたグラスウールで吸音材のように感じた。椅子はスライディングできる椅子で、平らな床にも変換ができるようだ。とにかくサックスやそのほかのたとえばヴァイオリンなどクラッシック用の音楽に対しては少し残響が短い感じがした。
2025/04/01
人形劇 華氏451度の公演
日時:2025年3月27日(木)18:30より公演
場所:川崎市アートセンター小劇場
演者:人形劇団ひとみ座+高橋和久
元横浜ボートシアターの団員だった高橋和久さんから案内の手紙をもらい、人形劇に参加するというので興味を持って、行くことにした。何をする役割なのだろう。手紙によれば華氏451度は紙が自然発火する温度だそうだ。計算すると摂氏では220度になるようだ。ひょっとして山火事にもなりそうな温度だ。最近、ロスアンゼリス、大船渡、岡山、今治と大きな山火事があり、人家も延焼している。空気が乾燥していて、しかも風が強いことが問題である。華氏451度の主人公はファイアマンである。山火事を消す消防士でなく、実は本を率先して燃やす役割の「昇火士」である。とある専制国家では、民衆が心を煩わせないように、または反旗を振りかざさないようにすべての本を焼き尽くす部隊がいて、そのファイアマンのトップが主人公のガイ・モンターグで、本を焼き尽くすことに快感を覚えている。しかし近くにクラリスという少女がいて、道端の花や、月や月の前に飛ぶ鳥などに興味を持って、モンターグに話している。その彼女がモンダーグに燃やす前に一度でも本を読んだことがあるかと質問する。それから次第に心が変化してくる。あるとき本を持っている家に行き、その家を燃やし始めるとそこに住む老婆が本を外に置いて、火の中に飛び込んでしまう。その本は彼女にとって命より大切な聖書で、その本をモンターグは家に持って帰り、寝床に隠す。奥さんにも仲間にも不審がられ始めてしまう。人の性格や気持ちを判断する探査ロボット犬にも吼えられかみつかれるようになり、ある大学教授に本を集める業務をしながらそれを複製しようという計画を立てたとたんに、その計画が奥さんから内通されて、ファイアマンが我が家を燃やすときに、それを実況中継しているなかで、鉄砲で撃たれて死んだ。ところが死んだのは別の人で、モンターグは大学教授が逃げる方法をえていて、何とか逃げ延びることができ、仲間とあって、仲間の頭にそれぞれ物語を詰め込んで逃げる話だ。何となく恐ろしい、また現実にもありそうな話にも見える。
私はかつて技術者だったので、物理学などの科学的な本や技術的な本が無くなることはまず業務に差し支えることがすぐわかる。鉄砲や大砲やミサイルだって技術的な本が無ければ作れないと思われるので、体制側にいる人だけでも本は必要で、それを読み下す人も、また今後そうなるだろう人も確保しておかないと難しい。敵国の情報も必要だと思われる。文学的な本とか哲学的な本とか、政治的な本も現政権にとって反する本であっても、それが現政権的でないことを理解すためにはそれらの本もなくすことは、現実的には難しいと思われる。
燃える火や爆撃の火は赤い布で印象的であったが、空襲の爆弾のスピーカから音があまりにリアルなので、人形の世界や布による火の効果に合わせて、例えばドラムの音のような人為的に作った効果音でもよかったようにも思う。人形もモンターグとクラリスという子供と大学教授の大きさをもう少し変えた方がいいのではないか。ひとみ座は乙女文楽も行っていて何度も見に行っている。人形の一人遣いの人形浄瑠璃である。人形に感情が移入してしまうほどだ。高橋さんは人形使いの人としてではなく、人形の背後にいつもいて、モンターグがまともな人間に変化していく過程で人形から少しずつ分離し始める役割をしている。なるほどと感じた。
劇場の規模は200名程度で、側壁は前の2/3部分は木毛板に塗装を、残り1/3は有孔板としている。天井は黒く塗られているが、多分吸音材仕上げと思われ、演劇としては好ましい仕上げとなっていた。声も明瞭であった。この公演は本日の3/27(木)から3/31(月)までの7回公演となる。
2025/03/24
建築音響の交流の歴史 その13 戦争と音楽
先日ウクライナの支援コンサートがあり、ヴァイオリンとピアノのよく知った曲のほかに、神父さんがマイフェアレディの中のMy favorite thingsをジャズ風にピアノで演奏したのち、戦争のあるウクライナから日本に避難をしてきた人たちが合唱を行った。その合唱からは「頑張るぞ!!」という意志がよく伝わってきた。また観客はその意志に気持ちとして共感した。
それと似たような気持ちになったのは、横浜ボートシアターの演劇「小栗判官・照手姫」で、人々がかわるがわる「えいさらえいさらえいさらえい」といいながら餓鬼を熊野に向かって引いていく場面で、聞いている人はそれに対して「生きろ!生きろ!」と聞こえてくる。戦争は人の生死にかかわってくるので切実な感じがよくわかる。
音楽は楽しい感情や悲しい感情を表現することが多く、戦争と音楽は一般的には相反する概念の様であるが、逆に音楽が戦争を遂行する場合もありそうなので、主に戦争を遂行する場合を主に書いてみた。特にリズムに関係しているかも。
最初に浮かぶのは「ハーメルンの笛吹き男」で、ハーメルンで昔 ネズミがはびこって、住民が苦労しているときに、ネズミを退治するので、金貨を一袋くださいと村長に言って了解をえたら、その男が笛を取り出し、町中を歩きネズミを連れ出してくれました。大成功の結果だったが、村長はお金を出し渋ったら、今度は再度笛を吹いて子供たちを連れて行ってしまって2度と戻ってこなかったと言うことです。小さなころ話を聞かせられて、言うことを聴かないとだれかが連れて行ってしまうよと脅された。おとぎ話としてはいい効果があったかもしれないが、何となく恐ろしい話で、何らかの戦争が影響しているような気がする。どんな音楽かは分からないがとにかく聞きほれるような美しい音色ではなく、人を動かす規則正しいリズムのような感じではないかと思う。
童謡の「鉞担いだ金太郎」は、鉞(まさかり)は丸太を削る道具だし、クマにまたがりお馬の稽古も、子供の元気な様子を描いているようだが、とにかく戦いのためには勇ましいことがいいという方向を示しているようにみえる。
乱拍子は、白拍子というリズムのそろった拍子に対して、リズムを乱して表現する方法で、13世紀、歌謡および舞にて拍子のついた白拍子・乱拍子が流行した。今では乱拍子という言葉は能では唯一残っているのは、道成寺のシテの白拍子が舞う踊り方で、足の使い方に特徴がある。実は身近な驚神社の祭りのお囃子の中にも一歩一歩笛を止めるような乱拍子という笛の吹き方がある。乱拍子の流行った時代は、保元・平治の乱に始まる源平合戦や南北朝の内乱、応仁の乱、そして戦国時代と戦乱がつづく時代だったので影響を受けたような気がする。
白拍子と乱拍子というブログ(http://yab-onkyo.blogspot.com/2022/05/blog-post.html)2022.05.04に示している。
陣太鼓は多分戦国時代に、戦の合図に用いられたものをいうので、戦争に深く関係しているが、現在はこの和太鼓は御陣乗太鼓(能登の名舟のごじんじょだいこ)や鬼太鼓座(おんでこざ)などで音楽として活躍している。最近の和太鼓はリズムのノリがいい感じだ。
軍楽隊の始まりである鼓笛隊は安政3年(1856年)に長崎海軍伝習所で、オランダ人から艦船の操縦法とドラムのレッスンが始まった。最も古い鼓笛譜が、安政3年(1856年)に「西洋行軍鼓譜」として出版された。その数年前、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)アメリカのペリーが1852年11月24日東海岸を出発し、大西洋、南アフリカ経由で浦賀沖に現れた。安政元年3月3日(1854年3月31日)日米和親条約、安政5年6月2日(1859年)日米修好通商条約締結、安政6年6月2日(1859年7月1日)横浜開港。(2009年横浜開港150周年記念祭)。当時アメリカでは1861年から1865年まで南北戦争。世の中は動乱が始まったようだ。明治2年に薩摩藩は横浜へ三〇余名の青年を送り、イギリス海軍第10連隊の軍楽長フェントン(John Williams Fenton)から伝習を受けさせた。この軍楽手を中心に、明治4年5月、明治政府 兵部省は各藩の鼓手を加えて軍楽隊を創設した。これに先立ち1870年(明治3年)、イギリス公使館護衛隊歩兵大隊のジョン・ウィリアム・フェントンによって最初の「君が代」が作曲された。フェントンに作曲を依頼したのは薩摩藩。音楽のリズムによって、全体の大きな軍隊が一体の動きをすることができることは、場合に寄っては長所でもあるが、一糸乱れずの動きは横から見ると不安になる。このフェントンの作曲した君が代は、古今和歌集の君が代と合わなく、現在の君が代は宮内庁の雅楽課の人たちからの公募で、フランツ・エッケルト(ドイツ)が伴奏を付けて雅楽課の林廣守作曲と言うことになったようだ。歌詞のもともとは古今和歌集からとったようで、勇ましい感じの曲ではない。今ではお相撲やスポーツの国際大会の時に演奏されるのを聴いているが、どちらかといえば、しっとりとした落ち着いた曲のようで、勇ましい曲ではないと感じる。
ヨーロッパで始まったクラシック音楽はドイツで始まり、ウィーンで花開き、東欧に重心が移動し、さらにサンクトペテルブルグに移動しているように感じる。チャイコフスキーはサンクトペテルブルグの大学で法律の勉強をしたのち、音楽に転向し、モスクワで活動をした。
ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)はドイツのライプッチィヒで活躍した。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)はドイツのハレで生まれイギリスで活躍した。バロック時代の作曲家となり、その後はクラッシック音楽の中心ウィーンに移動する。フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)、ヴォルガング・アマデウス・モーツアルト(1756~1791)、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン(1770~1827)、フランツ・シューベルト(1797~1828)などウィーンを中心に動いていた。フレデリック・ショパン(1810~1849)はポーランド生まれで、やはり主にウィーンで活躍した。ロベルト・アレキザンダー・シューマン(1810~1856)ドイツ、フランツ・リスト(1811~1886)ハンガリー生まれ、ヨハネス・ブラームス(1833~0897)ハンブルグ生まれ、アントニン・ドヴォルザーク(1841~1904)ボヘミア プラハ近郊生まれ。グスタフ・マーラー(1860~1911)チェコ、映画「ベニスに死す」の交響曲5番で甘美なメロデイーで有名、今までの曲は人間の気持ちや意志を表現するような曲であったが、次第に映像的なメロデイーに変化していき、しかも作曲の中心がロシアに移動し始める。以降はロシアの作曲家を上げる。ムソルグスキーは「展覧会の絵」で有名であるが、やはり絵画的で感覚的なメロデイー、チャイコフスキーも「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」でロマン的な美しく、華やかなメロデイー、ラフマニノフも美しいメロデイー。アレキサンドル・ボロディン(1833~1887)、モデスト・ペトローヴィッチ・ムソルグスキー(1839~1881)、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840~1893)、リムスキー・コルサコフ(1844~1908)、セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)、イーゴリ・ストラビンスキー(1882~1971)、セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)、ドミートリ―・ショスタコーヴィッチ(1906-1975)、アルフレート・シュニトケ( 1934~1998))。チャイコフスキーが活躍していたころは明治元年(1868)ごろで、世の中が落ち着かない状態となっていることがわかる。その後 第1次世界大戦が1914年に起こり、ロシアでは1917年2月にサンクトベルクで帝政が崩壊し2月革命が起きたが、その後、社会主義革命として、10月革命が起きた。1934年はスターリンの大粛清があった年である。ショスタコーヴィッチは1906年に生まれ、この10月革命は生まれた後におきた。家庭画報.comには「ソ連体制下での危機から作曲者を救った名曲」とあり、「最も人気が高く、頻繁に演奏される『交響曲第5番』は、スターリン体制下のソ連において、窮地に陥ったショスタコーヴィチを救った名作です。オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』などが体制の意向に外れた作品であると批判されたショスタコーヴィチは、この批判を素直に受け止め、古典へ回帰した作品を生み出すことに全力を注いだのです。その結果生まれた作品『交響曲第5番』は絶賛され、ショスタコーヴィチの危機を救うとともに、その名を全世界に広めるきっかけとなったのです。」オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は1936年、この交響曲5番は1937年作曲で、大砲が打ち合う激しく勇ましい感じの音と悲しそうな部分が混ざっており、一見戦争を遂行する激しい音とリズムで、体制を支持している反面、悲しそうな部分で反戦の気持ちを表しているような内容で作曲家が苦労したことが何となくわかるような曲である。
John LennonのIMAGINEという曲も、音がまるでランダムに機関銃を打っている音に聞こえる。多分戦争を想像してみろ!という曲だろうと思う。けっしていいことは無いぞと宣言している感じだ。
音楽と戦争に対して、さまざまな場合を書いてきたが、正確に言えば、戦争に対して音楽の音色やリズムはそれぞれ関係があるともないともいえる。それよりは、結局作曲者の意志に関係することが最も大きいかもしれない。今後ともウクライナやパレスチナのコンサートがあれば、生きろ、生きろと応援したくなると思う。
古代エジプト展についての記事が朝日新聞に載った。私もここに見に行ったが楽器についての遺跡は見当たらないと思っていたが、石板に彫刻されていたのがあったようだ。内容は王が女神に楽器で何らかのことを多分平和や豊作をお祈りしていたような気がする。音楽はどちらかといえば、戦争より、このような目的の方が似合った感じだ。
2025.03.06 朝日新聞朝刊の古代エジプト展の記事
2025/03/21
八王子の大学セミナーハウス見学
日時:2025年3月18日(火)
松本さんの車で、我が家に10:10に迎えに来てくれて、11時半ごろ最初の目的地である八王子の蕎麦屋車屋に行った。場所は八王子市越野3-10で、松本さんの選定である。車屋の建物は会津只見地方の150年余りたった住宅を移築したものとチラシに書かれていた。茅葺きの屋根の上に銅板を上葺きして存在していた。また天ぷらも蕎麦もこだわりぬいてつくったようでおいしかった。
大学セミナーハウス
場所:東京都八王子市下柚木1987-1
設計:吉阪隆正+U研究室
昼ごはんの後次の目的地の大学セミナーハウスに行った。ホームページによれば最寄駅 JR八王子駅・京王線北野駅・京王相模原線南大沢駅からバスと書かれている。大学セミナーハウスの設計は当時早稲田大学の吉阪隆正とU研究室で、八王子市下柚木に1965年に開館した。吉阪隆正は1950年から2年間、コルビジェのところで働いていたとのこと、そこから帰ってきてからヴィラ・クックを立てたようだ。竣工は1957年(昭和32年)。それから八年後に大学セミナーハウスが出来た。まず本館に行って、敷地の案内図をいただいた。本館は上下逆三角形の建物で大変印象的な形をしている。それを写真に示した。松本さんも大きさの比較のため?に入ってもらった。外壁はコンクリート打ち放しのままで、型枠のギザギザの面も型枠同士の間のわずかな隙間にもコンクリートの荒々しい感じが残っている。建設から60年たっているが、傷んでいないように感じる。入り口の庇はまるで河童のくちばしのようだ。次の写真は、この建物の最上階にある多目的ホールである。松本さんに話をしてもらったらやはり、声が聴きづらい感じだ。仕上げがほとんど音の反射性の材料でできている。椅子もプラスチックで出来ているので、これも反射性だ。多分天井が高くないので満席になれば人が吸音してくれるような気がするが、そうでない場合には座布団などの吸音材があるといいように思う。さらにその次の写真はこの建物の断面の模型である。中央に階段を設け、その周りに部屋を作り、最上階にはこの多目的ホールがある。それぞれの内部空間は天井が低く、内部空間の美しさというような意識的な空間は無いように思う。
この建物の4階から黄色の橋を使って、講堂に向かった。講堂ではハンドベルの練習をしていた。天井には多分音の拡散板がぶら下がっていた。部屋全体的に音の反射性でできていて、ハンドベルの音はきれいに響いていた。オーケストラなどの練習にも好ましい響きが得られるような気がする。ただこの部屋も主目的は講堂と有るので話声の明瞭性が重要で、この場合も座布団が必要な気がする。窓は、外部はスチールサッシでできていたが、内部にペアガラスの入ったアルミサッシが多分遮音性向上のために設置されたようだ。窓を二重窓にしたと言うことは、ある程度室内で音量の大きな演目があるのだと思う。この後松下館とかセミナー室を見て、さくら館を通り、複雑な構造の長期館にいき、国際館に行って、本館に戻り、図面を見せてもらって帰った。私はほぼ4年前に脳梗塞を患い、歩くことも不自由をしていたが、本館の上下の移動や講堂やそのほかの施設の移動など、エレベーターはもちろんなく、階段などによる移動、しかも手すりのないところもあった。障碍者も対象にするとしたら、今後やらなければいけなそうなところもたくさんあるような感じだ。ただ施設としては大変魅力的で、逆三角形の本館は地面から生えてきたような生物的な印象で、非常に興味深い。またこれを見るだけでも楽しくなりそうだ。
旧白洲邸、武相荘
その後、帰る途中にある旧白洲邸、武相荘(ぶあいそう)にいった。場所は町田市能ケ谷7丁目にあった。すでに3時半になっており、ミュージアムが見れたが、3時55分でカフェに行ったら、本日は閉店ですと言われ、残念ながらそこで本日の印象などを話し合えなかった。武相荘の武は武蔵、相は相模を用いて、「ぶあいそう」となづけたようだ。そのカフェは意味どおりのまま「ぶあいそう」だった。昭和18年(1943)に鶴川に引っ越してきて、その後60年余りそのままの形を残してきたようだ。2001年に旧白洲邸を開館したと書かれていた。茅葺き屋根の民家が白洲次郎・正子の家と考えると、ポルシェを乗り回していた人に対しては考えにくい建物であるが、この建物も本物志向の彼の人柄を表現しているのかもしれない。仕方がないので更に帰り道にガストによってコーヒーを飲んで、おしゃべりして帰った。
2025/03/19
共に求めよう 市民による市民のための山下ふ頭を~集い
日時:2025年3月17日(月)午後6時30分~午後9時
場所:横浜市開港記念会館 1号室 ほぼ満席
主催:市民による市民のための山下ふ頭を求める会(準備会)
内容は、8市民団体による山下埠頭再開発に関する提案と応援メッセージとして神奈川大学法学部教授の幸田雅治氏がONLINEで参加、および緑区桐ヶ丘連合自治会の塚田順一氏などの発言があった。幸田氏は山下ふ頭再開発委員会委員で、幸田さんの委員会での発言が話された。中で気になるのは「この委員会の当初のスケジュールでは地域の関係者等検討委員会で、事業計画案を検討することになっていた」が、2024年2月のスケジュールでは「有識者等検討委員会では、方向性のみ検討し、事業計画案は市が作成することに変わった。」
幸田さんが意見として委員会の構成員として市民が参加すべきことなどを述べ、その中で横浜国立大学名誉教授の北山委員も賛成のことを述べてくれていたが、市から計画案の最終は市が策定すると言われたままになっている。市の現在の事業委員会は林市長当時のままの組織であって、住民運動によってIRが計画の中に無くなっただけで、事業計画の中身はほとんど同じような内容で考えているような気がすると。しかも市民には意見を聴くだけで、単に聞いたという証拠を残すだけになるような感じである。私は横浜船劇場がこの山下埠頭の再開発の中に係留する場所を確保されるといいと思っているものであるが、現在のランドマークを含むみなとみらいの業務地区のように超高層ビルが林立するような状態の中では、艀でできた船劇場の立地は相当怪しくなってしまう。やはり基本は公園のような雰囲気の中で、船劇場等が文化財として存在することが好ましく感じる。このようにすれば山下埠頭も山下公園とのつながりがよく、市民が楽しむ空間になると感じる。
写真:夕方6時半ごろの横浜市開港記念会館(中央レンガ造の建物)